表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

193/705

「あー、きみ、きみ。どうしたのー?」


 声をかけられたその青年はビクッと震え、そして振り返ると同時に、半歩ほど後ずさりした。

 が、声をかけてきたのが警官だと分かると、一瞬ホッとしたような、顔をし、また沈むように暗い顔へと変わった。


 どんよりとした曇り空。やや歩調を速める程度の小雨が降っていた。

 

「雨だねぇ。嫌だねぇ」


 そう言いながら巡査長は青年に近づく。

 青年と同じように橋の欄干の上に手を置き、川の向こう、海の方角へと目を向ける。

 

「飛び降りようとかさ、考えて……ないよね? ははは、ないよねー」 


 そう思ったから声をかけたのだが、あえて明るい口調で訊ねた。

 

「飛び降りた方が……いいんでしょうかね」


 青年は一切笑わず、そう呟いた。

 巡査長は「そんなことないよー」とあえて軽い口調で返そうとした。

 だが、こちらを向いた青年のその顔を前に口ごもった。

 

 ――聞いてくれますか?


 帽子に落ちた雨粒の音に滲み、消えるようなか細い声だった。



 夜のことです。家に帰る途中、かなり酔った女を見つけたんで、それで声をかけてマンションに連れ込んだんです。

 ……いや、どうだったかな。あ、いや、酔っていたのは自分の方かもしれなくて、フラついた足取りがどっちのだったか……。

 まあ、どうでもいいですよね。へらへらしながらお互いの身体を掴んで……そう、掴んで歩いて……腕が、ああ、とにかく、早々にベッドに押し倒して、で、ヤッたんです。

 ただ……その、ほんと酔ってたみたいで、それで、いや、どうだったかな。女の方が言い出したのかもしれないですけど、そのヤりながら首を絞めてって。それで……しました。初めてです。ホント。で、女の、腕、腕がバタバタと、ああ、残像が、それで、腕が何本にも見えて……。

 面白かったんだと思います。はい。でも……そのうち動かなくなって、眠ったのかなって。で、俺も眠くて、瞼を閉じてそのまま女に倒れ込むようにして、眠ったんだと思います。

 で、朝になってみたら女の姿はどこにもなくて、帰ったのかな、いや全部、夢だったのだろうかなとも思いました。

 でもひょっとしたらシャワーでも浴びてるのかもしれない。それかトイレか。だからベッドから起き上がって女を探しました。

 でも、どこにも、いた痕跡もありませんでした。ベッドの上、掛け布団の下を捲るまでは。


 腕でした。


 女の、あの女の右腕、だけ。肩のやや下。そこから指までの。

 まるで雪だるまが溶けたみたいにその一部分だけが残っていたんです。

 シーツの上には血の一滴も無くて、断面は食品サンプルのゼリーのように艶やかで触っても手が汚れませんでした。

 作り物……違います。あの、感触。それに体温は本物でした。

 吐き気がして、俺はトイレに駆け込みました。ゲーゲー吐き終わったあと、もう一度念入りに女を探したんですけど、ドッキリだよーとかそういうのを期待して。でも、やっぱりいませんでした。

 それで、空き地というか、林に埋めちゃったんです。怖くなって。

 で、家に戻ったんですけど、やっぱり、なんか落ち着かなくて、で、また誰か女を呼ぼうと思ったんです。

 匂いを、あの感触を上書きしたかったんだと思います。

 そうすれば安心。と、その前にシーツを替えておくか……と、気づいたんです。妙な膨らみがあることに。

 

 腕でした。女の、腕。


 それが左腕でさっきは見逃していただけならまだわかるんです。でも……それは捨てたものと同じ、右腕でした。

 戻ってきた。あの女の怨念。執念。これは現実なんかじゃない。手で顔を覆い、自分に何度もそう言い聞かせました。

 そして息を大きく吐き、もう一度ベッドの上を見たんです。


 腕は二本に増えていました。

 はははは、笑っちゃいますよね。

 ほんと、夢の中みたいな話。でも、引っ掻いた頭皮の痛みがこれは現実だって僕に言っていました。


 そのあと、どうしたか? 二本の腕を抱えキッチンへ向かいました。

 包丁で……でも骨を断つのは難しかったというか無理でした。ただ時間が過ぎ、夜に、それから朝になってもただキッチンを汚しただけで終わりました。そう、終わりです。終わりしたかったんです。だから自首しようと思って鞄に入れたんです。

それで、シャワーを浴びて――



「交番に持って行こうとしていたのか」


 巡査はそう言ったあと、鼻から大きく息を吐いた。

 面と向かって聞くと確かに、真に迫ってはいた。

 だが、信じられるものではない。青年の沈んだ顔。病んでいるのだろう。作り話、ではない。本人は本気で信じ込んでいるのだ。

 

「その女性がどこの誰かも、名前も年齢もわからない、だね?」


「はい……あれは、人だったのかも、正直……いや、そんなの言い訳ですかね……」


「……まあ、今日は家に帰ったらどうだい? あったかくしてさ、少し、そう一週間くらい様子を見たらどうかな。

女性が行方不明とかそういう話も入ってきてないしね」


「……今の」


「ん?」


「一週間前の話なんです」


「え、へー、そうなんだ。でも――」


「シャワーを浴びて、交番に向かったんです。……でも、腕を入れた鞄が重くなって、開けると、また増えていたんです。

五本に。はははは、あの腕。あの腕は見ていないと増えるみたいなんですよ。ははははは」


「君、でも、それじゃその鞄は?」


『こちら本部。五丁目の林の中で死体遺棄事件発生。至急現場へ向かい、通報者への対応を――』


「捨てました。この川に。誰も見てませんでした。誰も」


 青年はそう言うと川を覗き込むように体を前に倒した。

 巡査長は思案した。

 水の流れと強まった雨で揺らぐ水面。その下に蠢いて見える無数の白い腕。

 亡者の川。その伸ばす腕が求めているもの。

 誰も見ていない。今は誰も。

 自分はこの伸ばした腕をどうするべきか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ