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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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枯れゆく心

「息子が……お、おれの息子が、あ、がぅぅ……」


 言葉を詰まらせながら、その男はそう言った。立っているのも限界だったようでリビングの床、カーペットの端とフローリングに膝をつけ、体を震わせている。汗をかき、顔面蒼白。もしかしたら心を病んでいるのかもしれない。普段からこの一家と懇意にしていて頼りに来たのだろうか? 僕はそう思った。

 男の肩に彼女の母親がそっと手を置いた。僕は『場違いな自分がここにいていいの?』という視線を彼女に送ったのだが、彼女はやや引きつった笑みを見せただけでまた男に視線を戻したので意図が伝わったのかどうかわからない。おかげで帰るタイミングを完全に逃してしまった。


 僕はこの夜、彼女の家に夕食を食べに来た。家族構成は母、父、長女、次女、三女のほぼ女所帯。三女は他の姉妹とかなり歳が離れている。

 僕の彼女は長女だ。彼女たち姉妹は母親とよく似ている。その母親もかなり若い。夫と横に並んでいるのを見ても親子、こう言っては悪いけどちょっと老けているので何なら祖父と孫にも見えてしまうくらいだ。

 実際に紹介されるまでそう思っていたほどだ。覇気はおろか存在感がない。


 なので緊張感はほとんどなく、楽しい時間を過ごしていたところに激しいノックの音がし、現在に至るというわけだ。

 テーブルの上の料理はほとんどおなかの中に収まった。デザートはまだだが、頃合だろう。部外者は無用。ここはサッと帰り、空気の読める男だとアピールする。僕はそう考え、椅子から腰を浮かせた。


「息子は……湯船の中でドロドロに溶けちまったんだ!」


 僕は尻を再び椅子につけた。


「おれがドアを開けたときは湯船の中はもう、真っ赤さ! そ、それから風呂場には遺書が落ちてた……。ご丁寧にクリアファイルの中に入れてな!」


 その男の顔は涙と鼻水でグシャグシャだった。それこそ溶けてしまうんじゃないかと思った。


「中にはな、よれよれの字でな。クソッ! おれは最初それが何かわからずに詮を抜いちまったんだ! 息子だったのに! 気づかずに! あいつのほとんどは配水管に流れちまったんだよぉ!」


 痛ましい声だった。こちらの感情を、涙腺を刺激するような。でも僕の中の冷静な自分がこう言う。『やはり、この男は頭がおかしいんじゃないか?』

 だってそうじゃないか。人間がドロドロに溶ける? それよりも酔っ払って飲みかけのワインを湯船に落とし、真っ赤に染まったのを見て行きついた妄想と考えたほうが自然だ。

 それかヤク中。異様に落ち着きがない。でもその男の震えが突然ピタリと止まった。風で揺れていた蝋燭の火のように。


「お前らのせいだろう?」


 ピシッとグラスの中の氷にヒビが入った音。でも多分、ピリついた空気からきた幻聴だろう。家の中は静まり返っていた。

 宥めようと言葉をかけようとしたしたのだろう、彼女の母親のその口が開くより先に男は言葉を続けた。


「お前ら、夫婦じゃないんだろう?」



 彼女と初めて会ったのは大学の敷地内、木漏れ日の下だった。馬鹿大学に似合わない、上品な服装と佇まいだった。


「素敵な日傘だね」


「……ありがとう」


 勇気を出して声をかけた僕に対し、そっけない返し。肩を落とし、立ち去ろうとした時、彼女が日傘をクルクル回した。機嫌良さそうに。それがたまらなく可愛かった。

 僕がそのまま見つめていると彼女が傘を上げ、目と目が合った。お互い笑った。そして僕は完全に落ちた。ああ、この人と一緒になりたいとまで思った。そう、夫婦に。


 ガラスが割れる音。その音に僕は甘い思い出の中から現実に引き戻された。彼女の母親がテーブルにぶつかり、グラスが床に落ちて割れたのだ。青ざめた顔。何故か動揺しているようだ。


「わ、私は、ただ、か、彼と一緒になりたく、て」


 彼女の母親が手で顔を覆い、床に膝をついた。男はそれに目を向けず、下を向きながら喋り続けた。まるでそうしなければ耐えられないように。


「い、遺書に書いてあったんだ。彼女と添い遂げたかった。実は彼らは夫婦じゃない。どんな彼女でも受け入れるつもりだった。おれは騙されたのか? それともこうなることを予期してなかったのか。なぁ、一体、おれの息子に何したん――」


 そこで男の言葉は途切れた。喉はただゴポゴポと音を立て、手足をバタつかせて、まるで溺れているようだった。突然のことで、僕は頭と足が浮かぶ感覚がし、これが白昼夢なんじゃないかとさえ思った。


 ライオン。


 その男の喉元に噛み付いた次女を見てそう思った。男の首からチョコレートファウンテンのように血が緩やかに流れ、やがて男の手足は動かなくなった。

 その血が床を這いカーペットに染みるのを眺めながら、僕はある空想に囚われた。殺人を目撃したショックからだろうか僕の頭の中で何かが弾けたような感じがし、映像が飛び込んだのだ。


 僕は湯船に浸かっている。沈めた手を顔の前に上げるとトポトポと水が零れ落ちる。その色は赤茶色だ。

 手をよく見ると皮膚がベロンと捲れている。これは何? ともう片方の手を伸ばすと、その指の先から白い骨が見えている。僕は目を見開きそれを見つめている。

 すると汗が目に入った。違う、汗だけじゃない。血だ。

 僕は立ち上がろうと足に力を入れる。が、尻が上がったところでドスンと底につく。そして、もげた足が死んだ魚のようにプカッと湯船に浮かぶ。でもそれも固形の入浴剤のように徐々に崩れ、溶けていく。

 今度は頭の上から何かがズルッと落ちてお湯が顔に跳ねた。口の中に赤茶色に染まったお湯が入り、血の味が広がる。

 僕は手で顔を拭う。でも、その手からボトッと何かが落ちてまたお湯が跳ねる。

 手の肉だ。手からはもうほとんど肉が削ぎ落ちていた。

 さっき落ちたのは髪の毛。より赤く濁っていく湯船でバラバラになった髪が寄生虫のように浮いている。

 やがて僕はズリズリと沈んでいく、支えるものは何もない。土の城が水にのまれ、泥となり崩れていくようにただ虚しく。

 僕は溺れないようにと顔を上に向け、鯉みたく口を突き出す。流れ込む血の味。それを飲むことがただただ嫌だった。


「お、お母さん」


 彼女が震えた声でそう言った。でも視線の先にいるのは次女だ。


「ごめんなさいごめんなさいお母さんごめんなさい……」


 彼女の母親が床に座り込んだ。そして三女が次女に駆け寄る。ママと言いながら。


「やっぱり無理なのかも」


 次女のはずの女性が口を拭い、僕に目を向ける。冷血動物のような目。感情をまったく読み取れない。ただただゾッとする。


「彼らを私たちのようにするのは」


「そ、その、あ、吸血……」


 僕は言葉を続けようとしたが声が出なかった。喉が痛い。噛まれたと思って手をやったけど違った。どうやらずっと口を開けたままにしていたらしい、乾いていた。


「私たちが吸血鬼なのかって? ……ええ、そうよ。夫は違うけどね。この子たちは人間とのハーフ。だからかなりゆっくりだけど、いずれこの子も私の年齢を追い越すの」


 そういうと次女は、いや、彼女たちの母親は三女の頭を撫でた。三女は小動物のように嬉しそうに体を振った。


「つ、つまり、母親はあなたで、長女は」


「そ、座り込んでいるあの子。あなたが付き合っていたのは次女ね。でもあの子に母親役は無理だったようね。恋に浮かれ、しくじった。普通に結婚したんじゃ先立たれるのは目に見えているものね。いえ、それならまだマシかもね。不信がられ、探られ、知られ、恐れられ、拒絶されて……」


 母親はナイフで何度も刺すように言葉を羅列した後、遠い目をした。長女はより大きく泣き声を上げた。


「で、あなたは……今晩泊まっていきなさい。お風呂を用意するわ」


 僕は彼女の父親に目を向けた。この数分でより一層年老いたように見えた。

 彼と先ほど見た湯船のイメージ。

 赤く染まる湯船。白く染まる髪。

 どちらが僕の未来だろうか。そして、どちらが幸せなのだろうか。彼女が掴む僕の腕が、脆く、崩れる感覚がしていた。

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