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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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そして、パイは投げられた

 そのパイは円盤投げのように回転していたとも、まるで月が沈むように落ちたとも後に語られたが、いずれも根拠はない。


 昼食の時刻。場所は学園内の食堂。

 賑わう中、その教師は生徒たちに混じり、テーブルを囲んでいた。

 名前はドン先生。そう生徒に呼ばせている彼は言葉遣いが乱暴かつ気分屋で生徒から恐れられていた。

 が、本人は生徒たちのひきつる顔に気づくことはなく、ご機嫌で食事にありついていた。

 その頭にパイが着地するまでは。


「きゃああああああ!」


 ――ベチャ


 趣味のサーフィンを楽しむ者らしく、日に焼け茶色くなった彼の短い髪を上から押しつぶすようにそのパイは降り立った。

 そして、それを見て息を呑むような短い悲鳴。食堂内は静まり返った。火山が噴火する直前、あるいは大津波が押し寄せる前のような気配を感じ取ったのだ。

 彼の前方にいた者はその顔が真っ赤に染まっていくのを目にし、後方にいた者は耳裏と首筋が赤くなっていくのを目にし、左右にいる者も言わずもがな、パイの白さが際立つのを目にした。


「ダルァレニシザァラァー!」


 怒号。食堂を越え、校庭にまで響いたという。

 後の解読者によれば「誰の仕業だコラァ!」らしいが、その場にいた者は理解不能だった。

 また彼の真横に座っていた者は耳を痛めたよと後に頬を掻きながら語った。


 椅子がひっくり返る勢いで彼は立ち上がり後ろを向いた。

 彼のトレードマークと言っていいオレンジ色のジャージがシャカシャカ音を立て、頭部から滴ったパイのクリームがサンダルの上に落ちた。


 彼が後ろを振り返った理由は至極真っ当だ。正面からパイは飛んでこなかった。つまりは振り返った瞬間、怒号に驚いた犯人が口をアワアワさせながらパイを落としたその両腕を前に突き出したまま、後悔に足を絡めとられ、立ち尽くしていると考えたのだ。

 それがどこの誰であろうとも可愛い悪戯で済ませるつもりはなかった。彼は犯人をこの場で引き回し、床に落ちたパイのクリームどころか食堂の床全域をその犯人の体で磨く気でいた。

 やらされたなど、苛めの可能性も頭の隅にはあったかもしれないが、いずれにせよ、その考えは結局吹き飛んだことだろう。


 そこには誰もいなかったのだ。

 と、なれば今現在、距離が近い生徒の仕業だ。少なくとも犯人を知っているのでは。

 そう考えた彼はキッと睨んだが、睨まれた生徒は首を残像が見えるほど横に振るばかり。

 彼が見る生徒全員がその有様だから食堂内に小規模な竜巻が起きたと後に話に尾ひれがついた。


「誰か犯人を見ていたやつわああああぁ!」


 再びの怒号。しかし今度は聞き取れた。質問なのだからそうでなくては意味がない。

 しかし答えた者はいなかった。誰も見ていないと言うのか。そんな訳があるか。……全員グルなのか。

 一瞬、自分が嫌われているのではという思考が彼の頭を掠めた。

 そのことで背筋が冷え、わずかながらに冷静さを取り戻した彼はまず、頭に乗っていたパイを昼食を乗せていたトレーの上に落としテーブルの上に置いてあるティッシュで頭を拭いた。

 少しずつ、ざわざわと生徒たちの間に声が戻ってきたが笑う者はいなかった。まだ危険は去っていないと理解していたのだ。


 一方、彼はそのパイを見下ろし考えた。食堂のメニューにはない。バラエティ番組で使われるようなシンプルな白いパイだ。つまりこれはわざわざ用意されたもの。この俺の頭に落とすために……。

 彼の顔に再び青筋が立った。


「放課後までに犯人は名乗りでろおおぉぉ!」


 彼はそう吠えると、トレーをそのままに食堂から出て行った。ようやく危機は去り、生徒たちの間に安堵の笑みが零れた。


「怖かった」

「恐ろしかった」

「びっくりした」

「いい気味だ」

「で、誰がやったんだ」

「誰か見てないの?」

「お前じゃないか?」


 会話は概ねこんなところだ。しかし、決定的瞬間を目撃したものはいなかった。

 そもそも彼は生徒たちから恐れられていた。楽しい昼食の時間、わざわざそんな彼を見ながら食事しようと思う生徒はいなかったのである。勘が鋭く、揶揄するような視線を向ければその背中越しでもそれを察知し、何見てんだ? とでも言いそうなので、むしろ目を逸らしていたのである。

 結果、彼にはそんな能力などないと露呈したわけだが。


 犯人は誰?

 こうなってくると時間制限つきの一大イベント。学園内に事件のあらましが瞬く間に広がった。


 まず疑われたのは調理部の生徒である。

 ケーキ作りは定番中の定番。パイの材料くらい専用の冷蔵庫にあるだろう。しかし、鍵つきではないため誰でも持ち出そうと思えば持ち出せる。

 とは言え、教室には鍵が取り付けられているため可能なのはこの日、この教室で授業があった者だけだ。

 勿論、家から準備していたとなれば容疑者候補はぐんと広がるわけだが。


 そして、生徒の間では積極的に犯人を探すべきか悩まれていた。

 罪人とするか英雄とするか。どちらにも振り切れずにいたのである。

 被害者が粗暴な教師だったからというだけでなく、教師という権力者そのものに一泡吹かせた。その事実に一同少々胸がすく思いをしていたのである。

 が、いずれにせよ気になるものは気になる。

 あいつじゃないか。

 あいつがやったんだ。

 あいつが調理室にいたのを見た。

 あいつが冷蔵庫を開けていた。

 あいつがコソコソしていた。

 飛び交う情報はいずれも根拠に乏しく、授業終わりの掃除の時間にゴミとともに床に掃いて捨てられた。


 というわけでもう放課後。

 職員室の近くには犯人が自首するのではないかと斥候が様子を覗いに来ていたが、それらしいやり取りはなかったようである。

 もっとも被害者である彼自身も犯人が名乗り出てくることに期待はしていなかった。

 あの場では一人ひとり胸倉を掴んで問いただすより、ああしたほうが教師としての威厳を保てると考えたのである。

 それに、ほとぼりが冷めれば犯人は自分がやったことを自慢したがる。そうして尻尾を出したときに捕まえてやれば良い。

 曲がりなりにも大人。そう考えたのである。

 余裕綽々、そのように振舞っていても、胸中はそうでもないのは貧乏ゆすりから見て取れた。やはり疑問はあった。


 誰が?

 生徒が。

 どうして?

 俺を嫌っている、もしくは単純に悪戯目的。

 ここまではいい。だが、どうやって? 間はあったにせよ、すぐに振り返った。

 走り去る生徒はいなかったし、不自然に離れようとしていた生徒もいなかった。

 では投げたのか? 椅子に座ったままパイを上手く頭頂部から落ちるように? まさか、そんなことが小学生にできるのか? バスケ部ならあるいは……。


 ううむと悩む彼。しかし、真相は彼の想像を遥かに超えていた。

 犯人は科学部の生徒だったのだ。

 その生徒は透明になる薬を開発し――


「それだとパイはとうめいにならないんじゃないー? ういてたら目立つし見つかっちゃうー」


 ……と、娘が私の顔を見上げて言う。

 ううむと唸る私。ベッドに入って二十分は経つのにまだ眠らない様子。

 あえて娘が知らないような小難しい言葉を使ってみても眠くなるどころか質問してくる。

 そもそも、怒鳴る先生の話などすべきではなかっただろうか。考えても見れば余計に目が冴えそうだ。

 私の後悔をよそに、娘が、ねえーねえーと催促する。


 じゃあ……図画工作部の生徒が投射機を作って……。

 うーん、これも駄目?

 じゃあ、やっぱり生徒全員が実はグルで……。

 絶対、誰か喋る? 人の口に戸は立てられない? そんな言葉、誰から教わったの?

 ああ、パパね。ええ、そうね。人の口に戸をね……。

 え? それに誰も見ていないのも変?

 


 ……そう。実はある女の子はパイがその先生の頭に降りる瞬間を見ていたのです。

 犯人はね。

 その先生の隣に座っていた生徒だったの。

 勿論、誰かに気づかれるよね。でもそうはならなかった。

 彼がパイを先生の頭につける直前、ある女生徒がゴキブリを見つけたの。

 でも、それはおもちゃだったわ。ええ、それも彼の仕業。彼がシュッと机の下から投げたのね。

 でも重要なところはそこじゃなくて、そう、狙いは彼女が上げた悲鳴。

 一瞬、誰もがその方向を見たわ。

 そしてその隙に……というわけ。

 ゴキブリの事は誰も気にしなかった。あの怒号の後じゃあね。

 灯台下暗しってやつね。先生は気づかなかった。

 ほら、気づかれないように手を伸ばして隣にいる人の肩を叩く悪戯あるじゃない? 後ろから肩を叩かれたと思って振り向いたら誰もいないってやつ。彼、そういうのが得意だったのね。ホントむかつくほどにね。

 でも、どうして私がその一瞬を見ていたのか気になるよね。それは……まあね。とにかく、後でこっそり訊いてみたの。「どうしてそんな危険を冒してまで」って。


 彼の友達が以前、あの先生に怒鳴られていたからだって、それも理不尽な理由で。その子は一時、恐怖で不登校になりかけたとか。でもまぁ、そのパイ事件以降その先生が少し、大人しくなった……かな?


 で、私はその秘密を今の今まで黙っていると彼と約束してたんだけど……寝ちゃった?

 じゃあセーフかな。まあ、実の娘相手ならきっとパパも許してくれるでしょうけどね。

 ふふっ、灯台下暗しってヤツね。

 あなたのパパはとっても勇気がある人よ。

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