走るなメロス
「おい、メロス! 待て! そこで止まれ!」
背後から浴びせられたその声におれの心臓はまた一段と激しく脈打った。
俺は怒っていた。この世の中に、他人に、親に、運命に。
そしてその怒りを力に変換し、拳を固く握り腕を振るい放たれた矢の如く走る。背後に迫るは権力の手下共。捕まるわけにはいかない。捕まれば抹殺される、いいや、もう俺は死んでいるのかも知れぬ。そんな思いをも振り切るために走るのだ。己を、名誉を守るために……。
冬の夜の空気が俺の喉と肺を痛めつける。荒い息遣いは己のもののみ。これは孤独な男の闘い。走る。ただひたすらに。
次第に怒号が遠ざかり、やがて完全に途絶えた。だが俺は足を止めない。もう少し。そう、もう少しだけ俺は風になっていたい。何も考えず、囚われず。無色透明に……。
思うがまま、しばし走り続けた俺は歩を緩める。どうやら完全に撒いたらしい。あの犬どもの気配は感じない。そう、俺は勝ったのだ。
ここからはゆっくりと歩こう。息を整えるんだ。あの夜空に悠然と輝く星を見ながら心を落ち着かせ、勝利の余韻に浸る。握った拳を開き、熱を逃がしてやると夜の空気、柔らかな感触が手をくすぐり、そして匂いが俺を心を優しく揉んでくれる。
いい気分だ……だが、一つだけ気になることがある。いったい、なぜ奴らは――
「そこまでだ、メロス」
向けられたライトの光に俺は目を細めた。瞬間、臨戦態勢に切り替える。
光は三つ、いや四つ。正面突破は無理だ。だが、踵を返すもそちらからも刺すような光が三つ。囲まれた。完全に。連中がにじり寄ってくる。ここまでか。それに仮に逃げおおせたとしても……しかし、なぜだ。なぜなんだ。
「……なぜ、俺の名前を知っている?」
「……ん? そりゃ、メロスなんて名前、一度聞いたら忘れないよ。おたく、前にも捕まったでしょ? 署内で話題になったよ。なんて書いたっけ? 愛に、まあいいや。はーい、腕出して。現行犯ね」
ああ、メロス。おお、愛露主……。両親からこんな名前をつけられ、学校でからかわれ、ズルズルと俺は道を踏み外した。
人生に嘆いてやった憂さ晴らしも一度捕まればその名前の珍しさから顔や背丈、走り方など特徴を全て覚えられ、この様だ。
「セリヌンティウス……」
固く握ったこの拳を額につけ、俺はそう呟いた。放したくはない、守りたい。この手の中の温もりだけは。
「いや、その盗った下着こっちに渡して」
暴君め……。




