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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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憎猫

「ぅ……ぅぅ……」 


 意識を取り戻したことをおれに教えたのは頬に当たるゴワゴワした感触。床に敷いたカーペットだ。次いで、鼻。部屋の匂いが「おかえり」と言っている。

 

 ……生きている。


 ははは、そうだ、おれは生きている。天国の花畑にしては気持ちの良くない感触だと思った。しかし、まただ。まただったのか。

 時折、発作が起きる。すぐに薬を飲めば問題ないのだが今回のように飲み損ねるとブラックアウト。後にどうなるかはコイントスをするようなものだ。

 今回は表。おれの勝ち。死神は舌打ちし、背を向け帰って行ったようだ。

 だが、全身の感覚はまだ戻らない。痺れているようだ。全く動けないがさほど心配していない。前にもあった。じきに動くようになる。これも経験による裏付けだな。まあ、自慢にもならないだろうが。

 

 それはそうと、顔の感覚が他より鮮明なのは脳が近いからだろうか? で、あれば足が動くようになるのはまだまだ先か。まいったな。このカーペットも清潔なものではない。掃除機をかけていなかったから、この老いた眼にも目の前の埃の一塊が見えた。ほんのビー玉ほどの大きさ。白髪が絡んでいるのがわかる。やけに長いが……あれは、そうか。恐らく妻のだ。

 妻が死んでからしばらく経つ。部屋の掃除は何度かしたはずだが残滓があるとは驚きだ。尤も、喜びはない。所詮はゴミ。ただ吸い込まないよう気を付けるだけだ。脆弱な喉と肺には驚異的な毒だ。

 そう、あんな小さなのでも……うっ、あれは何だ? 埃の一塊の向こうの……虫……にしては大きい。

 ……ああ、あれか、そうかあんなところに、まったく忌々しい。


 感覚はまだ戻らない。そろそろ指はどうだ? 動くか……? ……いっ!

 意識すると左手の指先に痛みが浮かび上がってきた。倒れたとき怪我をしたのだろうか。この体勢では見えない。

 見えている右手の指はどうだ……よし、いいぞ。こちらの命令に応答。ピクッと僅かに動いた。だが、まだ回復は遠そうだ……う!

 また左手の指先が痛む。なんで……いや、なんだ?

 ピチャクチャと音がしている……。死神がガムを噛んでいる? ははっまさかな……ああ違う、こいつは


 猫だ。


 あの忌々しいクソ猫! そこにある、吐いて乾燥した毛玉の主でクソと苛立ちの製造機!


 妻の愛猫。おれとはまったくそりが合わなかった。

 だから妻の死後、追い出してやったんだ。お互いのためを思ってな。だが舞い戻ってきた。何度も何度も何度も。猫が家につくというのは本当らしい。最低だ。クソのクソだ。

 あれはあいつの意地汚い咀嚼音に違いない。今日も、そうだ、さっきも追い出したはずだがだが、戻ってきやがって。

 しかし、何を食べているんだ? もし外で捕ってきたネズミか鳥か何か持ち込んでたらクソが、承知しな……まさか……。


「……ぁぁ……うぅ……ぁぁ……」


 その可能性に気づくと同時に痛みは鋭くなり、おれは呻き声を上げた。尤も自分では罵倒を交え叫んだつもりだったが。

 奴は食っている。おれを食っている。


 ……捨ててやる。必ず。体が自由になれば今度こそ捨てる。遠くへやり、戻って来れないように。いや、殺してやる。そのために殺し屋を雇ってもいい。必ずだ。必ず殺す。殺す殺す殺す。もっと早くにそうすべきだった。恩知らずのクソ猫め。

 そりが合わないと言ってもさすがに妻の死の直後は奴を追い出したりはしなかった。(意気消沈し、考えつかなかっただけだが) その後も奴に気に入られるようなこと、ちゃんと餌をやった記憶はない。だが封を開けたキャットフードの大袋を置きっぱなしにしてやっただろう。それがこの仕打ちか! 

 もう無くなったか? だから腹を空かせていたのか? 知るか! おれが奴について知っているのは奴の爪の鋭さ、噛まれればどれくらいの怪我をするかだ。妻が生きている時も奴と何度か揉め、この身に、記憶に刻まれている。

 ああ、奴はおれを嫌っている。恐らくおれが奴を嫌うのと同等に。じゃあ、奴はおれが嫌がると分かっていておれを食っているのか。

 クソが。猫の胃の大きさってのはどれくらいのもんだ? 

 おれが動けるようになる頃にはどれだけ指が残されているか。はははは、片手が残っていれば十分だ。首を掴み、この部屋のテーブルに頭を打ち付けてやる。大理石だ。硬いぞ。ははははは、頭蓋骨が砕けるほどに叩きつけてやる。そうとも利き腕であるこの右手さえあれば……あれは……


 おれの視界に入ってきたもの。暗い部屋、それよりも濃い、黒い塊。

 ネズミだ。かなり大きそうだ。こんな同居人がいたとは驚きだ。ああ、開けっ放しだったキャットフードが引き寄せたのか? そう言えばゴキブリは何度か見かけた気がするな。

 で、あいつは何をしている? 何だ? 近づいて……おれの、おれの右手に……


 一瞬、電流が見えた気がした。指先から脳へと走る、刺すような痛みが。

 食っている。こいつもおれを食っている!

 クソクソクソのバカバカバカ、バカなのか? 暢気にディナーか? 猫という天敵の前で? 気づいていないのか? ほら、奴は、あのクソ猫は……変わらず、おれの左手の指に舌鼓を打っている……。

 そうとも、あのクソ猫にはおれを助ける理由も、ネズミを食べる理由もないのだ。

 何故なら目の前に食いきれないほどの肉があるのだからな! 分け与えてやるほどの寛大な心が芽生えても不思議ではない。ふざけるな。


 死ね下種ども。死ね死ね。いいや殺してやる両方ともな。指だ、指指。動け……動け。

 ……おぉ、動いた。僅かにだが。が、痛みが増した。その理由は体の感覚を取り戻しつつあるのと同時に奴らに活きの良さをアピールし、食欲を増進させたからか。

 クソ共はがっつきだした。この年経た指をグチャグチャと噛み千切り、血を啜り……。


 だがそう悲観的になることはない。動けるようになれば、という話だけではない。奴らもそう、いつまでも食い続けることはできない。ああ、所詮は小動物だ。そのうち、尻尾をなびかせ退散するはず。そうら、クソ猫の咀嚼音がやんだ。ご馳走様はいらない。とっとと消えろ。


 ……なんだこの音は。

 ポンプでくみ上げるような……。


 あ、あ、あああああああああ!


 答えはすぐにわかった。おれの頬に生ぬるい液体がかかったのだ! そう、吐きやがった! このクソ猫!

 どろりと液体が垂れる。顔をなぞるように不快な感触が下へ下へと頬を下りそして口の方へと……。

 馬鹿なのか? 食ったそばから吐きやがって。

 いや、賢いのだ。こいつはまた食事を楽しむために吐いた。再び聞こえ出した咀嚼音がそれを告げている。

 いや、それも違うな。こいつは食いたいんじゃない。おれに嫌がらせしたいんだ。

 こいつを見くびっていた。だが、良いこともあった。奴は意図していなかっただろうが、動き出した猫に警戒し、ネズミが逃げたのだ。指先はズタズタだが絆創膏二枚で足りる怪我だ。マシだと言えよう。


 ……そうでもないらしい。ネズミが戻ってきた。妻、あるいは夫を連れて。

 同じくらいの大きさのずんぐりとした二匹のネズミがおれの右手に駆け寄る。

 そして……ああ、食らいついた。ああ、食え。今のうちだぞ。お前たちも殺す。

 駆除業者を呼ぶことを今、固く決意した。あわよくば猫も駆除してくれるところを探そう。


 ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃくちゃくちゃぐちゃ、と聞き飽きた。

 体はまだ動かない。

 ……もしやずっとこのまま……?

 いや、有り得ない。不幸の真っ只中にいる者はその状態がいつまでも続くと思いがちだがそんなことはない。第一、目覚めてからそれほど時間は経っていないはずだ。老いたこの体は古いテレビ同様、起動に時間がかかる。ほら、指が曲がるまで回復してきた。もうすぐだ。

 手を閉じ、そして開く。リハビリするように。いち、に。いち、に。と、ははははっ。ネズミは身を引き、名残惜しそうに去っていったぞ。


「うぅぅ……あぁぁう……」


 いいぞ。呻き声にも力がこもってきた。体が貴様への憎で満ちているぞクソ猫め。肘を立て、それから両手をカーペットにつけて、体を起こす。

 両手の人差し指と中指が血だらけだ。特に左手、あのクソ猫に食べられたほうは酷い。人差し指からぼんやりと白い、恐らく骨が見えている。肉つきがない、老人の指。食いがいがなかっただろうに。それなのに、よくもまあここまでやってくれたものだな!


 ……クソッ。まだ立ち上がるには至らず、膝をついたまま辺りを見回したが猫の姿はない。素早いやつだ。

 まだ全身の痺れは取れない。しかし、動ける。今度はこちらが復讐する番だ。いや、まずは消毒、手当てが先か。

 膝に力を入れて立ち上がると関節が鳴った。電灯のスイッチ。場所を頭の中に描き、一歩を踏み出す。

 ……と、足に何かが触れた。ははははは! この感触、見なくてもわかるクソ猫だ。


 今更すり寄ってきてなんだ?

 媚びているのか?

 にゃーだって?

 馬鹿が。もう遅い。所詮は獣だ。自分の行動の過ちに気づくこともできない。そうとも。おれの指を食ったこともそうだが、貴様は出てくるべきではなかったんだ。

 蹴り上げてやる。内臓破裂する勢いで蹴り上げてやる!


「あ」


 ……猫が動くものに反応することは知っている。だから飛びつくにしても振り上げた足のほうだろうに。でも違った。この猫は相当、理性的だ。軸足に猫の体当たりをくらいバランスを崩し、後ろに倒れていく最中、おれはそう思った。

 そして、これもあの猫の計算通りかはわからない。

 おれの後ろには大理石のテーブルが。

 衝撃。視界が弾け、そしてテレビを消したときのように僅かな残像を残し黒くなっていく。

 目覚めがいつになるか、あるかもわからない。もし目覚めたとき、おれの体はどれだけ残されているかも。


 薄れ行く意識の中、歓喜の声が聞こえた。

 猫の。そして二匹やそこらじゃないネズミたちの……

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