幽霊は囁く
……僕はまるで、手品を見ているような気分になった。
隣に座るティムの肩を掴んで、自分のほうへすっと引き寄せると『先生』は手に持っていた木の枝をどんどん短くして見せたんだ。
「ああっ!」とティムが短く悲鳴を上げ、カラスが一鳴きして近くの木から飛び去った音がした。
「あ、あ、あ、あ、あ」と声を出すティムの目から涙が流れ落ちる。片方の涙は赤くて、焚火の光に反射してオレンジ色に見えた。
そこでやっと僕は枝がティムの目の中に入っていっているのだと気づいた。ティムの顔のすぐ隣。焚火に照らされた『先生』の顔は虚ろだった。何もない。怒りも喜びも。
僕は周りの子の反応が見たかった。これは夢? 僕だけが見ている幻? 確かめたかったんだ。でも金縛りにあったみたいに首を動かせない。地面にびっしり落ちている枯葉を踏んだ音がしないから、きっと他のみんなも動けずにこの場にいると思う。
ほんの数秒の間。でもこれまでで一番長い数秒だった。ママに説教されているときよりも退屈な授業のときよりも。枝は完全にティムの目の中に埋まり、その先っぽが黒目みたいだった。
ティムが前のめりに倒れ、モジャモジャの髪が焚き火に触れた。煙が上がり、焦げた臭いで鼻がつんとした。
誰かの悲鳴が――多分、他の子の――上がり、僕はそこで靴の中の足の指が動くのを感じた。それから少し、パンツが湿っていることにも気づいた。
僕は、いや、多分僕ら全員がほとんど同時にその場から逃げ出した。普段は恐れている暗闇が僕らに寄り添い身を隠し、守ってくれることを願いながら振り返らずに走った。
僕は走りながらどうして、どうしてと頭の中で繰り返した。焚き木が爆ぜる音、それが銃声に聞こえたのか。それとも僕らが話すようせがんだのがいけなかったのか。きっと全てだろう。最悪なことに全てがうまい具合にかみ合ってしまったのだ。
僕らボーイスカウトはこの日、オックスフィールドとオームドランドのちょうど境目にあるキャンプ場に集まった。
オーソン隊長はまるで自分の経歴であるかのように誇らしげに『先生』を紹介した。退役軍人。戦争でいくつも勲章を貰ったと。穏やかな人、と言うよりはボッーとした人。少なくとも怖そうな人には見えないと思う。
それは他のボーイスカウトたちも共通の認識だったようでクスクス、笑い声が聞こえた。
僕らは五人一組、五つの班に分かれ、『先生』が順番に様子を見に各班を回っていくということになった。
僕はボーイスカウト三年目になるから手際はいいほうだった。僕らの班は一人モタモタしている子がいたけどそれを問題なくカバーできるくらい他の班員も手慣れていた。だから安心しきっていた。この夜までは。
夜。焚火を囲み、僕らはやって来た『先生』に戦争の話をしてとねだった。銃弾飛び交う戦場。何人殺したか。みんなそういった話が大好きな年頃だからだ。銃に似た形の枝を持ち、撃ち合いっこをしながらチラリと横目で見たけど『先生』はただ静かに平たい石に腰を下ろしたまま火を見つめているだけだった。
でも、そのうちポツリポツリと話し始めた。独り言。ただ呟くように。
死んだ。何人も死んだ。仲間も敵も。
一種の催眠術になっていたんだと思う。揺れる火で記憶が呼び起こされ、そして繰り返したんだ。その夜を。ただ敵兵はいない。いるのは僕らだけだ。
「オーソン隊長!」
「ん、おお。どうしたんだい?」
そのランタンの明かりを見つけた瞬間、この夜、最大の幸運が訪れたと僕は思った。オーソン隊長は僕の話を聞くと目を大きく広げ、次に細めた。目じりに皺。そして口角が上がった。笑ったのだ。どうやら冗談を言っていると思われたらしい。
それでも必死に訴えるとオーソン隊長はわかったわかった、と僕らがいた焚火のほうへ歩いていった。せめて何か武器を持って、と僕はその背中に声をかけたけどオーソン隊長はこっちを向かずに片手を上げた。大丈夫だ、とでも言うように。
それでも僕は何かないかと辺りを見回した。でも棍棒のような木の枝がまさかそう都合よくあるわけがない。
遠のくランタンの明かりに時々目を向けながら探していると聞き覚えのある音が聞こえた。パパが洗面所で、歯磨きしてるときにえづくような、そんな音。グゥガッと溺れるような、苦しい音が。
そして枯葉に沈んだ音が聞こえた。ランタンの明かりが転がり、動かなくなった。
武器。一つだけ頭によぎった。ポケットナイフ。僕らの装備品。死んだティムも持っていた物。
――ザッザザザ
枯葉が舞い上がる音に僕は我に返り、目を向けた。
「……ロジャー! 君か!」
「ああ……さっきのは……?」
「多分、オーソン隊長が」
「ああ、クソッ! ギルバート副長は? 見たか?」
「ううん、多分自分のテントじゃないかな。あの人見回りとかあまりしないし」
「確か……あっちだな。行こう! それに他の班にも知らせないと」
「他のみんなは?」
「わからない、散り散りに逃げたから。でも僕らと同じ考えをするはずだ」
僕は頷き、ロジャーの背中を見つめた。頼りになる。さすがは班長だと僕は思った。
風が吹き、枯葉が波のように足元を駆ける。それを踏みつけ走る僕らの前に何かが横切った。
小鹿が跳ねた、一瞬そう思った。
でも違った。地面に伏したまま動かないそれは、班員のニックだった。
――ニッ
ミミズクの鳴き声が名前を呼ぼうとした僕を制した。そうだ、見ているのはミミズクだけじゃないかもしれない。
「ニック!」
「ダメだ! ロ――」
ロジャーが落ち葉を舞い上げ、ニックに近づいた。
すると影が現れた。それはまるで巨大な蜘蛛。網にかかった獲物に牙を突き立てるように一瞬でロジャーの体を覆い、そして声を奪った。
肉が裂けた音が聞こえた気がしたけど、わからない。僕の心臓は十メートル先まで聞こえそうなほど激しく動いていたからだ。逃げろ、逃げろと内側から引っ張るように。
でも僕はロジャーから目を逸らすことができなかった。
震えている。僕の足が。
震えている。『先生』の腕が。ロジャーの喉に突き立てたナイフを持つ腕が、冷蔵庫のジャムの瓶の固い蓋を開けようとしている時のように震えている。
ナイフはメリメリと肉を裂き、そして勢いそのまま空を切った。
ビタボタッと血が落ち葉の上に飛び散った音が聞こえた。
月の光が樹木に遮られ、僕らを格子状に照らす。小さなナイフだけが光り、体は黒いもやがかかっているようだった。
その体がゆらりと立ち上がる。その背筋は今朝、みんなに紹介されたときの老人のそれじゃない。
僕らを狙ってこの森の中を駆けずり回っていたはずなのに呼吸を荒げていない。まるで幽霊。兵士の幽霊だ。
闇に浮かぶ目が僕を見下ろす。鋭く、そして冷たかった。
僕は一歩後ろに下がった。落ち葉とその下の細い枝が折れた音がした。
黒い幽霊はまだ動かない。
もう一歩、下がる。
まだ動かない。見つめあったまま距離が離れていく。
もう一歩……。その時、僅かに『先生』の足が動いた。
ああ、来る。カマキリが獲物を捕らえるみたいに。きっと僕を敵兵と思い込んでいるんだ。
死ぬ。死ぬ。死ぬ……。頭の中がその言葉でいっぱいになり、僕は脳みそがギューとなるのを感じた。
すると、そこから搾り出すように一つの単語が下りてきた。言い慣れた言葉。だから渇いた喉でも吐き出すのは容易かった。
「おじいちゃん」
ピクッと足が止まった。
「ど、どういう、こと?」
「……ピーターか」
僕は後ろを振り返った。
「い、今、おじいちゃんって言った? 君の? 君のおじいちゃんなの? 君のおじいちゃんがみんなを殺したの? ティムを、オーソン隊長をそ、それにその二人はロジャーとニックだよね!? どうして? そ、そもそも僕は初めから変だと思ってたんだ! 君のおじいちゃんは殺人鬼だ! 君は――」
一番年下のピーター。
普段モタモタしているピーター。
臆病者のピーター。
珍しくよく回る口だな。
なんか嫌だな。
ただそう思った。
ただそれだけだった。
気づいたら僕はポケットからナイフを取り出し、ピーターに向かって魔法の杖のように振っていた。
幽霊に取り憑かれたんだ。僕はピーターにそう言ったけど、ピーターはただ喉をゴポゴポ鳴らすだけで何も言ってくれなかった。
もしかしたら、それはどっちのこと? って言いたかったのかもしれない。
ピーターは地面に倒れたまま動かなくなり、静かな夜が戻った。
何も聴こえない。僕の呼吸の音も。
僕は死んだ? いや、僕の心臓の音が聴こえる。すごく早い。
倒れたピーターの顔の半分が樹木の間から月の光に照らされて、真っ白に見えた。その見開かれた目は僕を、僕たちを見ていた。
瞬間、僕にもピーターが見ている光景が頭に浮かんだ。
おじいちゃんの前に立つ僕。
黒くて暗い。まるでおじいちゃんの影みたいだ。
僕がフッーと息を吐いたとき、音が戻った。
木々のさざめき、虫やミミズクの声。
そして歌が聴こえた。どこか懐かしい感じ、きっと僕が生まれる前の古い曲だろう。おじいちゃんが口ずさんでいた。
僕は振り返り、おじいちゃんの手を握った。
そして、僕らは焚き火に向かって歩き出した。一緒に歌を口ずさみながら、僕はこの後のことを思い描いていた。
最終日に「実は僕のおじいちゃんなんだ!」ってバラす、ちょっとしたサプライズ。みんなの驚く顔。えっーという声。笑顔。いいなーって羨ましがるみんな。そんな、あったはずの未来のことじゃない。この後のこと。
焚き火の傍に横たわるティムの髪の毛は焼け焦げモジャモジャだった髪が、縮れて短くなっていた。どこかコミカルでつい、笑っちゃった。
すると、おじいちゃんの歌声が少し大きくなった気がした。どうやらおじいちゃんもご機嫌みたいだ。僕はおじいちゃんを焚き火の前に座らせた。
森の中を彷徨う得体のしれない殺人鬼がみんなを殺した。
……こんな言い分、多分通らない。
たまたまおじいちゃんが僕らの班に来ているときに事件が起きて、たまたま班の中で僕らだけが生き残ったなんて不自然だ。
このままだとおじいちゃんが警察に疑われちゃう。元軍人とはいえ、こんな老人一人じゃこんなの到底不可能だって思わせなきゃ。そう、一人では無理……。
残った薪を全部投げ入れ、二人で火を眺めながら歌を口ずさむ。
パチッ、パチッと薪が爆ぜる音。僕はおじいちゃんの耳元で囁く。
「戦争だ。さあ、一緒に敵をたくさん殺そう」




