満たす
――カツン、カツン、カツン
博士は物憂げな表情で靴音響く廊下を歩いていた。
すると……
――カンッ、カラカラカラ……
「ん、今の音は……?」
物音が聞こえ、気になった博士は音のした部屋に行き、明かりのスイッチを押した。
「おっと、これは失敗。だが都合がいい。さあ、どうぞ。もっと部屋の中へ」
男のようだ。顔は目元を隠すマスクを着けていてわからない。しかし、その手に持った銃はハッキリと博士の体を捉えている。
「……成程。どこかに雇われ、私の研究を盗みにきたというわけか」
「ご名答。まあ、主に殺しが専門なんですがね……とそれは置いておいて、お噂はかねがね。何でも世界を変える発明をしているとか」
「まあ……そうかもしれないな」
「その割に警備が手薄のようでしたが……まあそれはいいでしょう。運がこちらに傾いたということで。
それで、渡していただけますか? それとも銃弾を体に差し上げましょうか?」
「いや、渡そう……ただ、君は仙人について知っているか?」
「仙人? あの仙人ですか? 山で暮らし何か超常的な力を持っているとか。
それに……まさか、不老不死! その薬を開発したのですか!?」
ここまで冷静だった男も流石に声を荒げた。しかし博士は首を横に振った。
「いや、言いたいのは仙人が霞を食うという話だ」
「霞?」
「まぁ雲のことだな。仙人はそれを口にするだけで生きていけるという。
物のたとえに使われることが多いがな。……さて、研究の成果はすでに『渡した』よ。どうだ? 変化に気づかないか?」
「いえ、何も。いや……う」
男が口を押えゲップを一つ。
「どうだ? 腹が満たされた気がしないか? 食糧問題を解決したくてな。
これは人から人へとウイルスのように感染する。だからこの研究所には警備員もいない。感染する前に全員、追い出したからな。」
「確かに妙だとは思っていましたが……何故追い出して、いや、そうか混乱……」
「そうだ。世の中は確実に混乱するだろう。もう食べる必要がないのだからな。
栄養素も十分補えるように体は変化するのだ。食料関係の仕事はこの研究所の麓のレストランも含み、皆失業するだろう。いや、酒は別かな? どうだね一杯やるか?」
「……貴方はそれを悩んでいたというわけですか」
「そうだ。これを世に出せばどれだけの人が苦しみ、どれだけの人が救われるのか計算していたのだ。
ただ……腹は満たされても結局争い事はなくならないだろうな。
寧ろ、浮いた分兵器開発に金を注ぐことになるかもしれない。君を雇っている連中を想像するとそう思うよ。
さぁどうする? ここから出て行って世界にばら撒くか? それとも私を殺し、自分も死んで世界を救うか?」
「ふ、まさか。殺し屋なんてやってる人間が世界の幸福を望んでいるとでも?」
そう言うと男は部屋から飛び出した。きっとばら撒くためだろう。
博士は大きく息を吐き、その場に座り込んだ。
「うっぷ、危なかった」
博士はこっそり開けていたボンベの栓を閉めた。
博士が開発したのはゲップを誘発するガスに過ぎない。何の価値もなく、研究は打ち切られ、警備員も他所へ移された。男に知られていれば腹いせに殺されていたかもしれない。
博士は口を覆い、また小さくゲップをした。
しょうもない発明だが命を救ったことには変わりない。と、博士は小さな満足感を胸に宿し、部屋の明かりを消した。




