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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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安息の地

 夜遅く。駅を出てすぐそばの公衆トイレ。やや湿った空気。薄暗い照明。自然とひくつく鼻。そして歪む顔。

 便座に座った彼は、ふぅと息を吐いた。それは安堵とやる気が混じり合い、出たもの。

 そして彼は目の前の白いドアを見つめた。


 ――さあ、何を書いてやろうか。


 彼は鞄から取り出した黒い油性ペンを手に握り締めた。キャップをはずし、言葉を思い浮かべる。

 さほど悩むことはない。便を出し終わる前に決まるだろう。直感が大事。そう推敲する必要はない。


 ――ジャンルは何にしようか……ゾッとさせるものが良いな。


【早く出ないと私がノックするぞ。ほら早く】


 ――これだな。


 ドアにたった今思い浮かべた言葉を書く。キュッキューという音が耳心地がいい。

 悪戯書き。これが彼の趣味。人には言えないが、こういった刺激あるものが日々のストレス。その憂さ晴らしに良いのだ。自分でもわかるほど活き活きとした顔になっている。

 

 しかし、最後の文字が書き終わり、ペンのキャップを閉めようとしたときだった。


 ――コンコン


 ノックの音がした。間違いなく彼が入っている個室のドアが叩かれた音だ。彼は驚きのあまりキャップを手から落とし、カンカラと音が鳴った。

 慌ててキャップを拾う。指についた水滴を不快に思うよりも、込上げる恐怖心が勝った。


 ――偶然か? それとも……。


 自分の落書きがこの世のものではない何かを招いたのか。魔女の呪文のように。

 そう思う彼。次いで、落書きを見つめる。


『私』とは?


 彼はドアに文を書いている途中、特にその者の姿を想像してはいなかった。読み手、つまりは便座に腰を下ろし、この落書きを目にした者の想像力に任せるつもりだったのだ。できる限り、恐怖を感じるよう思いをこめて。

 しかし今、被験者は自分だ。その姿を着々と作り上げてしまっている。自分を殺すその者、その恐ろしい姿を。


【死んでしまえばいい】


 ――女の霊……いや、何を馬鹿な。考えるべきはこのペンをどう処分するかだろう?


 ノックをした者の正体。警官の可能性。目をつけられていたのだ。外に見張りを立てて、それらしい人物がトイレに入るたびに警官はトイレの中に入り、耳を澄ます。

 そして彼がペンを走らせる音を聞いた。その喜びたるや、笑みがこぼれただろう。途中、自分はトイレを見張るために警官になったのか? などと何度も自問し、そしてその鬱憤は落書き犯で晴らそうと奮起したことだろう。キャップを落とした音を耳にした瞬間、中で狼狽する姿を想像し、ほくそ笑んだに違いない。


【聴こえているぞ。汚い汚い汚い】


 ――いや、待て。落ち着け。怯えすぎてやしないか?


 警官がずっと外に立ち、公衆トイレに入る人物を見張る? 後に続き、個室に入った者の出す音に耳を済ませる? たかが落書き犯相手に? そんなことあるものか。何日、何時間そうしていた? そしていつまでそうするつもりだった? 警察というものはそんなに暇じゃないだろう。

 では今のノックの音は何だ? 自分が入ったとき、人はおらず隣の個室は開いていた。どちらも洋式。わざわざこの個室に入りたがる理由はないだろう。トイレの管理人? 落書き犯を捕まえようと見張っていた? 有り得なくはないが……。


【見ているぞ。汚らわしい】


 考える彼。自然と叱られる前の子供のように身構えていたが。その静けさに次第に強張った体が元に戻り、もしかして、気のせいだったのでは? とそう思い始めもした。だが


 ――コンコン


 二度目のノックの音。それと同時にはっきりとドアの前に立つ者の姿が浮かんだ。それは自分を死に至らしめるだけの根拠を持つもの。


【殺してやる殺してやる】


 幽霊。やはり女のか? 幽霊と言えばそれが定番だろう。恐ろしく、帽子にスカート。身長は高く俯いており、それでニヤッと……と、彼は頭を振り、その空想を散らした。


 ――あるはずはない。そんな事は。


 彼はきわめて冷静であろうとし、便座からゆっくりと立ち上がりパンツを履いた。尻を拭くことを忘れていたが、そのことに気づきもしない。

 考えていたのは水を流すべきか否か。流さない。相手にこれから出ることを気取られる。そう、このドアをさっと開けて飛び出すのだ。誰が相手だろうと突然の事で面食らい、怯むだろう。その隙に……。


 ――コンコン。


 三度目のノックの音。

 猶予はない。

 時間にも心にも。


【死ね】


 彼はドアの鍵を外し、そして勢いよくドアを開けた。

 しかし、面食らったのは彼のほうだった。

 黒い瞳……帽子……女。ただしスカートではなく、頭の中で思い描いていたものとは違っていた。

 それは警官であったのだ。


「現行犯です! 建造物侵入の常習犯!」


 女性警官は外に聞こえるように声を張り上げた。慌しい足音。他の警官が駆けつける音だ。

 それを耳にした彼はこれ以上の抵抗は無駄だと諦め、それ以上履いていたスカートを揺らすことはなかった。


【女はみんなクズだ】【自己中心的】【ブス。ブスブスブス】【汚物】【ゴミクズ】【私のほうがキレイ】


 ここ、彼が入っていた女子トイレの個室には彼の心の叫びともとれる落書きが四方に書き散らされていた。

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