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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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取り残された双子の片割れ

 もう随分前。小学生の頃の話だ。

 まだ一人称が『俺』になり、また一度『僕』に戻り『私』になる前の子供時代の話……。回想なのだから、当時の一人称『僕』で話そう。


 どこか他人事のように穏やかな朝。スクールバスの窓側の席に座る僕に向かって母が両手を振り見送る。右手を頭の上で大きく、左手をおなかに添わせるようにして小さく。

 そっと振り返す僕。けど、それは母に対してだけだ。アイツにしているつもりはない。

 母はいつもバスが見えなくなるまで手を振り続けるけど、僕はすぐに体を座席に深く沈めることにしていた。浴槽の中、お湯の中に沈むように。

 何も聞きたくなかった。でもここは水の中とは違う。唸る怪物みたいなエンジンの音は聞こえるし、バスに乗っている他のやつらの声も耳に入ってくる。


「アイツのお母さん。おかしいんだってー」


 母はある一点を除き、至って普通の人だ。見送りのほかにも運動会や授業参観に参加するし、PTAやら何やら他の母親たちと交流もしていたはず。尤も、体が体だ。普通にとは行くはずがない。母は無理のない範囲で、いや、むしろ周りから参加を遠ざけられていただろう。

 その原因。アイツだ。母のおなかの中にいる僕の弟。もしかしたら兄だったかもしれないアイツ。

 僕らは双子の兄弟。でも、その片割れは僕が小学生になっても、まだ母のおなかの中から出てこない。

 元気に出てきた僕に比べて、アイツは医者を大いに困らせたらしい。どうやっても出てこないのだ。時間をかけすぎて、さすがにこれ以上続けるのは母体が危険だということで一旦、休憩。また後日という話になった。

 でも、何度取り出そうとしても上手くいかない。最終的に、うんざりした母の「もういい!」でこの騒動は幕を下ろした。

 いいはずがない。でも、そのうちまた始まるであろう陣痛が一切なく、母は体内にわが子を宿したまま、産まれた僕の子育てに勤しんだ。

 妊婦生活続行。幸運なことなのか、おなかがある一定以上大きくなることはなかった。それでも生活は大変だろうと思うのだけれど、母は満更でもないらしい。おなかの外にいようが中にいようが愛着は変わらないらしく、母は愚痴一つこぼさなかった。


 ただ、みんなの言うとおり、これは……息子としては心苦しいけど、母は少し頭がおかしくなったのかもしれない。

 だって、そうだろう。一番身近に頭のおかしいヤツがいるんだ。伝染しても不思議じゃない。

 アイツ、どうして出てこないんだろう。バスの窓の外を眺めても答えはない。周りの子の揶揄する声に腹を立てる段階は過ぎ、ただただ僕は皮膚が裂けるような感覚に蝕まれていた。


 こんなの、おかしい。

 そんなことわかっている。僕が一番。

 切られるべきは僕ではない。


 ある夜。部屋で、持ち出したインスタントコーヒーの粉末を食べ、睡魔に何とか打ち勝った僕はドアを開け、廊下に出た。とても静かだった。今この世界で起きているのは自分ひとりなんじゃないかって思うほど。

 そしてキッチンに向かい、包丁を握るとズッシリと来るその重さと、歯の隙間を切られるようなそんな感覚に慄いた。

 ゴクンと唾を飲み、まるで水の入ったグラスを乗せたお盆を運ぶようにゆっくりと歩いた。

 そしてドアを開け、ベッドで眠る母の前に立った。

 僕はギュッと唇を噛んだ。そっと掛け布団を捲ると、やはり母はおなかを押しつぶさないように気をつけて眠っていた。まるで図鑑で見た卵を抱える母恐竜のようだと僕は思った。

 僕はまたそっと掛け布団をその場でしばらくただ立っていた。

 足裏が冷え、鼻水を啜るまでずっと。結局何もできなかった。

 包丁を元の場所に戻し、自分の部屋に戻った僕はすっかり冷え切っていたベットの中に入り、体を丸めた。

 多分、アイツも同じ体勢でいる。でも、きっと今の僕よりも温かい。そう思った。

 ……でも、アイツは母と手をつなぐことはできない。その手のぬくもりを貰うことも与えることもできない。明日、手をつなごう。僕はそう思いながら、手と手を握り合わせて眠りについた。


 その夜、こんな夢を見た。テーブルを挟んで座る母が僕に微笑む。いつもの笑顔にほっとする。

 でも、僕は何か違和感を覚え、部屋を見渡す。何かが変だ。何か、変。母……。

 そして、テーブルの下を覗き込んだ時、気づいた。


 いない。アイツが。


 母のおなかの膨らみは消えていた。

 どうして? アイツはどうなったんだ?


「――ちゃん」


 僕はその母の声にパッと顔を上げる。

 微笑み、母がまた呼ぶその名前は僕のじゃない。アイツの名だ。そう思った時、僕の耳元で「あ」という声がした。

 ゾワッとした僕はすぐに後ろを振り返る。だけど、そこには誰もいない。でも呼吸の音が聞こえる。

 凄く近い……なのに息がかからない。

 胸が苦しく、僕は息を荒げながら自分の頭に手を伸ばす。

 ……何かに触れた。髪の毛、それとはまた違う、柔らかな。少し湿り気を帯びた……そして、指に息がかかった。

 これは……口だ。


「ああぁぁぁぅぅあ!」


 そう理解した瞬間、僕は指を噛まれ、椅子から飛び上がった。

 すぐに引っこ抜こうとしたけど、凄まじい力でそれは無理だった。痛い痛いと悲鳴を上げ、母に助けを求めるように目を向けると、母はにこにこと微笑みながら、ただ見ていた。

 ついには指を食いちぎられ、血が勢いよく噴き出した。

 血はテーブルに床に、壁に、母にもかかった。それでも母は微笑んでいた。まるでじゃれあう兄弟を眺めているように。


 目が覚めた。

 ひどく荒い呼吸と心臓。それがまるで夢の世界とここが地続きであると僕に錯覚させた。

 だから僕は爪で自分の後頭部を掻き毟った。そこにアイツがいたら、傷を負わせられるように。

 でも、あれは夢。当然、アイツはいなかった。指の間に血混じりの皮膚が残っただけ。

 僕はアイツを呪い、母を呪い、そしてそんな自分を呪った。暗闇の中で死ね、死ね、死ね、と何度も呟いた。

 でもその行為はその後、起きた事とはきっと無関係だ。だから喜びも達成感も何も感じなかった。

 

 その夢を見てから数日後、事件が起こった。

 外出中の母が、駅へ続く地下道の階段から落ちたのである。

 ベテランの妊婦といえど、やはり大きなおなかは負担が大きかったようだ。足を踏み外し、下まで落ちた母は近くにいた通行人に救急車を呼ばれ、病院に搬送された。

 ここからの話は僕が学校にいる間なので、聞いた話ではあるが全て事実だと確信している。


 意識を失い、呻く母を一目で妊婦とわかった医者たちは、まず、おなかの子の救出を試みた。

 階段から落ちた際、おなかを強く打ったようで、このままでは母子ともに危ないとそう判断したのである。


 おなかの大きさからして未成熟ということもないだろう。一刻一秒を争う事態だが、なんとか無事に済みそうだ。切り開かれたおなか。掴んだ胎児が身じろぎするその感触に、医者たちはそう思った。

 直後。室内にアイツの、胎児の産声、いや悲鳴が響き渡った。それは、母のおなかから照明の下に出れば出るほどに、ブチブチとその頭から伸びた細い血管が引き千切れるほどに激しく。胎児からはツタのように血管が伸び、それは母のおなかの内側に根付いていたのだ。

 初めて見る光景に看護師は悲鳴を上げ、医者も動揺を隠しきれなかった。

 しかし、またおなかの中に戻すわけにもいかない。医者はその血管を切除することに決めた。

 一つ切る度に噴き上がった血が医者に、看護師にかかった。まるで体液をかける虫のように。それとアイツの絶叫が抗議、抵抗であることは医者もわかっていた。

 嘔吐した看護師が退出しても、背筋が汗ですっかり冷え、顔は生温かい血にまみれながらも、その医者はやり遂げた。

 でも胎児は、アイツは力尽き死んだ。


 母は助かった。……とは言えなかった。

 病室のベッドの上で目覚めた母が、まず何をしたかは想像しやすい。

 自分のおなかを触り、そして絶叫した。アイツのように。取り押さえるのに大人の男が三人必要だったらしい。


 身体の療養が済み、家に帰された母を僕は一生懸命励ましたが、母が笑うことは一度たりともなかった。

 僕自身も上手く笑えた記憶がない。母はハリガネムシが出た後のカマキリのようだった。おなかが凹み、生命力も何もかも一切奪い取られたようだった。

 そして、その後当然のように衰弱して死んだ。

 僕は別居していた父に引き取られ、また一緒に暮らすようになった。

 

 摘出されたアイツの行方は知らない。父に聞いても私が幼かったせいか、ただ困った顔で私の頭を撫でるだけで答えなかった。

 母と共に葬られたか、どこかでホルマリン漬けにでもなっているかもしれない。医者ならその珍しさから欲しがるはずだ。でも結局のところ……。


 そして現在。私は就職し、一人暮らしするようになった。

 そう、一人だ。

 ……包丁を持ち出したあの夜。眠る母を前にして湧き出た感情。あの時、幼くともはっきりわかっていた。

 嫉妬していたんだ。母は僕を……私を見ている時、褒める時、手をつなぐ時、いつも空いた手はおなかを、おなかの中のアイツを撫でていた。


 時々こう思う。

 取り残されたのはアイツか私か。


 鏡やショーウィンドウのそばに近づいた時、特に背を向けた瞬間、たまに視線を感じることがある。

 私は決まってあの夢を見た時のように頭を触るのだけど、ただ髪の毛が指をくすぐるだけで、後に温もりも何も残らなかった。

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