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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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別世界への入り口

別世界への入り口

  

 ――ガリガリガリカリカリガリカリガリガリガリガリ

 

 彼はふと、その手で脳を削っているような感覚を抱いた。

 夜。その青年は勉強しすぎていた。瞬きを忘れたその目は血走り、手元灯の下のノート。それに毎分、時計の秒針が一回りする間にどれだけ書き込めるかを挑戦するようにシャーペンを走らせ、脳に黒ひげ危機一髪のように知識の破片を差し込んでいった。

 そして、脳がオーバーヒートを起こそうとするたびに押入れの戸を開け、中にしまってある布団に顔をうずめ叫ぶのだ。そこにドラえもんはいない。一人部屋だ。気兼ねすることはない。

 それを繰り返すこと三度目。よろめきながらも、また机に戻ろうかいうとき、彼はふと押入れの天井を見上げた。頭にジリつくような熱を持っていたため、僅かに流れるひんやりとした空気を敏感に感じ取ることができたのだ。


 板がずれている。冷気はそこから来ているようだ。

 何かの弾みでずれたのだろう。彼の部屋は二階だ。この押入れに天袋はない。恐らくは屋根裏に通じているだろう。

 彼は身を取り出し、板を戻そうとした。このままにしておけば招かれざる客、ネズミやゴキブリが部屋でツアーを開始すると考えたからだ。ひょっとしたらハクビシンも来るかもしれない。塾帰り、夜道で何度か見かけたことがあった。彼が同塾生の手にシャーペンを突き刺して塾から追い出される前の話だが。

 彼が何故そのような蛮行に及んだのか彼自身にもわからない。思い返すこともしていない。今、彼の頭の中にはそんな余白はない。


 押し入れの天井に手を伸ばした彼だったが届かず、結局中板に両足を乗せ、完全に押入れの中に入った。どことなく湿った感じだが、呼吸をすれば木の香りがし、涼しく静かだ。尤も、静かなのは今、彼の家族が不在であるためだが。父、母、妹は彼を置いて外食に出かけている。そんなことすら彼は知らない。が、それは彼が家族から疎まれているというわけではなく受験勉強の邪魔をしてはならないという配慮だ。

 両親は彼に対して、しっかりと愛情を持っている。それとは別に今は娘に意識を割いていた。

 最近、女性の死体が出たからだ。とはいうものの近所ではない。隣町だ。しかし、いつ魔の手が娘に伸びるか、グレて夜遊びに更けることがないようにしっかりと愛情を示さなければというのが父と母の共通の認識だ。

 だから、ささくれ立った兄を置いて、自分の好きな店に食事に連れて行ってもらえるこの状況を妹は理解し、また最大限活用してやろうと思っている。食事の後もいくつか気になる店に連れて行ってもらうつもりだ。


 彼は再び板に手を伸ばし、戻そうとしたがほんの興味本位、冒険心が彼をくすぐった。テスト勉強の合間に掃除したくなる類のものかもしれない。

 彼は板をどかし、そこから顔を出した。良い空気とは言えないが、この涼しさは悪い気はしない。

 そう思いかけたときだった。彼は驚きの余り、後ろに仰け反った。そして押入れから転がるように落ち、背中を打った。その痛みが今見たものを夢ではなく現実だと伝えている。


 ――あれは髪の毛と……肉。

 

 黒い。恐らく女性の。大きな粘土の塊に髪の毛を植えつけたように暗闇の中、ボワッとした白い物体に髪の毛が生えていたように見えた。


 ――化け物。


 それがこの家の屋根裏に。手足はないように見えた。夜な夜な屋根裏を這いずっていたのか? どこから入った? 何を食べている? それとも……死んでいるのか?

 あふれる思考は目眩を引き起こした。次いで吐き気と心臓の動悸も。だが、勉強のしすぎによる自身の熱が原因だと気づかない彼はそれがあの怪物の仕業ではないかと思い始めた。


 ――このままだとあいつに殺される。


 彼は恐怖し、そして……怒りが込み上げてきた。


 よくもよくもよくも勉強の邪魔をしやがって……ああああ殺してやる。

 ……でも、どう殺す? 火か? ……火だ! 火に強い生き物はいない。それが怪物であってもだ。


 着実に悲劇の沼に突き進む狂人の発想。だが勝利が垣間見えたおかげで僅かに心に余裕ができ、それに伴い冷静さが戻ってきた。


 ――見間違いかもしれない。


 彼は板がずれ、露出した屋根裏への入り口を見上げた。

 確認が必要だ。しかしもう一度顔を出した途端、いつの間にか這いずり、すぐそこまで来ていたそれが自分の首を掴み、屋根裏へ引きずり込むという映像が浮かんでしまった。

 そもそも、あの入り口は屋根裏へ続くものではなく、怪物ひしめく異界への入り口なのでは。


 ……ああほら、這いずる音が聞こえる! あの女だ! 今にその入り口から目玉を覗かせるぞ! 殺せ! 燃やして殺すんだ!


 そう、頭の中で声が木霊した。それが自分自身の声なのか実際に耳に聞こえたものなのかもわからない。すでに青年の目眩はまともに立っていられないほど酷くなっていた。


 どう燃やす? ライターは持っている。机の引き出しの中だ。百円ショップで買った使い捨てのものだ。若気の至り、経験、反抗心、理由は忘れたがタバコを買った帰りに一緒に買ったものだ。あのタバコ屋の老婆は高校生だろうとタバコを売ってくれる。買ったタバコの銘柄は赤のマルボロ。それしか知らなかった。


 彼は引き出しからライターを取り出した。緑のスケルトン仕様で、ほとんど使っていないのがわかる。それから彼はティッシュ数枚を箱から抜き取り、押入れの中に入った。

 二度、三度、深く呼吸をする。そして屋根裏への入り口に顔を突っ込んだ。


 不気味な生物は先程と同じ位置にいる。一先ず安心。しかし油断はできない。

 彼はライターのヤスリを指で回転させた。三つほどの火花が躍り出て、火が揺らめいた。

 そして、それが女の姿を露にした。彼は目を凝らしそれを見つめた。


 あれは……生き物では……ない?


 粘土の塊のように見えたのは白いビニール袋だった。それが皺になり、形作っていたのだ。

 怪物ではない。ではあれは何だ? 女の死体をビニールに入れたのか? それにしては小さい。バラバラにした? 殺人犯が……まさかまさかまさか……自分が?

 記憶を辿るも女性を殺した覚えはない。しかし夜道、浮かれた声で歩きながら電話をしている女性の背中を見て、あまり良い感情を持たなかったことが度々あった事は覚えている。

 殺した? 二重人格? ありえないとは言い切れない。そうとも、同塾生をシャーペンで刺したのも覚えていないんだ。なら殺人犯だったとしても覚えていないということもありえるんじゃないか?


 彼の視界が揺らぐ。


 これは人格が入れ替わる前兆か? この頭痛は悪魔的な自分がここから出せとノックをしているのか? 脳という狭く暗い箱から。ああ、頭が痛む……。

 

 と、彼が額に手を伸ばしたそのときだった。

 屋根裏のひんやりとした空気が彼の熱を帯びた額にキスをした。


 彼はライターの火を消し、袋に手を伸ばした。

 指がギリギリ引っかかる距離。

 思い出したのだ。これは間違いなく、彼が自分でここへ押しやったものだ。簡単には取り出せないようにと。

 テスト前の少年がゲーム機を鍵付きの引き出しにいれ、その鍵をそう簡単に手の届かない所に投げるように。

 手繰り寄せ、木の板を擦り、袋が今、彼の手の中に。彼はそれを抱きしめた。中のウィッグが零れ落ち、彼の足をくすぐった。


 何故こんなにも熱で朦朧としながら勉強していたのか。

 ――必ず合格し、通いたい学校があるからだ。


 何故、同塾生をシャーペンで刺したのか。

 ――その学校の新しい取り組みを嘲笑われたからだ。


 彼はウィッグを拾い上げ、袋に戻した。そして、彼はその女装セットをそっと屋根裏の中へ戻し、板で入り口を塞いだ。


 彼はまた机に戻り、勉強を再開した。スカートかスラックス。制服を選択できる学校に通うために。

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