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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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334/705

あるスラム

 浅黒い肌、頬に土汚れを滲ませ歩くその少年、チャカが住むのは典型的なスラム街だ。風が吹けばゴミの臭いが鼻をつき、茶色く汚れたビニールの切れ端が宙を低く舞う。

 ここでは鼻緒の切れたサンダルも貴重品。底に穴さえあいていなければ、ちょっと修理するだけで、そこらじゅうに散乱する割れた注射器から足裏を守れるからだ。

 チャカの主にゴミあさりで生計を立てているが最近では成果が少なく、徐々にスラム街の外れ、活気に満ちた街まで出張している。そこで彼はクズ鉄、ペットボトル、ビンなどを拾い集め回収業者に売り、日銭を得ていた。食べ物を直接拾えれば万々歳だ。

 しかし、最近ではどこもかしこも軍警察の目が光っていて思うように動けなかった。街でのゴミあさりのほか、無許可での物売りや物乞いが見つかれば容赦なく連中に捕らえられ、檻の中行きだ。浄化作戦とでもいうのか、国が変わりつつあるのをチャカは肌で感じていた。


「チャカァ、元気かぁ?」


 背後から声がし、チャカはゆっくりと振り向いた。チャカのような孤児たちを狙っているのは軍警察だけではない。


「他の仲間はどうだぁ?」


 黄色い歯を見せニタリと笑う四人の男たち。連中はこの辺りを仕切っているギャングの一員だ。

 チャカの頭の中で三人の仲間たちの顔が浮かんだ。彼らは言う。「チャカ、逃げろ」と。


「おい!」


 チャカはせっかく集めたゴミを入れた麻袋を投げ捨て走り出した。

 連中が踏み、瓶が割れた音がしてチャカはグッと奥歯を噛み締めた。今日の成果が惜しい思いも当然あったが、連中に捕まるよりマシだ。

 チャカは墓石のような家々の合間を縫って走った。この辺りは来たことがない場所だがスラム街はどこも似たような景色だ。土地勘があろうとなかろうとチャカには奴ら、ギャングたちに捕まらない自信があった。汚かろうが地を這い、どの穴も潜り抜ける覚悟が大人たちにはない。


 チャカは逃げ続け、やがて開けた場所に出た。そこはチャカの見知らぬ景色が広がっていた。人けのない空き地に建設途中の建物がいくつか見受けられたが、開発を断念し、放置されていた。畦道の向こう、観音開きの門は片方が外れ、チャカの胸ほどの高さの茶色い雑草に埋もれている。役立たずのその門の向こうには大きな屋敷が堂々と立っていた。

 遠くの怒号に背を押され、チャカは畦道を横切り、門の中へ入った。

 屋敷のドアに鍵はかかっていなかった。尤も、窓が割れていたからどの道入ることに苦労はしなかっただろう。

 ここも廃墟。施工途中で投げ出された豪邸だ。クーデターで政権が変わる、混乱の前の産物。産まれ損なった胎児。チャカより年上だろうか。

 チャカは何気なく壁を叩いてみた。温かみのない、無機質な音が響いた。

 奥へ進むと一本の廊下。コンクリート剥き出しの床に水溜りが点在していた。ところどころに屋根がなく、見上げれば淀んだ空が出迎えた。


 チャカは濡れてない箇所に腰を下ろし、ようやく一息ついた。

 目を閉じると自然と鼻と耳が冴えてくる。黴臭い。汗臭い(これは多分、自分だ)風の音。水が滴る音(今朝のにわか雨の名残だろう)ネズミの声……ネズミの……悲鳴。


 チャカは目を開け、廊下の先にあるドアのない部屋を見つめた。ネズミの声がし、そして消えたのはその辺りだった。

 静寂が広がり、チャカの心臓の音だけが激しく響く。


――バチャ


 突如として、水溜りに黒い塊が飛び込み、水しぶきが上がった。

 チャカが目を凝らし見つめるそれはずるずると部屋の中に戻ろうとしていた。


 ――髪の毛だ。


 まるで投網のように部屋の中から頭を振り、水溜まりに投げ込んだのだ。

 そう理解した途端、チャカの頭の中で眠れない、と仲間たちと開き直ってした怪談話をした夜が甦った。怪談話に出てくるそのほとんどが女の幽霊で、リーファはそのことに不満を抱いていたが、チャカはそんなこと気にする余裕もなく、どれも震えあがるほど恐ろしかった。とくに、長い髪の毛の女の幽霊の話が。


 ――バチャ 

 

 今、それが、あるいはそれ以上の恐怖がこの現実に、目の前に現れようとしていた。

 再び水溜りに投げ込まれた髪の毛。跳ねた水が壁に散る。そしてズリズリと、今度は水溜りに引き込まれるように部屋の中からそれは出てきた。

 薄汚れた白く痩せた手。衣服は身に纏っておらず丸出しの乳房に色気はなく、それが生者のものではないとチャカは直感した。

 皮膚がところどころ蝋燭が溶けたように垂れ、顔はボサボサの濡れた髪に覆われ見えない。しかし、その口元にあるネズミがチャカのほうに顔を向けていた。

 ただし、ぬいぐるみのように静かだった。と、今突然ビクンと動いた。しかし、それは女が顎に力を入れたからだろう。グチリと音がした。

 次いで空気が抜ける音が。ただ、これは呼吸を忘れていたチャカが無意識に息をした音だった。脳に酸素が行き渡り、ようやくチャカの頭の中に選択肢が浮かんだ。

 死ぬか逃げるか。チャカには慣れ親しんだものだ。死を選んだことはないが。

 部品が抜かれたようにチャカは足腰に力が入らず、ただゆっくりと音を立てないように後ろに下がった。

 それの口の中のネズミが交尾中のように上下に身動きするのを見つめながらチャカは体の感覚を徐々に取り戻していき、立ち上がることができた瞬間に背中を向け、走り出した。

 振り返らなかった。そうすることを考えもしなかった。にもかかわらず目の前に飛び込んできた薄汚れた指がチャカから光を奪った。



「う……」


 意識を取り戻したチャカの目の前、開いた天井の向こうに広がる空は赤く染まっていた。 

 チャカは血を想起し、血の気が引いたが、なんてことはないただの夕暮れだった。チャカは飛び起き、自分の顔をペタペタと触った。

 生きている。多分、生きている……。チャカは胸、心臓の上に手を置いた。激しい鼓動にほっとしたが、あの怪物を思い出すとさらに激しくなった。


 チャカは屋敷から飛び出し、仲間たちのもとへ走った。さっき見たものは全部、夢だった。あの場でそう笑い飛ばすにはあの屋敷は冷たすぎた。


 ねぐらに到着したとき、チャカはようやく自分の片足のサンダルがないことに気づいた。足の裏は何箇所か切れて、血と泥が混じっていた。

 しかし、どうでもよかった。代わりのサンダルは何足か拾って中に置いてあった。食料や他に使えそうな物もそうやって保管してあるのだ。

 チャカたちのねぐらは窓もドアもないコンクリートの家。建築途中だからだ。永遠の、だが。見つけたとき、外壁は意外にも白くて綺麗だったが、それが似つかわしくないため、仲間たちと落書きを施した。

 そういったイベントがここでの暮らしに腐らずにいられる大事なことだということをチャカは理解していた。


 チャカがドア代わりの板をどけ、家の中に入ると、物陰からカルが顔を出し、にっこりと笑った。その歯の抜けた笑顔にチャカは安堵し、疲れが一気に襲ってきた。

 チャカは風船が空気が抜かれたようにその場にへたり込み、駆け寄ったカルがぺちぺちと顔を叩くのをめんどくさそうに手で払った。ただ、二人とも笑顔だった。


「……チャカ、おかえり」


「あ、ただいま。リーファ」


 カルに続き、自分を出迎えたリーファを見た瞬間、チャカの頭にあの怪物の姿、それも乳房が浮かんだ。その理由がチャカにもわからず、汚泥をかき混ぜたような嫌な気分になった。

 しかし、リーファが浮かない顔をしていることに気づくと、それもどうでもよくなった。


「……クウ兄弟が捕まったって」


 どっちに? チャカはリーファにそう訊ねようとして、やめた。

 どっちにしろ同じことだ。軍警察とギャング。子供が捕まれば、その末路は実験台か奴隷、あるいはその両方だ。子供に限らずここら一帯にまともな人間はいない。常に油断はできず、大人でさえ攫われる。ここで暮らす彼ら四人の親もその犠牲者だった。

 今、この辺りに残っているのは孤児と薬物中毒者とギャングだけ。

 その薬物中毒者も数を減らしている。噂によるとここら一帯を開発しようという話らしい。どうせ頓挫するとチャカは思っていたが、中途半端にやって人を踏みにじるのは奴ら大人たちの得意なことだとも思っていた。

 だからいずれ、ここも危なくなる。チャカはリーファに「ルイは?」と訊ねようとして躊躇した。ルイは恋敵だ。リーファにルイの姿を思い浮かべて欲しくなかったのだ。それに自分が追われている間に、二人でどうしていたかなんてこと耳に入れたくはなかった。尤もリーファは二人の気持ちに気づいていないだろうが。


「チャカ? 帰ったのか」


 階段を下りてきたルイは、座り込んでいるチャカを見て、また弟分が何かやらかしたなと顔を曇らせた。

 この家では四人の孤児が暮らしている。歳の順に、ルイ、リーファ、チャカ、カル。ルイは年長者らしく、全員の行く末を案じていた。チャカはルイがいつの間にか勝手にリーダーらしく振る舞っていることを気に入ってはいなかったが、頼りにもしていた。時に、軍警察やギャングとも取引をし、食料を調達してくる度胸と手腕には敬意の念さえ抱いていた。

 しかし、それも最近は難しいらしい。ここら一帯の開発の噂が現実味を帯びているということだ。


「チャカ、奴らに追われたのか?」


 ルイが訊ねた。


「ああ、でも大丈夫。撒いた」


 あの屋敷のことは話さないほうがいいとチャカは考えた。話したところで臆病風に吹かれたと思われるだけだ。怪物を鮮やかに撃退したと改変してもいいのだが、ルイにはこれまで大抵の嘘を見破られているのでやめておいた。


「引っ越そう」


 そう言ったルイに対して、自分が撒いたと言ったのに信用していないのか、とチャカは少しムッとしたがそうした意図はないようだ。

 ルイは腕に怪我をしていた。昨日まではなかった傷だ。ルイも奴らに追われていたのだろう。同情と仲間意識が芽生え、チャカは黙って頷いた。

 移動するなら早いほうがいいが問題はどこするかだ。すでにギャングたちはここだけじゃなく、他のねぐら候補にも目星をつけていることだろう。静かで安全な夜が欲しかった。

  三人(主にリーファとルイが)意見を出し合う中、チャカは黙り、迷った末に口を開いた。



「いい場所じゃないか! チャカ!」


 ルイがチャカにそう言った。リーファも「ほんとね! すごいよチャカ!」と笑顔で同意した。

 結局、チャカはあの屋敷を提案した。あの出来事は疲れて寝入った自分が見た夢。そう考えた。いや、そう思いたかった。ただ、この廊下の奥へは足を踏み入れる気はせず、探検気分になっている他の二人をどう止めればいいものか頭をひねった。

 そう二人。カルはしきりに何かを気にしているようだった。


「なあ、カル。何を気にして――」


「ねえ、チャカ! 見て見て、ほらスポットライトみたいでしょ?」


 リーファがそう言い、月明かりの下、一際大きな光の輪の中でくるりと回ってみせた。

 白く、幽霊みたいだと一瞬思ったが、そこに嫌悪感などはなかった。

 

「ここは毎晩、舞台になりそうだな」

 

 と、ルイが笑って言った。チャカはそれは素敵なことだと思った。とても。


「いいねぇ。招待してくれよ」


 突然、湿った声が四人の耳に届き、一瞬で火花とともに空気が弾けた。


「カル!」


 倒れ込んだカルのもとへリーファが駆け寄り、カルの頭を膝の上に乗せる。

 ルイが前に進み出ると、ギャングチームのリーダー、シャウが硝煙香る銃口を向けた。

 屋根のない部分から降り注ぐ月明かりが、シャウの顔を不気味に照らし出し、ルイに悪寒を走らせた。

 シャウの後ろには男が四人いた。昼間に自分を見失ったあと、ここに戻ってくると張っていたのか、それともずっと後をつけてきたのか。チャカはひそかに後者であることを願った。


「大人しく来てもらおうか。そのガキも手当てしてやるよ」


 シャウがそう言うと、カルが苦しそうに咳き込んだ。このままでは長くは持たない。そのことがルイとチャカの闘争心を削いだ。

 尤も、シャウにはカルを助けるつもりなど毛頭なかった。全員を車に乗せて、死んだら途中で車の窓から放り捨てるつもりだった。

 チャカたち三人はその真意にまだ気づいていない。ただカルを治療したそのあと、自分たちがどうなるかは知っている。今、大事なのはこの四人で、目の前の五人のギャングからどう逃げ切るかだ。

 ルイはどうにかシャウの銃を奪えないか考えていた。

 従順な振りして近づくか? 他の四人は銃を持っていない。持っていたら、奴らもニヤニヤ笑っていないでこっちに銃口を向けているはずだ、と。

 ルイの予測は正しい。銃も銃弾も貴重品だ。たとえギャングと軍警察が繋がっていると言っても立場は圧倒的に軍警察が上だ。

 自分たちの背中に銃口を向けられる可能性があるのに、そう多く、お目こぼしされるものではない。だからシャウも銃弾を無駄にはしたくなかった。

 ただただカルの身を案じるリーファ。静かににじり寄ろうとするルイ。一方でチャカは、音を聞いた。

 カルの吐血混じりの呼吸の間に、ひたひたとそれは自分たちの後ろからこっちに向かってきているようだった。


「おい、チャカ!」


「ははっ! いいぞ」


 チャカは両手を上にあげ、一歩、二歩と前に進み出た。

 シャウはニヤリと笑い、チャカを賢明だと称えた。銃口はルイに向いたままだ。依然として、警戒すべきは子供らの中で最も年上の者だと考えていた。

 チャカにはそれがわかっていた。


「はははっ、ああああ!?」 


 シャウの叫びが屋敷に響いた。チャカがシャウの銃を持っているほうの腕に飛びつき、噛み付いたのだ。

 シャウは罵り、唾を垂らし、チャカを殴りつけた。

 意識の外からの突然の攻撃に、冷静さを欠いたように見えて、シャウはルイのことを警戒したままだった。

 意表を突かれたとはいえ、所詮はガキ。すぐに引き剥がせる。それに後ろから仲間たちも駆け寄ってくる。そう考えた。

 だからルイが一歩進み出たこともシャウは気づいていた。来れば蹴り飛ばしてやろうと軸足に力を入れた。

 しかし、ルイのさらにその奥の闇から飛び出したそれに反応することまではできなかった。

 伸びた両腕がシャウの顔を掴み、骨ばった足がシャウの胸を突いた。

 シャウは倒れ、そしてその目で見た。髪の毛で埋もれた顔の中に暗闇が広がっていることに。

 それが大きく開けた口だと気づいたのは鼻にキスされた瞬間だった。


「ああああああああぁぁぁ!」


 シャウは叫びながらも、怪物の歯が自分の鼻の肉に食い込んでいく音を体で聞いていた。

 仲間たちが駆け寄り、怪物を引き剥がそうとしたが、シャウが銃の引き金を三度引いたことで、彼らは流れ弾を恐れ、その場に踏み止まった。

 銃弾の一つは座り込むリーファとカルの横の壁に当たり、床に転がった。

 狙いが定まらないのはチャカがこの間も必死にシャウの腕に噛み付いたままだからだ。そして、ルイはシャウの四人の部下たちが躊躇する隙に、シャウの手から銃を奪い取った。


「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」


 シャウの絶叫が今宵、最高点に達した。

 ムカデが石の下に入るように汚れた指がシャウの目の中にズプリズプリと入っていったのだ。


 シャウは痙攣したあと、パタッと動きを止めた。

 ルイが奪った銃を、シャウの仲間四人に順に向けると四人は、一歩引いたあと、脳内で損得を計算し終えたのか踵を返して逃げていった。


「チャカ……チャカ」


 チャカはルイの声でシャウの腕からようやく口を離し、その女を見つめた。


「化け物……」


 ルイが女に銃口を向けた。

 だが、それをチャカが制した。


「……ママ」


 チャカが女に向かってそう言った。

 チャカ自身驚くくらい、優しい声だった。


 無論、チャカは目の前のそれが自分の母親ではないことは知っている。過去にその死に様を見たのだから。ただ、これは誰かの母親だ。子供と引き離され、陵辱され実験、拷問、薬漬けにされ、ここに流れ着いた。

 よくある話だ。このスラムでは。女はシャウから離れると月明かりを避け、闇の中に身を沈めた。

 彼女は去り際に、か細い声を上げた。チャカには彼女の心が一時だけかもしれないが、安らぎを取り戻したのだと感じた。その音が空気に溶け込み、水が滴る音に上書きされたあとは、あれはただの呼吸音だったかもしれない、とも思ったがそう信じた。


「カルが……」


 リーファの涙に濡れた声がカルの最期が過ぎたことを二人に伝えた。


「カル……」


 チャカとルイはカルに近寄り、四人は抱き合った。望んでいた静かで安全な夜が手に入った。だが、すすり泣く声がチャカの耳に痛かった。

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