死ねば飛べるでしょ
――死ねば飛べるでしょ。
その少女は頭の中に浮かんだその一文を頭上。見上げた空に映してみた。
うっすら雲がかかった青空。
いい天気だが、だからこそ空は、世界は自分に対し無関心なのだと少女は感じた。
これが曇り空ならば痛んだ胸も少しは和らいだかもしれない。無論、それもまたこちらが勝手に共感を抱いているだけだ、と少女は軽く首を振る。
そしてまた空を見上げる。いつもより近いはず。だが大差ないように感じた。
対照的に見下ろせば、いつもより遠い地面。
少女がいるのはショッピングモールの屋上駐車場、そのフェンスの向こう側。
覚悟は決まっている。と言うよりかは諦めている。何に。全てに。
今度は何を映したか青空を睨み、そして息を深く吸い込む。
落ちて。死んで。飛んで。あの空に近づく。自由を得る。
言い聞かせているわけではない。確信があった。
もう、考えることは不要。言葉も何も。両手を広げそして少女は……と、伸ばした手に何かが当たった。
「あ、どうも」
「え、あ、いつからそこに!?」
「ちょっと前からです。どうも」
と、少女は目を丸くし、体を縮こまらせた。
いつの間にか隣にワイシャツを着た中年の男が立っていたのだ。
くたびれたお会社勤めのおじさん。少女はそんな印象を抱く。そしてそれは多分正しい。ただ、その目玉はまるで寄生虫。他の生き物のように落ち着きなく動いていて少女を畏怖させた。
「あっ、と、止めようとしても無駄ですから、あたしは――」
「死ぬ気なんでしょう。止めませんとも」
「え、そ、そうだけど……」
隣に立っていたからには当然、自殺を止めに来たのだろうと思った少女は面食らった。
ではなぜここにいる。野次馬だろうか。何にせよ、水を差された気分になり、少女は顔を顰める。
男は下を覗き込むようにして言った。
「いやぁ、それにしてもここの屋上は高いですね。
あ、私ね、ここじゃないですけど前にも死のうとしたんですよ。
でもね、その時に下から見知った顔が私のほうを見上げていたんですよ」
「見知った顔……?」
マイペースなのか何なのか、それに乱され少女はつい相槌を打つ。
尤も、そうしなくてもこの男は喋り続けただろう、と少女は思った。
「息子でした。ただ黙ってね、私のほうを見上げているんですよ。
で、なんかおかしいなって思ってね、一先ず飛び降りるのをやめてね、息子のいた場所まで行ったんですよ。
でもね、息子はいなくてね。あれ? 不思議だなーって思って、で、家に帰ると普通に居たんですけど、訊いてみても知らない、友達の家で遊んでいたってね」
「え……どういうこと?」
「不思議ですよね。でもね、また現れたんです。息子が。
私が飛び降り自殺しようと高いところに立つと下から見上げているんですよ。
えぇ、幻覚です。ええ、ええ。そうでしょうとも。でもね、その幻覚にある時、私の母が加わったんですよ。
でも、そんなはずないんですよ。母はね病気で入院していましてね、距離がありますからね、誰かから知らせを受けたとしてもね来れるわけないんですよ。そもそも、他に野次馬とか警察とかいませんしね。
ああ、私が治療費を稼いでいるんですよ。ちなみにね。
でね、私こう思ったんですよ。あれは私が背負っている人間だと。
つまり私がそのまま飛び降りたら、下から見上げているあの二人をグシャ! って潰す事になるわけですね。体も、人生をね。
つまり不幸になるって訳です。悲しませてね。まあ、死ぬまでは行かないでしょうけども。あれはねぇ、そういうことを暗示しているのではないかと」
「ふーん……」
少女の気持ちはすっかりと冷めていた。
このおじさんは頭がイカれている。それは怖くないわけではないが、少女はどこか見下す気分になっていた。
そして話に付き合わされるその不条理に苛立ちが込み上げていた。
「お嬢さん、あなたはどうですか? 何が見えますか?」
「あたしはまだ中学生ですから。背負っている人なんて……え」
と、下を向いた少女は目を見開いた。
そこには自分の父と母。それに幼馴染の姿があったのだ。
「嘘……」
「いるんですね」
「でも、別にみんな、あたしのことなんて気にしていないし……最近だって会話もあまり……」
「言葉にしないだけでちゃんと心に思っているんですよ。あなたのことをね。
あなたがここから飛び降りれば、彼らは潰れてしまう。ええ、悲しみ、きっと不幸になります。
少なくとも、彼らの人生に何らかの負の影響があるわけですね。
羨ましいですね。あなたの想いを口に、声に出し話し合えば、きっと雪解け水が川に合流するように通じ合えますとも」
「そう……なのかな」
少女は涙声になるのを必死に抑えた。そしてふふっと笑った。
なんだか結局いい話になっちゃったな……。そして、このおじさんはやっぱり自殺を引き留めにきたのかな、と。
「ねぇ、それを言いにフェンスを越えてきたの? お人好しだね、おじさん」
少女はふふんと、笑った。そしてさっそく想いを言葉にしようと思った。ありがとう、と。
だが、男はへへへへと笑った。そして少女は気づいた。男が瞬きもせず、下を見つめていることに。
「……へへへ。いやぁ、確かめようと思いましてね。へへ。やっぱりだぁ」
「え、な、なに? どういうこと?」
「私を見上げる人はね、今いないんですよ。息子とも母とも最近ちょっと折り合いが悪くてね。
私に対して感謝もない上にひ、ひどく罵られましてね……ああぁ、やっぱりなぁ」
後ろを向いた男はそう呟いた。まるでそこに誰かが居るみたいにジッと見つめ、そして肩を揺らし笑い続けた。
「へへへへ、へへへ、へへへへへへ」
「あ、あの、あ!」
死ぬ時って本当にスローモーションになるんだ。たとえ、それが他人であっても。
少女はそう思った。
もしかしたら伸ばしたこの手も届くのではないかと。
だが届かなかった。
男の身体を掴もうとした少女の手が伸びきった時には、もう下で大きな音がした。
悲鳴は上げなかった。ただヒュっと吸い込んだ空気が口から漏れた。
どうして? なんで? 少女の頭の中はそれでいっぱいだった。
膝をついた少女が縁を掴み、恐る恐る下を見下ろすと、男はまるで非常口のマークのようなポーズで地面に張り付いていた。
ねずみ色のアスファルトに汗染みのように血が広がっていく。
――えっ
と、少女は思った。視界の両端を影が駆け抜けたのだ。
少年とお婆さんの姿をしていたそれは、まるで滝壺にダイブするように飛び降り、そして地面に着地した。
「あ、あのおじさんの息子さんと母親……? でもなんで、なんであたしにも見えて……あ、あれ?」
目を凝らす少女。あの男の頭から何か白い煙のような、しかし少しキラキラしたものが出ていることに気づいた。
あれが魂。やっぱり空に昇るんだ。少女はそう直感した。
そしてどこかホッとした。が、それも束の間であった。悪寒が全身を包んだ。
――吸っている。
あの男の息子と母親の姿をしたその何かは、男の傍でまるでヤモリのように四つん這いになり、そしてその白い煙を吸い始めたのだ。
あれは……あれは自分を大事に思う人の幻なんかじゃない。ただ姿を真似ているだけなんだ。身近な人の姿を、そうすれば不自然に思われないと単純に考えているんだ。
おじさんはきっと、あいつらが後ろにいるのが見えたんだ。あいつらが痺れを切らして早く死ねと催促しているとも知らずに、ただ、自分の身近な人が自分の死を望んでいると思ってそれで……。
あいつらはまだかまだかと子供が足踏みするように、ご馳走が来るのを待っている。
死んでも空を飛べない。あいつらに目をつけられたら、食べられるだけなんだ……。
少女は視線をすこし横へずらしたそう思った。
両親と幼馴染の姿をした何かは、直立したまま少女を見上げていた。
少女はフェンスを越えると、その場に膝をついた。
どっと汗がふきだし、呼吸が乱れた。今更、恐怖が込み上げてきたのだ。
しばらくそのまま。落ち着きを取り戻した後、まだ震える足で下まで降りるとそこに、あ両親と幼馴染の姿はなかった。ただ、男の死体を見ようとする野次馬とそれを遮ろうとする警察官が居ただけだった。
それからも時折、少女はあの何かを見かけた。
もう死のうかな、と思う時。
駅のホーム、その線路の上。
橋の上、流れる川の中。
一度死のうとした人にしか見えない連中。それは自殺しそうな人間に付き纏い、待っているのだ。
いずれ、あれらは痺れを切らして、背後に回るかもしれない。
でも、決してあいつらに自分を見下ろさせはしない。
――死ねば飛べるでしょ。
自殺じゃなければ魂はきっと空に昇る。
見上げた青空に目を細め、少女は今日も生きると心にそう刻んでいる。




