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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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笑う、笑う、硫黄が香る

 息遣い。それに落ち葉を踏む音が、いやに耳に残る。静かすぎる。風がないのだ。見上げた空には動きがなく、白いベールに覆われたように太陽の光がやや遮られていた。

 その青年は森の中を歩いていた。足取りは不安定そのもの。時々、思い立ったように速めたり、周りを確認するように立ち止まりまるで怯えたウサギのようだった。


「どこへ行くというのかな! 若者よ!」


 その声に驚いた青年は一瞬硬直し、落ち葉の上に転んだ。足がもつれたのだ。その瞬間を見た男はケタケタと子供のように笑った。


 青年は後ろを振り向く。

 黒いコートの男が手を後ろに組み、ゆっくりとショーウィンドウを眺めるように、こちらに向かって歩いてきていた。


「ほぉうら。手を貸そうか?」


 そう言い、男が片手を前に出す。指を擦り合わせて近づいてくる。

 青年は先程から自分をつけまわすこの男がただの人間でないことは十分にわかっていた。

 男に踏まれた落ち葉は音を立てない。踏まれた枝が折れることもない。足跡一つ残さない、そんなことが人間にできるだろうか? いや、できない。そして何よりも男の目から滲み出る邪悪さが歓迎すべきものではないと本能が告げている。

 青年は立ち上がり、体についた落ち葉を静かに払った。落ち着きを取り戻すのと同時に、相手に自分は冷静だと思わせるために。ただ実際のところ、青年の頭の中はかき回されたように混乱していた。


 ――ここはどこなんだ。


 それは道に迷ったという意味じゃない。いや、確かに迷ってはいるだろうが、この森がどこなのか、なぜ自分がここにいるのかわからないのだ。気絶。あるいは眠っていた気はする。ならばここは夢の中なのだろうか。そうだ、この何かを思い出せない感覚。それもまた夢の性質ではないか!


「まだ、頭についているぞ? ほーら、そっちじゃない。そっちでもない。どれ、私が取ってやろうか?」


 青年は「うわっ!」と声を上げ、ひっくり返った。それを見て男はまた笑った。狂気をはらんだ笑い声だった。

 男が指に持った一枚の枯葉――青年の髪についていたものだ――それにフッと息を吹きかけると枯葉はボロボロ崩れていった。

 ずりずりと尻を引き摺り、後ずさりする青年。耳に手をやり、無事かどうか確かめた。青年が転んだのも、あの男が急激に距離を詰め――まだ十分に距離があったはずなのに――男の声が、その息が耳にかかったからである。

 耳は無事だった。だが、青年の内面を透かしたように男はニヤニヤ笑った。

 そんなに怯えなくて良いだろう? そう言いたげな顔だった。

 三歩、四歩。またしても男が自然な、何なら機嫌の良さそうな足取りで音も無く近づく。男が青年の目の高さに合うようにしゃがむとシーソーのように青年は立ち上がり、また駆け出した。


「おいおい質問の答えがまだだぞぅ! ここまで私は君に手を差し伸べてきたじゃないか! それを無視してどこへ行くというのだ!」


 笑い混じりの声が青年の背中に刺さる。走り、笑い声を置き去りにし、自分自身の荒い呼吸の音だけが聞こえるようになったとき

青年はようやく立ち止まった。しかし……。


「何度も同じ質問をさせないでくれよ」


 青年は背後からしたその声に驚き、トカゲを見つけた猫のように地面に飛びついた。

 男のその声から苛立ちは感じられなかった。出来の悪い子供を哀れむような声、ただし嘲笑混じりの。

 男は青年を見下ろしクックックと笑う。


「どこへ……」


 痛む喉から搾り出した言葉。


「そう、どこへ?」


「どこって……そうだ、彼女のところだ!」


 立ち上がり、逃げるための時間稼ぎのつもりの会話だったが、脳が刺激されたのか青年は思い出した。彼女の顔、やや癖のある髪、そして声。ただその声はどこか苦し気で青年をまた戸惑わせた。


「か・の・じょ?」


 男はここまでで一番の笑いを見せた。地面に横たわりハムスターの回し車のように体をくるくる回しながら。それでも落ち葉が舞うことはなく、青年をゾッとさせた。

 そして、頭の中に二つの質問が浮かび、青年はどちらを先に口にするか悩んだ。

 何がそんなにおかしい?

 お前は人間じゃないのか。……悪魔なのか?

 そして三つ目が浮かぶ。

 彼女に何かしたのか?


「そう、私は悪魔だ」


 男がぐわんと起き上がり、そう言った。

 鼻と鼻がくっつきそうな距離だった。硫黄の臭いがし、それが男の言葉に説得力を持たせた。


 青年は頭上を見上げた。思いっきり叫びたかった。

『神さま! この男は今自分が悪魔だと自白しました! あなたの敵です! どうぞ稲妻を落とし、こいつの胸焼けするような笑みとともにこの悪魔を焼き払ってください!』と。

 しかし、青年にはわかっていたことだが聳え立つ木々に囲まれ、空は僅かにしか見えなかった。その空も先程よりも灰色染みた雲に覆われている。


「神は君を見ていないさ。晴れた空でもな」


 呆れるようにその男は言った。『俺は知っているんだ』そんな風な言い方だった。嘲笑は混じってなかったが、それが却って男の感情を読み取れなくて不気味だった。


「あぁ! 何がそんなにおかしいかだったな? だが、私からすれば笑わずにいられるほうが疑問だがね! みんなもそう思うだろう?」


 男は立ち上がり、どうぞご覧あれと言わんばかりに両手を広げた。

 落ち葉の一枚一枚から黒い、フンコロガシに似た虫が這い出て、ギチギチと音を立てた。激しい音だ。

 それがあの肉を裂くような牙で鳴らしているのか、あるいは異様に長い後ろ足を擦り合わせて鳴らしているものなのかどちらかはわからなかった。頭蓋骨を鑢で削られているようで、青年は耳を塞がずにはいられない。


 男は青年を見下ろしながら笑う。塞いだ手の隙間から音が、合唱のような声が入り込んでくる。だがそれは聖なる賛美歌ではない、この男が奏でているものだ。風も無いのに木々が、森全体がざわめき、その音がなしたものだ。

 青年は感じていた。耳、そしてそれを押さえる手が爛れていくのを。ぶくぶくと水泡ができては割れて、爛れてやがて骨が顔を出す。それは手から腕へ、耳から顔へ広がり、青年は水の無い鍋で熱されているような感覚に陥った。苦し気な声が聴こえる。呻くような。青年の声ではない、まただ、また彼女のものだ。そしてそれは振り絞るような悲鳴へと変化する。

 この合唱の中に彼女が一歩前に出て歌っている! その悲痛を伴う声が、日常で聞いたことの無い彼女の叫びが、青年の脳内に彼女との思い出を呼び起こした。


 陽だまりの中、キッチンで調理する彼女の姿が浮かぶ。

 手が届きそうなほど近くに。

 でも自分はどこにいる。あぁその鍋の中からだ。

 頭で蓋を押し上げ、覗いている!

 すでに皮膚はドロドロになり、喉は焼かれ声は出ない。それでも自分の存在を伝えようと試みるが足を引っ張られ、蓋が閉まる。

 引っ張っていたのはあの男だ。あの笑い声が鍋の中で乱反射し、捲れ上がった皮膚に障る。


 ふいに青年は我に返った。男が青年の両手をそっと掴み、両耳から引き剥がしたからだ。


「何がおかしいって? 君は彼女を見捨てたじゃないか」


 虫の出す音、木々の合唱、それらを置き去りにし彼女の悲鳴が際立って聞こえた。ほんのすぐそこに。青年と男の距離ほどの近さで。


「ほーら、彼女はなんて言ってた? ほら……『首を吊る私を』」


「……『後ろから抱きしめていて』」


「『そうすれば』」


「……」


「ほら言うんだ! そうすれば?」


「……『きっと死ぬのが怖くないから』」


「よくできました」


 男は父親が子供を褒めるときのようにニコッと笑ったが、顔を背けた青年がそれに気づくことはなかった。

 青年が気づけたのはあの時も顔を背けていたこと。糸を吐き木の枝にぶら下がる蠢く芋虫のように彼女の揺れ動く体を、呻き声を聞き、恐れをなして逃げたことだ。


「早くに私の手を取っていれば彼女のもとへ連れて行ってやったのになぁ」


 それが嘘か真実かはわからない。考えることもできない。

 青年はフラフラと立ち上がった。もう男の声もこの喧騒も聞いてはいない。闇雲に走り回った森の中ではもう彼女を見つけられない。悔恨に打ちひしがれ、言葉を失った痴呆患者のようにただ声を上げた。

 仮に元の場所に戻れたとしてもすでに遅い。彼女にぬくもりも、感触も伝えることができない。二人を心中させるまで追い込んだこれまでのつらい日々。抱き合い、支え合い、分け合ってきた体温を。


「……さ、これにて終いだ」


 男はパン! と両手を叩いた。すると音はパタリとやんだ。


「そうだ、行くがいい。全てを忘れてしまえ!」


 青年は森の中を歩き続ける。男の笑い声を背に浴びながら。

 いくらか時が過ぎれば青年の耳はまた男の笑い声を捕まえるだろう。もしくは笑い声に捕まるか、どちらでもいい。

 すでに青年は囚われているのだから。

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