レモンを置かれた男
彼はなぜそこにレモンを置いていったのか。
私はスプーンでコーヒーをかき混ぜながらそんなことを考えていた。
いや、その前に考えるべきは、コーヒーではなくて紅茶を頼むべきだった、その事である。
そもそも私はコーヒーよりも紅茶が好きだ。なのに右へ倣え。食後にはコーヒー、その響き。俗物的な考えが私にコーヒーを注文させたのだ。
腹いせに、この喫茶店のテーブルに備え付けの砂糖とミルクを存分に……やや遠慮がちにコーヒーの中へ。小心者だ私は。
漆黒の黒から茶色へと変化すれども味は相変わらず苦々しい。
それでも少しは飲める物になったところでレモンについて考えることにする。
彼は私のテーブルにこのコーヒーが運ばれてくるその少し前にレモンを私の席に置いて店から出て行った。
忘れ物のはずがない。明らかに意図して置いて行ったものだ。
何故? 彼とは面識がない。プレゼント? 悪戯?
しかし、彼はレモンを置いた後、こちらを一瞥することもなく立ち去った。
面食らった私の顔なんてそう価値のあるものとは思えないが、相手の反応は見たいものだろう。
それにしたって不自然だ。単純にいらないから置いていった? これが一番ありえる。それが私の席だったのはただの偶然。それだけのこと。
……甘いな。この考察もそうだが、砂糖を入れすぎた。
ああ、胃が落ち着かない。やはり紅茶が良かった。紅茶にすべきだった。胃がムカムカしてきた。これもそれもレモンのせいだ。……いや、コーヒーを注文したのはレモンが置かれる前か。いや、どうでもいい。当てつけにキッとレモンを睨んでやる。
これで少しは……気分が……これ、ひょっとしたら爆弾では? そんな短編小説があっただろう。
いやいや、何を馬鹿な。それにあれは結局ただのレモン。
しかし、見れば手榴弾、その形に良く似ている。
レモン型爆弾。
レモン……手榴弾。
レモネード、グレネード……似ている。
ふふん、まったくくだらない……。
と、フフッと笑った後、私はパッとこの喫茶店の窓の外に顔を向けた。
もしかしたらこのレモンを置いていった彼が、こちらの様子をニヤケ顔で見ているかもしれないと考えたからだ。
しかし、窓から見えるのは忙しなく外を行き交う人々だけ。こちらに目もくれない。
恐らくレモンの彼はその流れに飲み込まれていったのだろう。何食わぬ顔をして。
私を悩ませる己の突飛な行動など知りもしないという顔で、この社会に迎合していった。
私は砂糖とミルクと溶け合い甘くなったコーヒーを啜り、いよいよレモンを手に取り眺めることにした。
手触り……ふむ、ただのレモンだ。当然か。
こうして手に持ってみれば、完全に所有権が自分に移ったとそう感じる。だからと言って何をしようというわけではないけれども。
レモン、レモン……。やはり紅茶にすべきだった。そうすればレモンティーを味わえたのに。
噛み合わない。微妙に。色々と。
窓の外を眺め、そう思う。
異端者と凡人。
そうとも、噛み合う事などないのだ。
凡夫な私はそんな異端者に畏怖の念とどこか憧れを抱きつつも、この社会から疎外されないように精一杯普通を目指す。
……しかし、それでいいのだ。
これが結論。
コーヒーを飲み干し、閉廷。木槌を叩く裁判官をイメージしながら、私はそっとカップを置いた。
「……ねぇ、あのお客さん、さっきからずっと、レモンがレモンがって呟いているんだけど」
「あれ柚子なのにね。今日、冬至だから商店街のそこらじゅうで配っているわ」




