ザ・ホームセンター
原因が何かはわからない。もしかしたら直前にあった地震のせいかもしれないし、曇天の空から店内に吹きぬけた一迅の生温い風に舐められたからかもしれないし、はたまた、何か呪文めいたものを聞いたような気もする。
いずれにせよ原因の究明は何の慰めにもならないことをその青年は理解している。生き延びる。辻褄合わせなど後回しにし、ただそれだけに集中すべきだ。今、このホームセンターは惨劇の渦中にあるのだから。
始まりは誰かが転んだような音だった。ガン! という店内の蛍光灯の光が反射する床に頭を打ちつけた音。思わず青年は片目をつぶり、痛々しいその瞬間を想像した。
そしてその答え合わせをするために振り返ると、彼の目の前に現れたのは斧だった。横回転しながら飛んできたのだ。
青年は咄嗟に伏せ、それを躱した。斧は商品棚にぶつかり、勢いそのまま回転しながら床を滑った。そして、店内に悲鳴が響き渡った。心臓の動悸に床に引っ張られるように体が重く、動けない青年がそのままの体勢で目を向けると、中年の女性がわなわな震えながら手で口を覆っているのが見えた。女性の隣には倒れた男性の姿があった。恐らく、最初にした音の主。女性の夫かもしれない。その男性から流れ出た血がのっぺりと床に広がっており、そしてそれはまだ途中のようだった。
誰かがあの斧を投げ、男性の喉を裂いた。あるいは男性の喉を裂いたあと、こちらに向かって投げた。
一体誰が? そう考えた青年は周囲に目を走らせた。通路に人は若干名いるが、どれも驚愕した顔で動けずにいる。狂人らしき者はいない。すでに逃げたのか、それとも……。
青年は彼の視界にいる人々の目が自分の後ろに向けられていること、そしてその顔にさらに驚きの色が浮かんでいることに気づいた。
――いるのか、そこに。
そう考えた青年は後ろを振り返った。
「は」
と、青年のぽっかり空いた口からただ息が漏れた。そこに人の姿はなかった。ただ、斧だけがあった。しかし、床ではなく空中に。誰かが操り糸で吊るしているかのように、その場で僅かに揺らめきながら浮いていたのだ。
斧はその体をゆっくりと横に傾けると、青年に向かって動いた。斧は間違いなく青年の肉を裂きたがっていた。まるで生物、意思を持っているかのように。
青年はバタバタとその場から立ち上がり、また転げるようにして商品棚の陰に身を隠した。
今のは見間違いか何かか、そんな期待を抱く間もなくまた悲鳴がした。店内のあちこちからだ。あの斧以外にも命が吹き込まれたように動いているとしたら?
青年は自分の考えが当たっていると思い知らされた。突如として聞こえた耳をつんざくような金属音。青年は歯医者のドリルを連想したが、それはその比ではない。突進する前の闘牛が前足で土を掻くように電動ドリルが今、青年の目の前で先端を回転させていたのだ。
青年はまた駆け出した。振り返らずともその獰猛な音で電動ドリルが後を追ってきているのはわかっていた。
「うわっ!」
「どこ見てんだうあううううあううううあうあう!」
棚の陰から飛び出してきた中年の男にぶつかり、青年はよろけた。そこに突進してきた電動ドリルが中年の男の額を貫き、脳を掻き出していく。
「ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ」
中年の男が血と涎混じりの声を発し、首を揺らしながら膝を折り曲げていく。それが床に倒れる前に青年は背を向け、店の出入り口に向かった。
だが、そこにはすでに人が群がっていた。
「早く出ろよ!」
「あかねーんだよ!」
「どいて!」
「邪魔だよ!」
「開けろよ!」
「何で開かないの!?」
「いったん下がれよ!」
「押すなよ!」
自動ドアが開かないらしい。一人の男性が自動ドアに向かって傍にあった観葉植物の鉢植えを投げつけた。鉢植えはドアに弾かれたあと床に落ちて割れた。ドアにはヒビすら入っていない。空しく、ただ土が零れ、青年は最初に見た男の姿を想起した。
……観葉植物は動かないのか?
青年はふとそう思った。あの男性はただ近くにあったものを投げつけたのかもしれないが、このホームセンターには憎らしくも多種多様な商品が取り揃えられており、ドアをぶち破る道具には困らない。そのどれが牙を剥くか分からない今はおいそれと触れることはできないが、日曜大工用品は元より園芸、収納家具、インテリア、日用品、アウトドア、それに――
けたたましいベルの音に青年はハッと我に返った。
恐怖から出た悲鳴が短く痛みによるものに変わっていく。
大量の自転車が入り口に群がる人々に荒れ狂う馬のように突撃したのだ。前輪を振り上げ、執拗に打ち下ろしている。逃げ遅れた人々はその場に蹲り、そして逃げ出した人々をまるでUFOのように宙を浮く照明が後を追った。
眩い光源。伸びた自身の影に気づき、青年はそれが自分の頭上にもあることを察した。
電動ドリル同様、動力源は不要なのだろうか。いや、そんなことよりもやつは目印、早く――
そう思った瞬間、青年は肩に痛みを感じた。
鋏だ。グリグリと青年の体の奥へ奥へと入り込もうとしている。青年はすぐに引き抜き、床に叩きつけ、何度も踏みつけた。鋏はなおもピラニアのように刃を開閉しながらその牙を青年に向けようとする。
青年は思いっきり蹴り飛ばし、また走り出した。蹴り飛ばした先のそのさらに向こうから鋏の大群がこちらに向かってくるのが見えたからだ。
どこかに身を隠せる場所はないか? 辺りを見回しながらそう考えるが、空飛ぶ照明は執拗に青年の後を追いかける。青年は商品棚から洗剤を手で掴み取ると、照明に向かって投げた。
命中だ。照明が一瞬ひるんだ隙に死角へと駆け込む。青年は寝具コーナーの布団の棚に頭から飛び込んだ。照明は青年を見失ったようでその場を少しの間うろつくと、どこかへ飛んでいった。
どうやら、この布団は自分をアメーバの如く食らうことはないようだ。
そう思った青年はフッと短く息を漏らした。ようやく人心地付ける場所が見つかった。だが悲鳴が響き渡るこの店内では、平常時の精神状態に戻ったとは言えない。それでも体を動かさずに済むと、考える余裕が出てきた。
一体何が動いて何が動かないのか……。動かないもの。観葉植物。布団。それに洗剤。動くものはよりによって凶器になるものばかり……。誰かが選び動かしているのか? でも、それならこの布団も人を捕まえたり、窒息させるのに役立つだろう。
じゃあ……金属。青年はこれまでのことを整理し、そう結論付けた。
だがそれが何になる。と、青年はため息をつこうとしてやめた。
何が動くかわかぅったところで、ため息すら許されない今、目の前の通路をポケットに手を突っ込んで、肩を揺らしながら我が物顔で街を歩く不良のように通過する鎌たちをどうにかできるのか?
青年は唇を噛んだ。奴らが欲しがる血が一滴、布団に染みた。
それからいくらか時間が経った。時刻を確認しようにも携帯電話を家に忘れた。近所だしすぐに用を済ますからと取りに帰ることはしなかったのだ。
時計は店内にもあるだろうが、それが正確な時刻を指すとは限らない。生きた人間を指す羅針盤となっているかもしれない。
ただ、始まりと比べて大分静かになった。奴らが大人しくなったと言うよりはもう悲鳴が上がらなくなったからだろう。
死んだ。恐らく店内にいた客のほとんどが。見本のオーブントースターの蓋を開けて中を覗いていた老夫婦も、ゲーム片手に危なっかしく歩いていた子供も、笑顔絶えない家族連れも、クッションを抱きしめ柔らかさを確かめていたカップルも。
奴らは慈悲を見せず、懇願も踏みにじった。
青年はその惨状を想像すると吐き気が込み上げてきた。それが喉元からまた胃の中に落ちると次に、ケラケラと笑いたい衝動が込み上げてきた。
手榴弾の安全ピン。引き抜けば正気は木っ端微塵に。狂気に身を委ね、ただ笑いたかった。
だが青年は必死に堪えた。諦め、狂うにはまだ早い。わずかな嗚咽も今は漏らさない。涙さえもだ。音で気づかれてしまう。今はまだここで耐えるべきだ。
でも、いつまで? ……いや、いつまでいてもいいじゃないか! 誰かが警察を呼んだかもしれない。呼んでないとしてもこれだけの人数が死んだ。つまり連絡を取れない状態なんだ。いずれ不審に思い、捜索を始めるだろう。それに、外から入ろうとした客が店内の異常に気づき、通報してくれたかも。そうとも。危険を冒すはないんだ。丸一日くらいなら飲み食いしなくても問題はない。耐える。今はただ耐える……。
青年はそう考え、唾を飲み込んだ。
二台の車椅子が青年の目の前の通路を通り過ぎた。恐らく生存者の捜索だろうが、青年にはウイニングランのように感じられた。
気づかれなかった。安堵の息を漏らす。動悸が静まると、何か硬いものが、水気のあるものを叩き潰すような音が聞こえた。
……ハンマーだ。そして叩き潰されているのは……人の頭。
そう想像した青年はとうとう吐き気を抑えることができなかった。その音は店内の至るところでしているのだ。まるで調理大会の会場のように。
自分の体に吐瀉物がかかることを無意識に嫌悪した青年は、通路に向かって顔を突き出し、嘔吐した。
これではすぐに見つかってしまう。ここから出なければ。
そう考えた青年は布団の中から這い出て、棚の陰から辺りの様子を覗う。
出入り口につながる広い通路は死屍累々、道に迷わぬように森でパン屑を落としたように外を求めた死体が点在していた。絵画にするならタイトルは間違いなく『地獄』だろう。あるいは『希望』か。
しかし出口であるその自動ドアから差す日の光は弱々しい。夕暮れ時。それよりも血の手形がガラス部分を覆っているせいなのだ。
その絵にさらに赤を散らしているのはチェーンソー。鋸類。泥遊びで、はしゃぐ子供のように夥しい量の血を天井に届く勢いで撒き散らしている。秋刀魚の群れのように包丁の一群が店内を飛ぶ。ここは無機質な水族館。
自分たちが何をした? こんな仕打ちを受けなければならないのか? 青年はそう思うが、奴らからしてもこう言えるだろう。
『自分たちが何をした? お前たちのために働いたじゃないか。古くなったら捨てるのか』と。しかし、これは大義名分を掲げた道具たちによる人類への反撃ではない。奴らは楽しんでいるのだ。青年はハッキリとそう感じた。
青年が込み上げる怒りで拳を握ったそのときだった。パスッという音がした。
耳の辺りに熱さが、次いで虫歯を突かれるような痛みが現れ、青年は耳を押さえた。
釘だ。青年の背後。空中に釘打機が佇み、その銃口を向けていた。
「あ、あぅああぁ!」
青年の耳に刺さった釘が土から出されたミミズのようにのたうつ。
青年は声を上げ、走り出すと同時に、耳から釘を引き抜き、投げ捨てた。
床に落ち、カンカンという音が鳴る。釘打機が逃げる青年の背中に追撃を仕掛ける。青年は放たれた釘を棚に並んでいたペットシーツを掴み、受けた。
横の通路から飛び出した芝刈り機の刃が青年の腹を掠め、シャツに血が染み、さらに肌を伝いズボンのベルトの上に溜まるのがわかった。
腹痛の比じゃない焼けるような痛みが青年を襲うが止まれるはずがない。飛び交うバールとシャベルがその切っ先を向け、青年の肉を裂こうとしていたのだ。
それらのいくつかを肩や背で受け、またかわす中、鎌が青年の手の甲に刺さった。鎌はそのまま青年の人差し指と中指の間を肉を裂きながら抜け出て頭をブンブン振り回し、血を散らした。
歓喜しているようだった。鎌も、包丁も、枝切りバサミも、鉈も、チェーンソーも全てが青年の足掻きを見下ろし楽しんでいる。
背後から車椅子が青年の膝裏にぶつかり、青年は椅子に座る形で倒れた。
車椅子は青年を乗せたままスピードを上げた。
青年の悲鳴が店内に轟く。車椅子が向かう先が出入り口であることに気づいた青年は一瞬、希望を抱き、悲鳴を飲み込んだが、そのスピード。送り届けてくれるわけではないと察し、また悲鳴を上げた。
そして車椅子は床に散らばる肉片を蹴散らし、出入り口の自動ドアに突っ込んだ。
青年の悲鳴と体は、その客たちの血で濁った強化ガラスに阻まれ、鈍い音を立てた。
車椅子は衝撃で倒れ、青年は椅子から崩れ落ちた。青年は呻き、悶え、一方横たわる車椅子は車輪をカラカラと回し、起き上がろうとしていた。だが青年にはもう起き上がる気力はなかった。ただ目を閉じて、全てを委ねるしかなかったのだ。
意識を取り戻した青年は、瞼を開く前からその穏やかな揺れと話し声から、今自分がいるここ救急車の中だということに気づいた。
答え合わせするように瞼を開く。正解だ。安堵の念が胸の奥から体表にじんわりと染み出るように感じたが、先程血を流した感覚と重なり、青年は苦笑いを浮かべた。
救急車の室内灯の光に温かみを感じ、青年は涙ぐんだ。希望の光。そう感じたのは決して大げさなんかじゃない。ようやく手に……・と青年は手首の辺りに違和感があることに気づいた。体を動かせないが、点滴ではないだろう。青年は眼だけを動かし、社内を見回すと何かは想像がついた。
警官が同乗している。で、あるならばこれは手錠。ストレッチャーと繋がっている。
まさか自分は惨劇を引き起こした殺人鬼と思われているのだろうか? あの道具たちは? 子供が寝静まったあと動き出す玩具たちよろしく、警官が駆けつける前に所定の位置に戻ったとでも言うのか?
監視カメラは……いや、それも奴らと同じように意思を持っていたとしたら、潔白を証明するのは難しいかもしれない。体の傷は被害者たちの抵抗にあったと解釈されるだろう。だとしてもなぜ自分は生かされた? 身代わり? 犯人に仕立て上げるため? ……いいや、やはり無茶だ。一人で客全員を殺すのは。
この手錠は形式上のものだろう。ただ事情を知りたいだけだ。ああ、しかし信じてもらえるだろうか……。
救急車が停まり後部ドアが開いた。慌ただしく病院の中に運び込まれる青年は鎮静剤が効いているのだろうか、まだぼんやりと思考を続ける。
奴らは何のために? いや、それともこの手錠は正当なもので、これまでのことは妄想。全てはこの手で実際に行われたもの。内なる邪悪な人格に支配された自分がしでかした――
「……ううううぅぅうー! ういぃぃぃぃぃううう!」
青年が突然、ストレッチャーの上で仰け反った。病院の中で待機していた警官たちの顔に警戒の色が浮かぶ。
抵抗を危惧したのではない。腕は手錠に繋がれたままだ。自分の舌を噛みちぎり命を絶ち、事件の真相を闇に葬ろうとしているのではと考えたからだ。
警官は青年を取り押さえ、口にタオルを噛ませようとした。
しかし、そのタオルを銀色の蛇が押しのけた。
警官たちにはそう見えた。一瞬だが。そしてその一瞬しか見えなかった。
ワイヤーロープだった。
青年の胃の中から食道を通り口から出たワイヤーロープは警官の目を貫き、その場にいた医療従事者ともども数珠つなぎにした。
ワイヤーロープはそのまま彼らを持ち上げ、彼らは干した洗濯物が風に揺れるようにプラプラと体を、足をひくつかせ、そして円を作った。ストレッチャーの上に乗る青年の周りをぐるぐる回るその様は赤子をあやす、ベッドメリーのようだった。
咳き込み、また吐血する青年が思わず静止し、息を呑んだ。その瞳に、宙に浮かび上がっていく警官たちの銃が映る。
次いで、青年を乗せたストレッチャーがガタガタと震えだした。それは青年の体の震えを遥かに超える揺れだった。
青年は、まるで眼球だけを逃がそうとするように出口を見つめる。ストレッチャーの車輪が回り、青年を病院の奥へと運んでいく。
廻る。廻る。無慈悲に廻る。悲鳴が伝染病のように広がっていった。




