冷たい壁の獣
独房に入れられたその男は扉が閉まって数秒後に部屋の中を調べ始めた。
冷たいコンクリートの床に頬をつけて、雑巾みたいに汚しながらな。
探していたものは脱獄道具。いや、違う。入所初日じゃないんだ。そんなものが落ちていることを期待するほど奴はウブじゃない。
ただゴキブリの死骸を一つでも見つけたのなら一時間は遊べる。二つならその倍、いやもっとだ。ここならそれが娯楽になり得る。
あるのは固定された木のベッドとシーツと便器くらいだからな。窓はない。これが厄介だ。じーっと見つめてるとな、壁が、それに天井と床が迫ってくる感覚がするんだ。
ああ、それと勿論、扉もある。壁と同じような色に塗られた鉄製で、看守が警棒で叩くとガンガン響くんだ。飯を入れる小さい引き戸もついている。
男はベッドと壁のわずかな隙間を覗き込んだ。隠れているものがあるとすれば、ここしかない。それか便器の奥か。ただそこは探す気にはなれない。まだな。
幸運なことに奴はそこで何かを見つけた。指をいれ、奥へ奥へと伸ばす。
と、その巧みな指使いで捕らえたのは小さな白いチョークだ。
つまらない物? 絵心ない者はそう思うだろう。尤もその男も絵心はない。だが描きたいものはあった。
壁にチョークを走らせる。
大きな丸を一つ。小さな丸を二つ。それにささっと付け加えてあっという間に、かわいいクマの完成だ。
「やぁ」
「やぁ」
二つの声。声色を変えただけでどちらも男のものだ。
このクマが男の友人。
収監され、友人が遠ざかっても財産が没収されても奪われないもの。いつも、どこでも会える。子供の頃からの付き合い。
看守がそれを見たところで気にすることはない。たかが独り言なんてな。そもそも四六時中見張っているわけでもない。
イカれている。そんな風に見えなくもない。男は正気だ。少なくとも医者か何かが定める基準では。しかしこの時、男は流石に自分の頭を疑った。
「久しぶりだね!」
男は確かに見た。クマの口が動くのを。まるでアニメーションのようにハッキリと。
そして自分の名を呼んだのだ。
「あれー? どうしたの?」
「や、やぁ」
男の、そのうわずった声にクマは笑った。
だが、そこに意地悪さなどはない。付き合いの長い友のよう。実際にそうだ。
しかし、ちゃんとした会話をしたことはなかった。
当然、全ては一人芝居。それがなぜ急に?
スポーツ、芸術、何でもいい。成長、いや進化。経験値が貯まり、ある日覚醒するかのように目覚めたのか。描いた絵が自我を持つまでに。
「ねぇ、お話しようよ!」
クマはにっこりと笑った。周りに花の絵でも浮かび上がるんじゃないかってぐらい明るく。
理屈は分からないが、何はともあれ男は最高の話し相手を得たわけだ。毎日毎日、話し続けた。どうせ死体になる以外、ここから出る方法はないんだ。看守の評価なんて気にする意味はない。楽しく平穏な日々が続いた。
だが長年連れ添った夫婦でも、いや、だからこそ喧嘩することはあるだろう?
あいつらもそうだ。 ある日ほんの些細なことで喧嘩した。
そして、男はクマを消しにかかったんだ。
「やめてよ! やめて!」
クマは必死だった。チョークなんて指で擦れば、あっさり消えちまうんだからな。
ただ、この時、男は本気でクマを消すつもりはなかった。
ほんの意地悪、ちょっとした加虐趣味が表に出てきただけだ。その趣味が招いた結果がこの独房なことも忘れてな。
まあ、ちょっと耳くらい消してもどうってことない。また描き足せば良い話だ。男はそんな軽い気持ちだった。
だが……。
「……ここから出してあげるよ」
男が手をピタリと止めた。クマは消えかけ、右半分が食われたキャラクター物のドーナツみたいになっていた。
「出すってどうやって?」
男は笑い混じりで言った。お前に何ができるって具合に。
「こうするのさ」
クマは大きく口を開けた。
するとその部分が穴になった。マンホールみたいな暗い、黒い穴だ。
「真っ暗だな……いや、遠くに光が」
「そうだよ。ここから出ただけじゃ塀に阻まれるからね。気を利かせて遠くまでつなげたのさ」
クマは得意げにそう言い、それを聞いた男は「よし」と一言、穴の中に入ろうとしたんだ。
そうそう、書き忘れたがこの話は看守から聞いて、俺が想像で補ったものさ。(でも概ね合ってると思うぜ。俺が保証する)
その看守は男の奇行を時々、雑誌とか読みながら聞き耳を立てていたんだと。
何でも以前、この独房入った男もチョークで壁に下手糞な絵を描いて、やがて自分で体を引っ掻いたかなんかして血まみれで死んじまったんだと。だから気になっていたんだ。暇つぶしの範疇でだがな。
で、男の話に戻るが……死んだってよ。
壁に顔から突っ込んで首の骨を折ったんだと。
ああ、イカれてたのさ。最初っから最後までな。全部、男の一人芝居さ。ああ、クマの声もな。
……だが、妙な話。その看守が言うには、骨が折れた音のあと、部屋に踏み込むまでの間、笑い声が聞こえていたんだとよ。
あの看守が何で俺にこんな話をしたかと言うと、はははっ、俺がどうなるか楽しんでやがるんだ。
男の死後、いくら探してもチョークの一欠片も見つからなかったのに、どういうわけだ? 今、俺の手の中にある。
そして俺はこの駄文を壁に書き連ねているんだ。
ここに入れられた連中の気持ちがわかるよ。何かしてないと頭がおかしくなるんだ。ここの壁は嫌いだ。また迫って来た気がするぜ。
だからそう、文章のみ。絵を描いて何かが起きるのは恐ろしいからな。
【やぁ、お話しようよ】
……あぁ? なんだこれ? こんな文章書いた覚えはないぞ。
無意識に俺が書いたのか?
違う。これは……文字が勝手に動いて……。




