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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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川のせせらぎ、木々のざわめき、硫黄の香り

 小春日和。穏やかに流れる川と小麦色になった雑草。少年は父親と一緒に川の上流へと道なき道を突き進んでいた。

 町の名前がついたこの川では少年の父親が子供時代、よく魚釣りを楽しんだものだ。今、親子そろって釣り場に向かって川沿いを歩いていることに父親は子供時代を追体験しているような感覚になり、プクプクと湧き上がる喜びが胸の内をくすぐっている。

 少年はというと、冒険心という旗を掲げて歩いているようなもので、時折危なっかしさも見せるが、関節の痛みに加え日ごろの運動不足を痛感している父親と比べて頼りがいのある足取りだ。


「おーい、ここにしようか」


 その声に少年がはたと足を止め、振り返る。いつの間にか父親はかなり後ろだ。少年は釣り道具を地面に下ろす父親に向かって駆け出す。


「さぁ、餌をつけよう。自分でできるか?」


 父親が意地悪そうに訊ねた。少年は今より幼い頃、芋虫の類が苦手だった。大丈夫だよと口を尖らせてみたが克服したところを父に見せられる、と少年は密かに喜んだ。


「おお、よくでき――」


「できたじゃないか」


 父親の声にかぶせるように誰かが言った。少年はその声がした方へ振り返った。

 背後にある林。木々が身を寄せ合い作り出した闇の中から、その男はヌッと顔だけを出した。


「知っているぞぉ。君は幼い頃、芋虫が苦手だっただろう。実は君のお父さんもそうなんだ」


「そうなの?」


 少年は父親を見上げ、そう言った。父親は餌のついた釣り針を川に向けて、飛ばすところだった。


「さ、今みたいにやってごらん」


 父親が少年の背中をポンと叩いた。妙に熱かった。少年は言われた通り、釣竿を川に向かって振ったが、背後の男のクックックックという笑い声に気を取られ、思った場所に飛ばせなかった。


 この人はお父さんと知り合いなのかな? お父さんが呼んだのかな? でも、お父さんはなんであの人のことを見向きもしないんだろう。まるで声が聞こえていないみたいに……。


「ねぇ、お父さん」


「前を向いてしっかりと釣竿を持っていなさい。落としたら流されてしまうよ」


「……はーい」少年は素直に頷いた。


「退屈じゃないか、少年? 君のお父さんはお喋りなタイプじゃないだろう?

魚だってそうすぐに釣れはしない。どうだ? 一緒に遊ばないか? 釣竿は地面に刺しておけばいい」


「うーんでもなぁ……」少年はちらと父親を見上げる。


「集中しなさい。魚が食いついたときわからないよ」


「うん……」


 父親の声に少年は萎縮した。下を向き、また父親のほうを見ると、父親の足が小刻みに震えているのがわかった。苛立っているのだろうか、あの人のことが嫌いなのかなと少年は思った。


「なんだ、君は今楽しそうじゃないなぁ。ほら、おいで。君と同い年くらいの子供がたくさんいるよ。ちょっとだけならいいじゃないか」


「へえ、ねぇ、お父さ――」


「今日はもう帰ろう。魚も調子悪いみたいだ」


 父親はそう言うと糸を巻き取り始めた。そして少年に同じようにするよう促した。少年はとうとう不満を爆発させた。


「でもお父さん、来たばかりだし、まだ一匹も釣れてないよ! お母さんも楽しみに待っているよ!」


「いいから!」


「ほぉら。君のお父さんは本当は君と釣りに来るのが嫌だったんだ。だからもう帰るなんて言い出したんだ。全然楽しそうにしてないものなぁ」


 男はケラケラ笑った。小石を入れた空き缶を振ったような音だった。


「さ、はやく」


 先程より少しばかり柔らかな声で父親は少年に言った。


「待つんだ――」


 男が父親の名前を呼んだ。少年にとって耳馴染みがないから新鮮だった。


「聞こえてるんだろう? 懐かしいなぁ」


「お父さん?」


 少年は途中から父親の一貫して聞こえないという態度から、この声は自分にしか聞こえていないんじゃないかと思っていた。自分のような子供にしか。枝が魔女の腕に、木の影が女の幽霊に見えるように子供にしか感じ取れない何かだと、いずれ大きくなれば空想だったと洟も引っ掛けないものだと、言語化まではしていなかったが、薄々そう思っていた。

 しかし今、父親は男の言葉にピタリと足を止めた。震えている。さっきの震えも苛立ちではない。恐れからだ。少年はそう理解した途端、恐ろしくなった。普段、頼りがいのある大きな背中。あの偉大な父を恐れさせているこの男は何だ? と。


「幼い頃一緒に遊んだじゃないかぁ。覚えていないのか? 寂しいなぁ」


 寂しいと言う割りには楽しんでいるようだった。舌先で飴玉を転がすように。


「じゃあ、君のお兄さんが死んだときのことも忘れてしまったのか? あの死に様、フフフハッハッハハハハッハハハハハ!」


 少年は男を見て、また父親を見た。父親の兄、つまり伯父は幼い頃に亡くなっていることは知っている。でも何が原因かは聞いたことがない。


「あの見開かれた目を覚えているはずだ。君を見ていたんだからな。お兄さんの顔の皮膚の下で蠢いていたのが何か知っているはずだ。眼球の上に躍り出たんだからな。なあ、どうやって芋虫を克服したんだ? んー? あんなに怖がっていただろう? 他の大人と同じで自然と? それとも忘れるように努めたのか?」


 父親は何も答えなかった。


「ここに来たのは忘れていたからか? いや、違うな。君は覚えていたんだ。約束をな。君に息子ができたら君の代わりに私に差し出すとな!」


 男が愉快そうに笑った。試合に勝った選手の雄叫びのようだった。


「お父さん……?」


 少年は父の背中に訊いた。

 今のは本当? そのために来たの? あの男に僕を――


「……釣竿はいいから早く来なさい。一緒に家に帰るんだ」


 それが父親の返答だった。自分の顔は見ようとはしないが、少年は一緒に家に帰るという響きに少し安心した。だが……


「いーやぁ、駄目だぞぅ。約束は約束だものなぁ。それに、いいのか少年? 君のお父さんは君を売りにきたんだぞ?

今、思い直したのかは知らないが、この先はどうなるかわからないぞ? 他の誰かに君を渡すかも知れない。

それが君の家のお隣さんか君の学校の先生をしている者かも知れない。大勢いるんだ。私のようなものはね」


 ……悪魔? そう言いかけて少年は息を呑んだ。男がパンと手を叩いたのだ。拍手かと思ったが違う、それは一定のリズムだった。


 タ、タ。タン、タン。タタン、タタン、タタンタタンタタンタタンタタッタタッタタッタタッタタッタタッ――


 少年はそれが何かわかった。

 心臓の鼓動の音だ。自分の、いや、少し違う。


「そーら! お前の心臓の音がここまで聞こえているぞ! 恐れているな! 怖いんだろう! 息子を置いて今にも駆け出したいんだろう! いい女をベッドに座らせて何もしないつもりか? ほーら、思いのままにしろよ。走り出せ!」


 父親の足がビクッと動いた。指で押せばドミノが倒れるように動き出す気がしてならなかった。

 少年は今すぐ父親の手を取り、走り出したかった。でもできなかった。肩の上に男の手が置かれたのだ。Tシャツ越しとはいえ洋服屋のマネキンのように体温が全く感じられなかった。男の爪は長く、黄色かった。手には血管が浮き出ていて、それが芋虫のように蠢いて見えた。


「連れて行くぞ、このまま」


 少年に言ったのか父親に言ったのか、あるいは両方か。今までとは違う、嘲笑を含まない冷淡な言い方だった。

 さらに男は少年の耳元で、みんなに君のために歌を歌わせようと囁いた。鼻に届いたその息は硫黄の匂いがした。木々のざわめきが子供の笑い声に聞こえた。

 少年は不思議とそう悪い場所に連れて行かれるのではないと感じた。


 一歩。トロンとした目の少年が後ろに下がったとき、父親が前を向いたまま後ろに手を伸ばした。

 バトンを求めているような手。少年は釣竿をその手のひらに乗せた。

 少年はグンと引っ張られ、そして父親と共に駆け出した。あと少し遅ければ男の爪が皮膚に食い込み、そのまま肩をもがれていただろう。

 太陽の光が目に入り、眩しかったが少年は瞼を閉じようとはしなかった。父親の手が釣竿を手繰り寄せ、自分の手を掴む瞬間を見逃したくなかったのだ。


 手はつながれた。あの男とは真逆の分厚く、熱い手だった。


 川幅が広がり、土手に座り込りこんだり走っている人の姿も疎らに見かけるようになったとき、歩を緩め、父親と少年は横並びになった。

 川のせせらぎ、はしゃぐ同年代の子供の声がようやく日常に帰ってきたと少年に思わせた。

 父親は言った。


「……聞こえたのは木々のざわめきで見たものは影だ。これからはそれも見てはいけないし、聞いてもいけない。あれが言うことはデタラメばかりだ」


 少年は黙って頷いた。そして握る手をギュッと強めた。数十年経ってもその感触を忘れないように。自分の子供にもそうしてやれるように。

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