トイレの落書
――なんかアンバランスだな。
その便器の前に立った御子柴煌一はそう思った。
落書きだらけの公衆トイレの個室。なぜか便器だけは綺麗なままだ。均衡していない。彼はそういったことが気になる性分だ。
落書き野郎も便座にはなぁ、と分別をもっているということか? いや、新品に取り換えたばかりなのかも。いや、そもそもここに座って書くから綺麗なのか。
「……まあ、どうでもいいか」
御子柴は笑い混じりにそう呟き、ズボンを、そして便座に腰を下ろす。
落書き。書いた人物の程度が知れる。まるで馬鹿の品評会だ。大企業に勤める自分がこんな場所に……と卑下するものでもない。誰であろうと便意には抗えないものだ。むしろそう、もっている。会社と駅の丁度中間くらいにこのトイレがあったのは幸運だ。
おかげで急いで会社に引き返すことも駅に走ることもなかった。社の連中に、特に上司に見られたらと思うと怖気が走る。こんなところに入ることすらも……。まあ、もう恐らく来ることはあるまい。
そう考えながら御子柴は視線をドアに書かれた落書きに走らせる。
【ここのトイレくさっ!】
ああ。
【同じクラスのAが好き】
知るか。
【ウェーイ! 可愛い子はここに電話してちょ?】
しねーよ。男子便所なんだから男しか見ねえだろ。
【上司のM最低】
お前が無能なだけなんじゃないか?
【右見るやつ馬鹿】
馬鹿はお前だ。
【おれは――を殺した】
……は?
目をしばたたかせたが見間違いではない。目の前のドアには確かに書かれていた。
【おれは御子柴煌一を殺した】と。
これは一体どういうことだ? 『殺す』ならまだわかる。嫉妬、恨み、それを全く買わずに生きてきたと言うつもりはない。しかし『殺した』とは?
御子柴は手で自分の胸や顔を触った。
当然だが生きている。呼吸も心臓の鼓動もある。実は自分が死んだことに気づいていないなんてことはない。当たり前だが。
同姓同名の可能性は恐らくないだろう。苗字も名前も珍しいほうだ。今まで人と被ったことはない。ならばこれは……。
と、御子柴はふっと息を漏らした。
これはただの憂さ晴らしだ。『殺した』と書けば実際に殺した気になり、少しは気が晴れるだろう。弱者の浅知恵だ。
だが、実際に行動に移されるよりはマシというもの。心当たり。これを書いたのは知り合いか昔キツくあたった大学の後輩、いや、やはり部下の仕業だろう。ここは会社から駅への通り道だ。可能性は高い。
しかしまあ部下を持つようになってそう年月が経っていないと言うのに、この様では先が思いやられる……いや、使えない奴が悪い。優秀な自分が気を揉む必要はない。その時間も労力も惜しい。
御子柴は鞄からペンを取り出した。そして自分の名前が書かれた落書きの下に【死んでねーよ馬鹿。お前が誰だかわかっているからな】と書いた。
件の落書きを書いた本人がこれを見るとは限らないが、もし見たら顔面蒼白だろう。実際には犯人が誰だかはわかっていないが向こうは知る由もない。御子柴はクックックと笑い、【無能が悪い】【使えないやつが悪いんだ】と他の箇所にも書いた。
「ん?」
御子柴がそろそろ尻を拭いて出ようかと思ったその時、御子柴が書いた落書きの更に下に矢印があることに気づいた。
【M。本当に殺そう】
この矢印、さっきは見落としていたが件の落書きを書いた者へ向けてのメッセージだろう。では、Mとは俺のことか?
御子柴は周りを見渡した。M。見覚えがあった。
【M最低死んでほしい】
【Mクソクソクソ】
【M殺したい】
【Mにセクハラされた子たくさんいるってよ】
【M殺そ?】
【Mを殺せ! 殺せ殺せ】
……全部、俺のことか? いや、そんなまさか。
唇を震わせる御子柴。背筋は冷えているが額からは汗が出る。御子柴はポケットから取り出したハンカチで顔を拭い、次いで落書きを擦り始めた。
消えない。
消えない。
何で俺が。
誰が。
消えない……。
クソどもが……!
焦燥で震える手で御子柴はガンと扉を叩いた。消えていくその音にため息を絡ませると、新たに聞こえてきたのはいくつかの足音。それとヒソヒソ声。
「そこ?」
「ああ間違いない。入ったところを見た」
「いる。音もしたしな」
「薬、効いてよかった……あ、他に人は」
「来てない。今なら……そうだ。掃除中の立て札が用具入れの中にあるはず。入り口に置いておこう」
「よし、よし……じゃ、じゃあ、や、やろう、もう限界だ……あのクソ野郎……」
このトイレには悪意が詰まっている。流れていかない悪意が。
不自然なまでに綺麗だった便器は汚れ、落書きだらけの壁と釣り合いが取れた。
調和をもたらした。それはこのトイレの中だけのことじゃない。あの笑顔。Mの文字が笑って見える。
薄れ行く意識の中、御子柴は落書きを見上げ、そして沈む感覚に流されていった。




