やり直し
夜。とある会社。激しくキーボードを叩く音。それと競うように今、彼の脳内は罵倒の言葉が絶えず、飛び交っていた。
――クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ
その隙間。差し込まれる言葉は彼の上司のもの。
――明日の朝までに終わらせとけよぉ!
彼に落ち度があるなら、まだ納得できよう。しかし、彼が仕上げたその大事なデータを消したのはその上司張本人。
――クソクソクソクソクソクソクソクソクソ
――あー、それからよーく手直ししとけよぉ!
――クソクソクソクソクソクソクソクソクソ
――どうせあのまんまじゃ使えなかったしなぁ!
――クソクソクソクソクソクソクソクソクソ
――あ、電気は点けるなよ。省エネだ省エネ!
――クソクソクソクソクソクソクソクソクソ
――ただし、てめぇはサボるなよぉ!
――クソクソクソクソクソクソクソクソクソ
実際のところ、彼の仕事は問題なかった。だが、「悪い、データ消えたわ。はははっ」とだけではさすがにばつが悪かったのだろう。上司は彼にそう言った。罵倒も添えて。
――クソクソクソクソクソクソクソク殺しクソクソクソクソ
誰が悪いのかは明白だ。だが、彼の性格上、完全な他責思考とは至らない。
上司が悪い。この会社も悪い。しかし、この会社にしか入れなかった自分もまた悪いのでは、と。
――やり直せるのならそうしたい。
手を止め、天を仰げば低い天井。せめてもの反抗と電気は点けてある。付き合わせて悪いな、と彼はフッと笑ってみせた。
……が、フッと消えた。そう消えた。停電、パソコンの電源、データ保存は、と脳内に次々浮かぶ言葉もまた消えた。
彼の目の前にあるのは完全な暗闇であった。やがて……
「……あれ? は? ここは?」
いつの間にか眠ってしまったのか……いや、どちらかと言えばブラックアウト。気絶したのか。気づけば夢の中のようだ。オフィスにいたはずなのに真っ白な空間。そして……と尻餅をついたような体勢でいる彼の目の前にいたのは
「……私は神だ」
まさに神々しい。威厳溢れるその姿。目を丸くする彼だが疑ってはいない。無論、この夢の設定としてだが。
「あー、夢ではない」
「……え?」
「そなたは死んだ」
「いや……えっと、ははは、こ、怖いなぁ」
「死んだ。過労死だ」
と、言われれば急に現実味が帯びてきて彼は身震いした。そして虚勢混じりに「異世界に転生できるとかあったりしますか?」などと口走ったが、神は顔を顰めた。
「……死んだ者は記憶を消され、また同じ人生を赤子から繰り返すのだ。全く同じにな」
「そ、そうですよね……え? え!? じゃ、じゃあ僕はまた過労で死ぬんですか? え? どうすることもできず? は? 天国は!?」
「ない。それがこの世が成り立つための、乱してはならぬ絶対的な仕組み。礎なのだ。人間は燃料のようなもの。それにしてもなぜ人間がこの場所に……ん? おっと」
おっと? 神のその先の言葉を聞くことなく、彼は気づいたらオフィスのデスクに顔を突っ伏していた。
「夢……だったのか? それともギリギリ、息を吹きか――」
「夢? じゃあねえよ! どうせまだできてねえんだろ!? やれよ!」
「あ、あ、あ、課長……僕を起こしたんで、あ! まさか手伝いに戻ってき――いてっ!」
「ちげーよ! 忘れもんだよ! しっかし、サボって寝てるとはいい度胸だなぁおい……。明日の朝までに終わんなかったらマジ、ぶち殺すからな。おら、取り掛かれや!」
「は、はい……」
彼はまた一人、作業に取り掛かった。脳内に罵倒の言葉はない。あるのはあれが真実か否か。ただこの虚脱感。死んでいたと言われればそんな感じもしてくる。が、考えている暇はない。仕事をしなければ。しなければ……。
――明日の朝までに終わんなかったらマジ、ぶち殺すからな。
――ははははははははははははははははははははははは!
――明日の朝までに終わんなかったらマジ、ぶち殺すからな。
――明日のははははははは朝までにははははははは終わんなかったはははははははらマジ、ぶちははははははは殺すからなははははははは!
――もし本当に人生が繰り返されるのなら、少しくらい楽しい地点があった方がいい。
そう思ったときには彼はもう窓ガラスに向かって思いっきりパソコンをぶん投げていた。
割れた窓からビル風が吹き込む。爽やかで新しい風だ。
今しがたした鈍い音と今も続く恐らく、通行人の悲鳴。
目を閉じ、意識からそれを遠ざけるように今、彼は風だけを感じることにした。




