荊棘の音色
……何かがおかしい。ああ、先程から奇妙な感覚がしている。まるで自分の巣に近づいてきている蛇、捕食者の気配を感じ取ったような。
そんな違和感を抱いた男はちらとバックミラーに目を向ける。
――津波。
宵闇に紛れ、不確かであったが目を細め凝視し、見えたのは黒い波。後ろから凄い勢いで押し寄せてきている。
――違う。
あれは茨だ。茨がこの車を、私を飲み込もうとしているのだ! 先程からしているこのけたたましい鳥の鳴き声はアスファルトを駆ける茨の音だったのだ!
彼は再び前を見つめる。唐突に安全運転の心掛けを思い出したのではない。そもそもアクセルを踏むことを遠慮はしていなかった。ただ恐怖から目を背けたかった。しかし、音は彼を逃がしてはくれない。
ギギギギギと黒板を爪で引っかくような耳障りな金属音。伸びた触手が車の後部を擦っているのがわかる。そしてその音はじわじわと運転席の方へ確実に近づいてくることにも。
彼は先程とはまた別の奇妙な感覚を抱いた。それは夜の道路を疾走するその没入感が起こした錯覚。彼は車と同化し、風を、そして肌に痛みを感じた。
彼はまたアクセルを踏み込んだ。車は速度を上げ、ヘッドライトが目の前に広がる闇を切り開き、茨を車体から引き剥がしたが、それが一時しのぎに過ぎないことは彼もわかっている。
道路を擦る茨の音。ギチギチギチギチと悪魔の使いの昆虫の群れのようなその音はひどく無機質で、情など一切感じ取れない。
すでに車後部は傷だらけだろう。幸いにもタイヤはまだ無事だ。やられるわけにはいかない。もし、そうなれば……。
想像しただけで怖気が全身を走る。彼は今一度、己を奮い立たせるために、あるいは安堵感を得るべく助手席に目を向けた。
青白く光る薔薇。隠れた月、その光を頼ることもなく、それ自体が発光している。
特別な、そう特別な花。この花こそが妻を救う、万病に効く薬なのだ! 伝承? 幻? そう嘲笑う者は今すぐ私と席を代わるがいい。押し寄せるこの茨がその証明だ。奪われた一部を取り戻そうと追ってきている。車を、私の命もろとも飲み込もうとしているのだ! おお、妻よ。どうか私に勇気を――
ガラスが割れた音に彼はハッと我に返り、再びハンドルとアクセルに力をこめた。
しかし遅かった。予想以上に押し寄せる茨の速度は上がっていた。
割られたのはリアガラスだ。車体の後部を巨大な手で掴まれたように(いや、実際に掴まれたのだ。棘の触手によって)車体がガクンと一瞬宙に浮いた。
またアクセルを踏み込み、それを引き剥がす。しかし、今度は完全には振り切れない。左右から太い触手がドアのガラスを叩き、車体が右へ左へ揺れる。ガラスの破片が彼の顔に飛び、まるで肉を求めるゾンビさながらに茨が割れた窓から侵入する。
彼は助手席に置いていた薔薇に手を伸ばし、サッと懐に入れた。渡すわけには行かない。これだけは。
しかし、その判断も決意も茨にとっては何てことはない。全て引き裂けばいい。茨が彼の体に巻きついた。
棘が首、手首、顔、露出している肌という肌を切り裂く。
悲鳴は慰めにはならない。しかし、気力を奮い起こすのには役立った。まだくじける訳には行かない。そしてその意志が、彼の叫びが光明をもたらした。
夜明けだ。薄っすらと明るくなる空。左右の真っ黒な雑木林に色が戻ろうとしている。
そして、それだけではない。町が見えてきた。
緊張、それに茨の締め付けが緩んだ気がした。この怪物は太陽に弱いのだろうか。いや、考えるより先に、だ。
そう思った彼がアクセルを踏み込むと車は唸りを上げ、再び速度を上げた。メーターが振り上がり、茨を後方へ置き去りにする。彼はそのまま速度を落とすことなく、車を走らせた。
まだ眠ったままの町の中を走り抜ける。車体が軋む音。次いでガクンと揺れた。
手酷くやられたな。だが頼む、もう少し持ってくれ。彼はそう念じた。
車は道路に寝ている落ち葉を巻き上げ、雄叫びのようなブレーキ音を轟かせ、角を曲がる。走り続ける。決して止まらずに。
……ついに到着した。肺から大きく空気が漏れ出る。彼は半ば機械的に病院の駐車場に車を停め、そして感慨に浸る間もなく車を降り、入り口に駆け込む。
だが、チラッと後ろを振り返り、ボロボロになった戦友に感謝の念を送るのを忘れなかった。
思わず笑いそうになるほど、酷い状態だった。よくここまで来れたものだ。病院関係者があの車を見たらなんだと思うだろうか。ハロウィンの悪戯? 暴徒に絡まれた? ああ、きっと説明しても信じない。
心に余裕ができたのだろうか、病院の関係者の唖然とする顔を思い浮かべて彼は自分の顔が綻ぶのがわかった。
だが、喜ぶのはまだ早い。そうだろう? 彼は自分にそう問いかける。
しかし、体は正直であった。すでに満身創痍と言っていいはずなのに足取りは軽い。
階段を駆け上がり、妻の病室のドアの前に立つ。看護師に廊下を走ったことを注意され、すまないと軽く手を上げた。
ドアに手を伸ばしピタッと動きを止める。入る前に息を整えるのを忘れてはならない。彼女を心配させたくはなかった。そう考えた。と言っても、彼の妻は事故に遭った日から眠ったままだ。
そう、ベッドで眠る妻はあの日と変わらず美しいまま。まるで童話の姫のようだ。
病室に入った彼は今度こそ感慨に浸った。そしてゆっくりと妻の眠るベッドに近づき、腰掛けると、薔薇の花を取り出す。
妻の髪、閉じた瞼、頬、唇、そして自分の手に目線を向けた。手の平も甲も傷つき、血だらけだ。
だがもうほぼ全て乾いている。問題はない。彼はそっと指で妻の唇に触れる。柔らかな感触が薔薇の花びらに似て、愛おしく思う。そして少し開かせた後、花びらを手でギュッと搾った。
これで、これで妻は目覚める……。はははっ、手が震える。危ない危ない。落ち着け。狙いを外すな。ははは、昔から不器用なんだ。彼女にもよく笑われたな。また、またあの笑顔が、想像の中だけではない、あの笑顔が見れる。ああ、もうすぐだ。いいぞ、隙間から透明な雫が今、落ちる……。
「何をしているんだ!」
その雫が眠っている妻の口の中に入ろうとした瞬間、彼は突然、腕を掴まれベッドから引きずり落とされた。
雫はただベッドに小さなシミを一つ作った。
床に尻餅をつき、呆然とする彼。すぐにキッと、邪魔した者へ目を向ける。白衣の男。医者だ。そう理解するとさらに怒りが、熱が体内を駆け巡る。その最中、視線を自分の手に落とす。手の中にある薔薇は魔法の力を失ったことを示すように萎れていた。絶望と苦労が徒労に終わったことによる脱力。空っぽの器に上から液体を注ぐように、波立つ怒りが彼を駆り立てた。 彼は獣のような咆哮を上げると共に医者に掴みかかった。
「邪魔を! 邪魔! あああぁ! 彼女を! 彼女を目覚めさせることができなかったくせに!」
「や、やめなさい!」
「お前! お前は、ひ、非科学的な事を認めるのが怖いんだ! そんなくだらないことで! 私の! 私のぉ」
――彼女はもう目覚めることはない。
口にしようと頭に浮かんだその言葉が彼の指から力を奪った。
医者の首から両手を離し、彼はゆっくりと膝から崩れ落ち、ただ自分の影に染まった床を見つめた。
「……いいですか、どうか落ち着いて」
医者は先程、怒鳴り声を上げた者と同じとは思えないほど穏やかな声で彼にそう言った。
そのことで彼はそれがこの医者本来の声、気質なのだと思った。
そして、前にもこれと似たような声を、自分を宥めるような声を聞いたことを思いだした。
柔らかい布で傷口に触れられるような、その寄り添うような優しさに彼の心は幾分か絆された。しかし、それでも何かを言い返してやりたい気持ちになった。そうだ、あんたたちは大事な何かを失ったことがないからそんな優しい声を出せるんだ、と。
「……あんたたち医者は信じないだろうが……これは伝説の秘薬なんだ。いや、だったんだ。彼女に、妻にそれを与えようとしたのにあんたは――」
事実を口にすることで彼の心に再び怒りの火が灯ろうとした。が、それを、彼の話を遮ったのは女の悲鳴だった。
彼は目を見開き、歓喜に震えた。この部屋にいる女は一人しかいない。
妻だ。彼女が目覚めたのだ!
はははは! そうか、実は雫が口の中に入っていたのだ!
おかげで説明の手間が省けた。いや、もはやそんな事はどうでもいい。今はこの腕に彼女を抱くことそれだけでいい。
振り返る彼。朝日に包まれた彼女。姫。少々クサいセリフだが彼女に直接そう言おうか。
「いいですか、この方はあなたの奥様ではありません」
「……はははははっ!」
彼は、見ただろう! この期に及んで何を馬鹿な、と医者を一瞥した後、またすぐに妻に目線を戻す。
「はははは……は?」
だが、ベッドの上にいたのは知らない女。上半身を起こし、怯えた顔で彼を見つめていた。その身体は明らかに恐怖で縮こまっており、掛け布団を掴む手の甲に筋が立っている。
「妻は……今、そこにいた」
「……あなたの奥様は先月、お亡くなりになりました。あなたもその場にいたはずです」
「そんなはずはない。それにほら、こ、これは伝説の薔薇で」
「……どちらでそれを?」
「これは……あの森で」
窓から差し込む光が強まった。男はそう感じた。目を細めるとぐわんと視界が揺らぎ、酔うような感覚と吐き気がした。
まどろむような感覚。しかしそれは日の光のせいではない。この光はひどく乱雑で脳を揺らす。そのせいだ。
思い出せない。奇妙だ。森のどの場所で薔薇を採取したのか、そこまでどう行ったのか。そもそもどうやって知ったのか、まるで車で茨から逃げる場面から物語が始まったかのように経緯が思い出せない。記憶が……しかしあの薔薇は。
彼が向きを変え、床に落ちているはずの薔薇を目で探す。
すると、靴に何かが当たった感触がし、彼の足先から小瓶がころころと床を転がった。
これは一体……。彼は頭の中を整理し考えようとしたが瞬間、耳に聞き覚えのある音が飛び込み、中断せざるを得なかった。
押し寄せる波の音。これは茨が駐車場のアスファルトを這う音だ。ああ、そうだ! そこまで追ってきていたのだ!
「いいですか、あなたは車を飛ばし、この病院まで来た」
そして今のは車が押しつぶされた音……。
「通行人を跳ね飛ばしながらね」
窓の外が暗い……ああ、空が蠢いた。
「今落とした小瓶。あなたはその女性の口の中に一体何を入れようとしたんですか……?」
茨だ。茨がこの町を、病院を、私を囲んでいるのだ。盗人の報いを受けさせるために。
「ああ、その窓からパトカーが病院囲んでいるのが見えるでしょう。でも大丈夫。大人しくしてれば彼らは危害を加えませんから、さぁこちらに」
彼はもう一度、妻を見た。未だ夢うつつのようだが、穏やかな顔。そして微笑み。それに応えるように彼も微笑んだ。
「大丈夫、あなたは良くなります。私の知り合いに腕のいい精神科医がいて――」
彼は窓を開け、足をかけた。そこに一切の躊躇は見受けられなかった。
下で蠢く茨に、この身を捧げる為に最後の一歩を踏み出したのだ。
この世界に帰還した妻に、その世界の終わりを告げないために。
茨が擦れ合う音。彼はそれ以外、何も聞こえなかった。
もう、それでよかった。




