魔性の卵
小学校教諭、荻原康生が問題の少女(まだ未成年のため当然ながら実名を伏せ、少女Aとしておく)と出会ったのは春。自身が初めて受け持った四年生のクラスでの顔合わせの場だった。
彼はそのときの少女Aのことを『腐ったジャガイモの中に咲く白色の花』と表現していた。ゆえに彼はそのときすでに少女Aのことを特別視していたと思われる。もしかしたら、少女A自身もそれを理解、いやそう仕向けていたのかもしれない。尤も彼の話の信じるならば、だが。これより先は彼の言葉で綴ろう。
あの日……そう、あの日の放課後。僕は受け持ったクラスの教室に向かっていました。万年筆を教員用の机に置き忘れたと思ったからです。婚約者から貰った大切なものです。
別に、面倒だし万年筆なんて使ったりしないんですけど、お守り代わりにいつも胸ポケットに入れているんです。時々、机の上に出したりもしてたので多分そこにあるかと、そう思っていました。
僕が教室に入ると、白いカーテンがふわりと風になびきました。お日さま、花、シャンプーと順に香り、そして彼女は……ああ、窓の傍にいました。ええ、あの子です。
一度も染めたことない黒髪が、まあ小学生ですからそれは当然かもしれませんが、その黒髪も風になびいて、教室の入り口まで甘い匂いを届かせたのです。
濃紺色のノースリーブのワンピースから出る白い腕が太陽の光に照らされ眩しく、白い襟元と肌の境を曖昧にし、広く露出しているように見えました。
僕が立ちすくんでいると彼女が振り返り、僕に微笑みかけてくれました。
そして一歩、彼女が踏み出し、日の光の下から出ると濃紺色のワンピースが影で黒くなり、一瞬だけ喪服に見えて僕は少したじろぎました。
その大人っぽさ、儚さ、色気に。でも、いつの間にか、そう引き寄せられるように僕も彼女に近づいていて二人、自然な距離で会話を始めたのです。
「先生、どうしたの?」
「い、いや、忘れ物をして」
「先生なのに?」
彼女はくすくす笑いました。その仕草、あぁ完璧と言っていいほど上品で、僕をからかうような台詞なのに。せいぜいくすぐるようなもので、そこに子供特有の嘲り、見下し、あと大人のような醜さや嫌味ったらしさなど一ミリもありませんでした。
僕はへへへと笑いながら自分の机に目を向けました。彼女から目を逸らしたかったのだと思います。強く、引き込まれそうな瞳、そのそばの悪戯っぽいほくろ。でも
「これー?」
彼女の声に僕が視線を向けると、彼女が僕の万年筆を自分の顔の前で持っていました。親指と、人差し指で摘むようにして、そしてフリフリと動かし始めました。ほら、鉛筆がぐにゃぐにゃに曲がって見える遊びあるでしょう? それをやろうとしていたのです。
でも僕が目が行ったのは彼女の柔らかそうな二の腕でした。細身で、でももちもちしてそうで。そしてその先の指に視線を戻すと、すごくそれがすごく……。
「どうしたの? 先生」
僕はハッと我に返りました。そして、ええ頭の中では冷静に、彼女に返しなさいと言うつもりだったんです。でも、でも僕は股間が熱を帯びているのを感じていました。
そして彼女はそれを知っている。その上でどうしたの? と僕に訊いてきたのです。
僕はまるで僕のほうが思春期の少年になったように、いやそれでも彼女よりは年上なのですが、今思い出しても滑稽なくらいに、しどろもどろになりました。
股間に帯びた熱が胴体を通過し顔にも出てきたようで心臓の鼓動は今までにないほど激しくなり、僕はまた彼女から目を逸らしました。
見てはいけないものを見ている。か、彼女の全身がそうであるように思えたのです。息が荒くなりそうなことに気づいた僕は口をキュッと結び、でも鼻から漏れそうで、そして鼻息が荒いなんて彼女に思われたらカッコ悪いなんて考えて息を止めて、さらに足の爪先に力を入れ、抱きしめたい衝動を必死に、文字通り踏みとどまろうとしました。
でも、音がしたのです。ジジジジーっという音……。
ゆめ、夢、夢! ああああ、なんと彼女が僕のズボンのチャックをおろ、おろ、下ろし! そして彼女はスルリとまだ小さな白く細い指を中に滑り込ませたのです!
ああぁぁ脳が爆ぜるようでした。
僕のち、ペ、ペニスよりも少しだけ冷たく、でも温かな、あの指の一本一本が添い、なぞり、擦り、フィットし、包み、あ、あ、ああ、と僕は泣きそうなくらい恥ずかしい声を出し、天井を見上げました。
そのまま果ててしまいたかった。立場も法も何もかもすべてを吹っ飛ばして……。
でも、僕は瓶底に残ったような僅かばかりの理性でそれらをグッと飲み干し、彼女を突き飛ばしました。彼女は窓に背をぶつけ、その衝撃で窓がビリビリ震え、彼女は手から万年筆を落としました。
静寂が僕らを包み、そしてほんの数秒、彼女は僕を見つめたあと、走って教室から出て行きました。
僕はヨロヨロと歩き、万年筆を拾い上げると婚約者の顔を思い浮かべました。
気持ちが萎えていきました。
翌日、僕は校長に呼び出されました。
ドアをノックし、入ってみると、校長室には校長の他に数人の同僚がいました。そうです。昨日の件。僕が彼女に無理やり自分のモノを触らせた件です。
ええ、無理やりだなんて事実無根ですとも。そう主張するべきところでしたが事実なのかと面と向かって問われた瞬間、昨日のことがフラッシュバックして僕はまたしどろもどろになってしまいました。
そしてそれは肯定したと同じことでした。実際に彼女の手は僕のモノに触れていましたし僕自身、あのあとトイレで自分で慰め、果てたわけですから後ろめたさが前面に出てしまったのだと思います。
もちろん、一応否定はしましたが全員から向けられた目は犯罪者を見るそれでした。
彼女は家に帰ったあと、母親に涙ながらに訴えたそうです。乱れた服にぶたれた様な赤みのある頬で。ええ、彼女が自分でしたことです。
しかもそれだけではなく、目撃者がいたのです。と言っても、その子たちが見たのは彼女が勢いよく教室から飛び出す瞬間とその後、そっと覗いた教室で僕がズボンのジッパーを上げている瞬間だけですが。
しかし、一度そうと見られると、あとは芋づる式にそういえばああだったようななど、僕がロリコンであるように思える出来事が続々と出てくるのです。
単なる握手が手を撫でまわしたと。微笑みはニヤつきに。彼女の母親も学校も大っぴらにはしたくないということで警察は免れましたが僕は職を追われ、婚約者には流れるように別れを告げられました。
全て僕の半端な道徳性と幼さが招いた結果だと思います。もっと警戒すべきだった。二人きりになるべきではなかった。あるいはもし、彼女を拒絶せず受け入れていたら……いや、きっと結果は同じでしょう。別に彼女は僕に拒絶され、腹を立てたわけじゃないのです。
彼女はどちらでも良かった。僕が獣に変貌し自分を襲おうとも、あのように理性を絞り出し、突き飛ばそうとも彼女の中で僕を破滅させることは決まっていたのです。
恐らくは、遊びで。僕はそれが恐ろしかった。彼女はあの歳で男とまぐわうことを何とも思ってないのです。
もちろん、彼女の口からそう聞いたわけではありません。僕の想像です。実際そのような流れになったら彼女は悲鳴を上げていたかもしれません。
でも、もしかしたら彼女はすでに男と、それも望まぬ行為を押し付けられ、心が、倫理観が壊れてしまっているのだとしたら?
そしてこんな仕打ちを受けたのに僕はそんな彼女を救いたいと思っているのです。そう、あの男から……。
……と、ここで少し補足。彼が言うあの男とは彼女の義理の父親、母親の再婚相手である。その男は彼女の亡くなった父親の同僚で、母娘共に顔見知りだったようですぐに馴染んだそうだ。見た目は洗練された大人の男。彼と比べれば尚のこと。とても義理の娘に乱暴を働くようには見えない。無論、一見ではあるが実際、彼が考えているような人物ではなかっただろう。すでに彼、荻原康生の妄想症は進行していたようだ。さあ、彼の話に戻ろう。
学校をクビになった僕はある日、我慢できずに彼女の家に向かいました。ええ、本当は身の振り方とか考えるべきだったんでしょうが、彼女のことが気になって仕方がなかったのです。他に手が付けられないんじゃしょうがないじゃありませんか。まずはこの問題から解決すべきだ。そう考えたのです。
彼女の家はそこそこ大きく、落ち着いた雰囲気で外国にあるような家でした。そういえば、亡くなった彼女のお父さんは外国と日本を行き来する仕事をしていたとか。ええ、かなり裕福に見えます。
塀の上から覗くと、ふわっとカーテンが外に向かって膨らんでいたので、窓が開いていると思い、そこから中に入りました。
静かでした。物音一つなく、自分の心臓の音だけが五月蠅かった。
僕はまず落ち着こうと自分の胸に手を置きました。でも胸ポケットに挿した、彼女が一度手に持った万年筆に触れ、ますます鼓動は速くなってしまいました。
彼女は、小さな木のピアノが置かれた部屋に独りでいました。水色のカーペットの床で、仰向けになって、すぅすぅと眠っているようでした……。
ええ、美しい光景でした……。ええ完璧な。揺らぐ白いレースのカーテン。穏やかな日の光。窓から部屋に入った風が彼女の口にかかっていた髪の毛を優しくどかしました。両手を軽く上げ、まるで赤ちゃんのように眠るその姿。ようやく子供らしいものに見えてでも、白い肌。あああ、あの脛。脇……。
ち、近づいた僕は、気づくとズボンから自分のモノを取り出していました。だって、すごく苦しくて痛かったから。
そして、赤ちゃんのように僅かに指を折り曲げている、彼女の手の中に、んあぁ、入れました……。
何度も、何度も頭の中で思い描いていたように、僕は、僕は腰を動かし続けました。声を出さずぅ、息をぉ殺し、ただ一心不乱に。あぁ、彼女の寝言。その声でさらに高ぶらせ……うっ、ん、うぅ、ああ、すみません、涙が……。
はぁふぅ……そして射精したとき、部屋に風が吹き抜けました。体を震わせ天井を見上げる僕の鼻を精子の匂いがツンと小突き、僕が大きく息を吐いてその臭いを追い払うと、視界の端に黒く細いものが見えました。
それは風になびいた彼女の髪でした。彼女がいつの間にか起き上がり、僕を見つめていたのです。
逆光で顔はよく見えなくて……いや、とにかく一体いつから起きて? なんてこと訊けるはずもなく僕はズボンが落ちないよう、手で支えながらすぐさま部屋から飛び出しました。
猫か犬にでもなった気分でした。そして庭に出て、塀を乗り越えました。その際、モノを擦ってとても痛かったです。着地後も下着が丸見えになるほどズボンがずり落ちてて、僕は慌てて引き上げ、また走り出しました。多分、近所の人でしょう。何人かとすれ違ったから見られていたことはわかっています。でも、それが僕がここにいる理由じゃないのです。
僕が人を殺したのは知っているのでしょう? ええ、そうですね。今じゃ誰でも知ってますよね。新聞やテレビで事件が報じられましたもんね。
そう、僕が殺したのは彼女の母親の再婚相手です。だから僕はこの精神病院なんかに……彼女と離れ離れに……。
でも後悔はしていません。だってあの時、あの部屋で彼女が僕を見た瞬間のあの笑顔、ああ……。
え? 逆光? さあ? ああ! 彼女の指示じゃないですよ。でも彼女はあのとき寝言で『やめて、やめておとうさん』って……。ゆる、ゆるせるはずがないじゃないですか。彼女が彼女は僕の僕の……。
……え? 万年筆? ああ、そういえばどこだっけな。彼女が教室で拾ってくれた大事なものなのに……。
彼が失くした万年筆。それは今、彼のもとにあるわけだが、その経緯を説明するには順を追わなければならない。
まず、万年筆はあの日、彼が一度目に彼女の家に侵入し、不遜な行為をしたとき落としていった。二度目の侵入。彼女の再婚相手を殺したときには持ってなかったそうだから間違いない。では、万年筆はどこに行ったのか。
彼の話、熱弁を聞いて興味を持った私は彼女の家の近くまで行った。しかし、まさか呼び鈴を鳴らす訳にもいかない。そうだろう? 『君の継父を殺した男の担当医だよ』と言えるものか。すごすごと退散し、近くの公園のベンチで一息ついた。
ああ、未練があったのかもしれない。ちょうど、家に帰ってくる彼女を見られるかもと思ったんだ。まあ、そんなことあるはずがないとも。
しかし、思いも寄らぬことが起きた。
「こーんにちはっ」
私はビクッと体を震わせ声のした方に振り向いた。
あぁ……女の子がいた。間違いない。彼女だと私は思った。
風が吹き、口に入った髪の毛を唇を少し尖らせ、彼女は指でよけた。人生六十七年。脳内にあの一枚ほど画が残った瞬間はない。
家を訪ねようとし、やめた私を彼女は窓から見ていて、わざわざ追いかけてくれたそうだ。
私が正直に素性を話すと、彼女は遠慮なく上がってくださいと家に招いてくれた。たとえひどいことをしてきた相手であっても、それが人の救いになるのならば、と。
何と博愛精神に満ちた子だ、と私は思った。本当にそう……愛に満ちた子だった。彼女は大人びた子かと思えば子供らしく、「遊んで欲しい」と私の腕に抱きつき、ねだった。
彼が言っていたあの小さなピアノがあるだけの部屋で私たちは遊んだ。なに、他愛もない手遊びやなぞなぞや、お話だ。おいかけっこもしたな。そのうち私が疲れ、ふーっと床に座ると彼女はツンと私を小突いた。何度も……何度も……。彼女は楽しそうに笑い、私も笑った。
私が「やられたー」とゴロンと横たわると彼女は私を踏んだ。ふみふみと。そうふみふみふみふみふみ。
彼女の足は私の胸から次第に下へ下へと……ああ。まさか、年老いた自分があそこまで勃起なんて思わなかった。ああ。二度とないと。彼女はズボンのその盛り上がりを見て悪戯っぽく笑い、そして……。
彼の万年筆はその帰りがけに渡されたものだ。もういらないから返してあげて、と。だからそうした。そうしてやった。
私はここの院長だ。鍵も監視カメラもどうとでもできる。眠っている彼の目の中に押し込むことぐらい簡単なのだ。
私がそう言うと、彼女は微笑んでくれた。
ああ、また見たい。あの笑顔。
彼女のためならばどんなことも、何度でも……。




