沼落ち
道を歩いていたその青年は電柱の前で足を止めると、機嫌の悪い犬のように眉を吊り上げ、口をひん曲げた。
犬の糞を見せつけられたような気分になったのだ。
その理由は電柱の張り紙。アイドルのライブの告知のようだ。ただ、紙の大部分を占めるそのアイドルの顔写真は悪ふざけとしか思えない。
グレイ型のエイリアンが安っぽいオカッパのカツラを被ってるよう。ギョロついた目で微かな笑み。恐らく最も自信のある顔の角度で、マイクを口元に当てている。
紙に小さく表記された地図によると場所は近い。開始時間はもう間もなくだった。
今日は友人に遊ぶ約束をドタキャンされ、暇していたところだ。珍獣見物も悪くはない。それに案外、歌は滅茶苦茶上手いかもしれない。どちらにせよ、SNSに載せるいいネタになりそうだ。
彼はそう思い、ほくそ笑んだ。
ライブハウスは地下にあった。顎を引き、やたら幅の狭い階段を下りる。
会場は中々の広さ、と感じたのは彼以外に客がいないからだろう。
日付を間違えたか? と彼が思っていたら声をかけられた。店長らしい。料金を払い、おまけのドリンクを受け取り、青年はステージに近づく。
時間だ。室内が暗くなり、青年は後ろを振り返る。
結局、客は自分一人だけのようだ。店としても良い気分じゃないだろう。まあ、もし実像が写真通りなら、確かにあんな珍獣を拝みにくる物好きな奴なんて、そう多くはないだろう。
そう思うと彼の中に徐々に後悔の念が込み上げてきた。
始まった。勢いのある音楽が流れ、下手糞なスキップで主役がライトアップされたステージに登場。
瞬間、彼は目を見開いた。あまりの上手さ、その迫力に圧倒された……わけではない。最悪だった。わずかに期待していた歌は下手。そもそも声が汚い。作ったように高いが無理しているのが見え見えで不快感すらあった。
さらに最悪なのは女の顔だ。写真より酷い。加工していたようだ。皺が目立ち、グレイ型宇宙人というよりかETのようだった。おまけになぜか髪色は写真のとおりの黒ではなくショッキングピンクだった。
ただ驚くべきことにその目は写真のとおりに異常にデカい。
そして、その目は明らかに彼を見ている。客は彼しかいないから、それは当然と言えるが問題は時折、彼に放たれるあのウィンク。それを目にするたびに腹の底から吐き気が込み上げていた。
こういうのを『レスをくれた』というのだろうか? 彼はふとそう思ったが首を振り、打ち消すことに努めた。
このままではトラウマ確定。特にこだわりは持っていないが、アイドルライブ初参戦がこれなんて冗談じゃない。記憶を残さない、いっそこのまま頭を振り続けて朦朧とした方がマシかもしれない。
だが、女はその様子を盛り上がっていると勘違いしたらしく歌声がますます調子づいた。
最悪な気分の中、彼の中でここでようやく建設的な意見が上がる。
……よし、帰ろう。俺が間違っていた。
「どこに行くの……?」
彼が踵を返し、歩いて僅か二歩。
曲中のセリフだろうか? と、彼は思った。
「ねぇ、どこに行くの? どこ! ねぇ!」
違うことはわかっていた。後ろを振り返ると、女が彼のことを見つめていた。その目は見開かれ、マイクを吹き矢のような構えで持っている。
無言のまま見つめ合う二人。それは数秒だが彼は時が止まったように思った。
蛇に睨まれた蛙。背骨に沿って鉄パイプを上から刺されたように体が動かない。
彼はスピーカーからただ垂れ流される音楽に耳を傾けるしかできなかった。
「ねぇ、どこに行くの? 帰るの?」
女の質問に彼はハッと我に返り答えた。
「い、いや、トイレに」
震えた声と足。一歩後ずさりする。
「トイレはあっち」
女が指差した。
「ああ、ありがとう」
笑顔。彼はそれがへりくだるような笑みであったことを自覚していた。
「待ってるからね」
女の言葉がトイレに向かうその背中に刺さる。
銛みたいに返しがついている。
彼はそう感じた。
窓。
窓。
窓。
トイレの中に窓がない。ああ、地下だから当たり前か。クソ! 便器の前で何もせずただ立っている。何だこの時間は……。
あの女に構わず走り出せばよかったか? ……なんて後からならどうとでも言えるもんだ。ただ、あの時はあの女が後ろから抱きつき、あの紫色のマニキュアの爪が俺の皮膚に、喉に食い込むのがイメージが頭に浮かんでビビっちまったんだ。ああ、気分が悪い。どうして俺がこんな目に……。
いや、落ち着け。そうだ、一人になって少しは冷静になれた。そうだろ? 勢いよく飛び出て階段を駆け上がれば……。
彼がそう思い、今一度落ち着こうと息を吐いたその時だった。
――コン
ノックの音。それは彼の決心を揺るがす一打となった。
「まだ?」
――コン
「まだ?」
――コン
「ねぇまだ?」
「も、もうすぐだから! ステージで待ってて!」
彼は咄嗟にカチャカチャとベルトで音を立て、すぐに出るという振りをした。
「ふふふ、オッケー」
ドアに耳を当て、足音が遠ざかるのを確認する。それが完全に消えた時、彼の口から自然と安堵の息が出た。
……なんだよさっきの俺の声。震えてたじゃないか。ビビるな、ビビるな……クソ。
パンツの中と同様、本能が縮み上がっているのがわかる。ああ、わかっているよ。すごく怖いさ。逃げられない。なんてったって異常だあの女は。とにかく、穏便に。
……そうだ。ライブが終われば一度は控え室に行くはずだ。その隙に逃げればいい。
って結局最後まで見ることになるじゃないか!
いや……奴は一人だ。休憩時間とかあるかも……。
熟考の末、ステージの前に戻った青年はできるだけ楽しそうな顔をした。
本当は耳を塞ぎたかった。
目を閉じたかった。
息を止めたかった。あるいは相手の息の根を。
スポットライトのピンク色の光が狂ったようにライブハウスの中を駆け回る。
点滅、その光から目を背けようとすると、こちらもまた狂ったように女が叫ぶ。
――見ろ! 見ろ! 見ろ! 見ろ! 私を見ろ!
ビリビリと肌に浴びせられる音。耳の奥。脳内で木霊する女の声と言葉。頭痛。まるで箱に閉じ込められた蜂が出口を求め暴れているようであった。しかし、今閉じ込められているのは自分では? 一瞬、彼の足下が揺らいだ。目眩。苦渋の時間が続く。手に持つドリンクだけが癒し。
一杯目は碌に飲まないままトイレに置き忘れた。そんな青年に彼が同情してくれたのか、二杯目をタダでくれた。
「アンタも災難だな」「ああ、お互いにな」声に出さず、目だけでそんな風なやり取りをした事を思い出すと心が和んだ。
彼は耐えた。耐えきった。音楽が止んだ後も体がふらふらと揺れる。
アンコールを二曲やった女はまるで大勢のファンに向けてするように一礼をすると、ステージの脇へ姿を消した。
――今だ。
青年は踵を返し、足早に出入り口のドアのほうへ。
「どこ行くの」ステージの袖から女が首だけ出して彼に言った。
「お見送りとグッズ販売と写真撮影。するよね」
「あ……はい」
「汗だけ拭いてくるから待っててね」
凄まじいほどの早口で女はそう言うと、シュッと顔を引っ込めた。
……まさか素直に待つはずがないだろう。
青年は鼻で笑おうとしたが、亀裂が入るような頭痛と目の前でカメラのフラッシュを焚かれたような光に顔を歪めた。
……何か変だ。頭が異常に重たい。視界もおかしい……。
……何だ今の音。ああ、持っていた紙コップを落とした音か。
彼はその小さな水溜りに膝をついた。ピシャッと音を立ててズボンが濡れたがどうでも良かった。その水溜まりの中にある物に目を奪われていたのだ。
これ……溶けた……錠剤……?
頭がぐわんと揺れた。
ああ、もうすぐ彼女が来る。
立たなきゃ……。
彼は足に力を入れるが、上手く行かない。濡れた箇所が広がり、ズブリズブリと床に沈むような感覚がしていた。視界がどんどん暗く、奇妙な徒労感、幸福感が満ちていく。
これがアイドルのライブかぁ……。
彼は誰もいないステージを見上げ微笑んだ。
ねだる犬のように舌を出し、涎を垂らし、もう一度、姿を、声を、もう一度だけと心から願った。
その願いは叶えられた。靴音が響く。微笑みが揺れる。朧気となっていく意識の中、彼は彼女の声を聞いた。
楽園から堕ちてきたばかりの天使のような可憐な声。
だが、それは後ろから彼を支え、軽く肩を揉んでいる店長に向けられていたようだった。
「上手く行ったね、パパ」
後日。そのライブハウスのSNSには、目にした者が慄くほどに楽し気な様子の青年の姿が載せられた。




