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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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230/705

絵のモデル

 轟々たる風は時折、鋭い笛のような音を奏で、月を覆い隠す薄いヴェールのような雲を吹き飛ばし、その青年の影を晒す。

 青年はハッとし、手に持った石をその場に落とした。耳の奥では、たった今割ったガラスの音が反響している。

 衝動的ではあるが、風が強く吹いたタイミングで割ったつもりだ。それに深夜だから大丈夫。誰にも聞かれていない。多分。

 そう考え、落ち着こうと青年が吐いた息もまた風の音に掻き消され、そして急かされるようにその背を打ちつけられ、手を伸ばす。

 鋭い刃のようなガラスの中心にあいた穴。

 彼はある種の共感めいた感情を抱いたが、それを一笑に付し、手を入れ鍵を開けた。



「見てほしい絵があるんだ」


 そう言って、アイツがあの絵にかかった布をとって見せた時、その場にいた全員が息を呑んだのがわかった。

 静寂。誰かが生唾を飲んだ音まで聞こえた。

 そして称賛。誰も彼も先生も。あの教室にいた全員が。何なら媚びているようにも見えた。

 みんな、あの絵が欲しかったんだ。もしくは、あの絵のモデルとの繋がりを。

 描かれていたのは女だ。それも美しい。この世のものとは思えないほどに。

 想像だけであれを描くのは無理だろう。みんな、そう考え群がり「どこの誰がモデルなんだ?」ってアイツに訊ねた。

 でもアイツは肩をすくめたり首を振るばかりで教えようとはしなかった。

 俺はそんな連中を冷めた目で見ていた。

 ただ、体の芯は燃え滾っていた。

 俺は帰り際、アイツがひとりになったタイミングで、あの絵のモデルの女について訊ねた。

 それとなく、自然にだ。

 だが、アイツはただ笑った。

 その瞬間、俺の股間部分にあった熱が、手のほうに込上げるのをハッキリと感じた。

 アイツをこの手で殴りつけ、絞め殺したくなったんだ。

 次にその熱は顔に移った。自分を恥じたからだ。

 俺があの絵の女に欲情していたことをアイツに知られた。他の連中のように自分のモノを硬くしているとバレたんだ。それも『他の連中とは違うって顔して離れていたくせに、ひとりになった途端、急に話しかけてきやがって』ってな。

 遠ざかるアイツの背中を見ながら俺はアイツが嫌いだったんだと再認識した。


 だから俺は後をつけ、窓ガラスを割った。

 レンガ調の外壁の一軒家。金持ちの両親から与えられた家で一人暮らしらしい。それも気に食わなかった。が、今それはいい。

 きっと中にモデルになった女が居るはずだ。ああ、きっとアイツの女だ。連れ込んでいるに違いない。きっと今頃、アイツのベッドでクタクタだろうよ。

 俺がどんな思いで寝静まるのを待ったか伝えてやりたい。そして俺の絵のモデルになってもらうよう説得するんだ。それが無理でも、とにかく一目見たい。いなきゃいないでいい。少なくとも絵はあるだろう。

 ……ああ、そうだ。俺はあの絵が欲しい。悔しいが、どうしようもなく魅せられちまったんだ。


 暗い廊下を歩く青年。時折、服の上から胸を掻きむしる。込み上げる衝動が、熱が火花を散らしているようだった。

 絵や女よりも先にアイツを見つけたら殴りかかるかもしれない。

 そう、苛立つ青年。だが、目的の物が見つかると、それも嘘のように消え失せた。

 僅かに開いていたドア。その隙間から漏れる月明かりが青年の目を引いたのだ。

 どうやら絵の置き場らしい。こじんまりとした部屋。あるのは無造作に立ち並ぶイーゼルだけ。

 どれも絵の上に白い布がかけられている。そして、その中で唯一、布がかけられていない絵。


 ……あの女の絵だ。

 そう気づいた瞬間、青年は巨大な手で握られたかのように身をギュッと縮こまらせた。眼球が飛び出しそうなほど目が見開かれ、口は半開きに。

 窓から入る月明かりで、女の肌が白く妖艶に光る。長い黒髪は絡まることなく指が通るだろう。その先の膨らんだ胸の柔らかさも、鼓動まで伝わってきそうだった。

 どうしたらこんな絵が描ける? どうして俺は……と、目が熱くなった彼は瞬きをした。

 そして、またその絵をジッと見つめる。

 すると、どうでもよくなった。抱いていたライバル意識も。美大受験も。劣等感も。この絵さえあれば、どんな狭く古いアパート暮らしの未来であってもハッキリと幸福を感じられるだろうと彼はそう思った。

 手が絵に伸びる……が、今、ピタッと止めた。

 ふとこんな思いが頭を掠めたのだ。

 

 ……他の絵は何だ? それも女の絵だろうか? 同じ女? それとも別の?

 

 目的のものを手に入れられる。その安堵感がさらなる欲を掻き立てたのか、青年は隣にあった絵にかかっている白い布を剥ぎ取った。


 これも……あの女の絵だ。でも失敗作か?

 

 青年がそう思ったのも無理はない。

 モデルも構図も同じだが肌はくすみ、不健康に見える。それにやや太り、しかし目の周りは窪んでいる。

 青年はチラリと他のディーゼルに目を向ける。

 三、四……全部合わせて九枚。試行錯誤していたのか。才能ある上に努力まで、と彼は下唇を噛んだ。

 だが、あの絵を最初に見た時ほどの劣等感は抱かなかった。そのことからもう自分は画家の道を諦めたことを彼は薄々ながらに悟った。

 ゆえに、他の絵を見る事に躊躇いはない。布を取っていく。

 女の白いドレスやスカートを剥ぎ取るような、どこか興奮を煽られるような感覚を抱いた。

 だが、それは次第に黒ずんでいく。絵と共に。


「うっ」


 青年は込み上げた吐き気を抑えることができず、床に嘔吐した。

 自分の足よりも絵にかからないように気にしたのは、孵化失敗濃厚とはいえ画家の卵ゆえか。

 青年は吐瀉物の中に蠢く蛆を見た。

 が、それは錯覚。直前に見た絵が影響していたのだ。


 女の絵。それに蛆が集っていたのだ。

 しかし、その蛆もまた絵の一部。実物と錯覚させるほど繊細。蛆も。女も。

 膨らんだ女の体は所々、タイヤがパンクしたような穴があり、そこに蛆が纏わりついていた。

 他の絵も同様に女が描かれていた。ただし、腐り、食われていく様が。


 死者の面布。

 最後に残った一枚。青年はその白い布を剥ぎ取るのを躊躇した。


 白いスカート。

 最後の絵にかかっていた布が風でわずかに揺れ、青年は目を見開いた。


 窓は開いていない。今の風はドアのせいだ、ドアが閉まったのだ。

 そして、誰かが部屋に入ってきた。

 そこまで理解していた青年だったが、逃げようと思うどころか振り向くことさえもしなかった。

 いや、できなかった。

 風で布が捲れたその一瞬だけ見えた絵、その美しい白さ。残像が目に、脳裏に焼き付き、青年をその場に癒着させたのだ。

 青年は自嘲気味に笑った。


 魅せられちまった。最期まで……と。

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