ある客を待ちわびて
「顔剃り! 急ぎで頼むね!」
勢いよく理髪店のドアを開けて中に入った男はそう言うと、返事も待たずに空いている椅子にドカッと座った。
そして、ふーっと大きく息を吐く。
この俺としたことがうっかり剃り忘れちまったぜ。こんな無精ヒゲだらけの顔じゃ彼女を迎えにいけない。まったく自慢の外車が泣いちまうぜ。
などと、この男は考えているのだろう。傲慢さがそのまま顔に出ていた。
一方、店主は苛立つ様子もなく、椅子から立ち上がり男のそばにいき、手際よくケープを首に巻く。
クリームを顔に撫で付けるその手つきも慣れたもの。男はヒュゥーと口笛を鳴らした。その顔に蒸しタオルが置かれると思ったより熱かったらしく、うっ、と声が漏れた。
少しの間を置き、顔剃りに入る。
お、おーと男は心の中で感嘆の声をあげた。
これもまた素晴らしい技術。傷一つでもつけようものなら代金を踏み倒してやろうかと男は思っていたが、そうはならなさそうだ。
ジョリジョリジョリと小気味好い音と時計の秒針の音だけが室内で踊る。そんな中、店主の男が口を開いた。
「良いお車ですね」
「あー、わかる? 外車。カッコいいっしょ」
「でも店の前に停めるのは……」
「あーすぐだからって、それは店長の腕次第か! はははっ!」
「はぁ」
思ったより暗い奴だ。つまんねーの。そう思った男は口を曲げたが店主に指で正された。
無言の時間が続き、せっかくならこのまま少し眠ろうかと男が目を閉じた時、店主が言った。
「……実はね。以前、この店の前で事故がありましてね」
「ふーん、ん?」
「小学生が車に轢かれましてね。死んだんですよ。でね、轢いた車なんですけどね。
目撃者の話では青色でね。外車っていうんですか? カッコいい車だったらしくてね」
「へ、へー」
「お客さんのと似てるのかなぁ……」
店主の声が震えだした。男はまぁ、よくある車だからと言おうとしたが、店主の声がそれを遮る。
「悲しいですよね。私、何かできないかと思いましてね。毎日暇なときは外を眺めているんですよ。
ほら、犯人は現場に戻るっていうじゃないですか。青い車。その運転手を見てやろうってね。毎日毎日毎日……。
まぁ、見つけたところで、ですけどね。まさか走って追いつけるはずもないですし。
でも……もし店に入ってきたりなんかしてねぇ。可能性は無くもないですよね。
その後の情報を探るのに、現場の目の前にある店に入るってのは良い手でしょうし。
……自分が轢いたのがその店主の息子だと知らずにノコノコとねぇ」
「そ、そう、あ、あの」
「それでね……どうしたんですお客さん、震えて。寒いかなぁ。ああ、動いちゃ駄目ですよ。危ないですからね。
まだ途中ですからね……で、何でしたっけ。あぁ……息子はね! まだぁ! 私なんかよりも未来があってねぇ!
こんな寂れた店継がせるよりももっと自由に自分の将来を決めて欲しくてね……。
そんな話をしたら息子は! この店を! カッコいいって! 継ぎたいって! ぁぁぁ、良い息子でしょう? 犯人、犯人! 犯人を見つけたら必ずぅ! この手で! そう思うでしょう!?」
男は相槌を打たなかった。部屋には剃刀を動かす音と時計の音と店主の荒い呼吸の音。
……と、そこにドアの開閉を知らせるベルの音が加わった。
「ただいまー!」
「あぁ、おかえり」
「え、ん?」
「はい、終わりましたっと」
「え、息子……さん?」
「あ! 父さんまたー?」
「ふふふ、今の話は嘘ですよウーソ。
顔剃り中に寝てしまうお客さんが多くて多くて。それでほら、眠っているときビクッて動くことがあるでしょう?
それで顔を切っちゃって訴えられかけたことがありましてね、その対策ですよ」
「そ、そうなんですか」
男に怒る気力は残っていなかった。代金を払い、頼りない足取りで店を出るのが精一杯であった。
「フフン、フン、フンフンッ」
「父さん、ご機嫌だね。でもやりすぎじゃあないの? どんどんエスカレートしてるでしょ」
「いやぁ、結構楽しくてね。まぁ無礼な上にどうせ一回きりのお客さんだし構わない構わない」
「でもあのお客さん、滅茶滅茶動揺してたよ。大丈夫かな……。様子見がてら、ちょっと謝って来るよ。悪評を立てられたら困るでしょ。ネットは怖いよぉー。父さんの話なんかよりもね」
「ははははは! 大丈夫大丈夫、っとああ。別にいいのになぁ。あの子はちょっと気にしい――」
店主の呟きは突如、外で起きた轟音に掻き消された。
それは、まるで車が何かに衝突したような音だった。




