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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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寂しい苗木

 自宅の小さな温室でエリは鉢から鉢へ、その植物を移していた。

 植物が好きなだけあって慣れた手つきだが時折、ため息をもらす。

 その理由はエリの夫にある。彼は今、エリが抱えている悩みを杞憂だと笑って流すが、この悩みの種を、いや、苗を持って帰ってきた張本人である。


 先週の夜、珍しくかなり酔いながら帰ってきた夫はエリに小さな包みを差し出した。

 少し硬い透明なビニールに砂糖と金のラメを塗した袋だ。リビングの証明の光でシルエットが透けて見える。

 中身は小さな植木鉢だ。触った感じからしても間違いない。何か良いことがあり、それで帰りに花屋に寄って、植物好きな妻へのプレゼントに多肉植物か何かを買ってきた、といったところだろう。

 夫はそのまま居間のソファーへ飛び込むと、鼾をかいて眠ってしまった。


 花屋にしては時間が遅いかな? エリは時計をチラッと見て思う。

 こんな時間まで営業している店……いや、ないこともないだろう。それに、ここまで酔いつぶれる前に買ってきたのかもしれない。その気遣いに感謝しよう。

 プレゼントは明日、夫の前で開けることにして明日の夫からの報告。昇進。それを期待してエリは眠りについた。


 翌朝、痛そうに頭に手をやる夫にやれやれと思いながら、エリは訊ねる。


「昨日、何か良いことがあったんじゃない?」


「昨日……うーん」


 夫は記憶を探るようにこめかみを揉む。


「ああ、んん? うーん……ああそうだ!」


「なになに?」


「あの植木鉢! 世話をお願いね!」


 あの植木鉢……ああ、あれか。まだ包みを開けていないけど。

 エリは自分の予想が当たったことを少し喜んだ。


「はいはい、そんな事よりも昇進したとか何か良い報告はないの? それで珍しく飲んでたんじゃないの?」


「昇進……まあなくもない、かもしれない」


「何それ」


「実はね……」


 エリの夫はあの日、社長に呼び出された。期待と不安。恐らくは不安のほうがかなり大きかっただろう。

 社長室のドアをノックし、中に入る。

 すると、そこにいたのは社長と見知らぬ人物。この会社の人間ではない。どちらかと言えば親しそうだが、何か奇妙な緊張感がその部屋にあった。顔は良く覚えていない。恐らくその夜、酒を飲みすぎたせいだ。

 それにその人物は人を値踏みするような目で見るだけで、こちらと会話を交わすことはなかった。社長との会話は耳打ちで行い、声もわからない。長身で痩身。やや病的。それだけだ。

 社長は机の上に置いてある植木鉢を指差した。


「少しの間、これの世話を君に頼みたい」


 社長直々の指示。断るはずもなく、すぐに頷いた。

 上手くいけば今後、会社での君の立場は良くなると社長は付け加えた。

 裏を返せば上手くいかなければ……という話にもなるのだが、夫の頭は輝かしい未来しか想像していなかったようだ。

 上機嫌で社長室から飛び出し、同僚女性からお菓子のラッピング袋を半ば強引に奪い取り退社後、ご機嫌で酒を呷り、植木鉢を持って帰ってきたというわけだ。


 社長が彼を選んだ理由はうちに小さな温室があることと妻である私がガーデニングを趣味にしていると知ったからだろう。

 でなければ彼を選ばないと我ながら思う。

 そんな大事な預かり物、真っ直ぐ家に帰らずに落としたらどうするのだ。いや、そもそも……。

 

「私が世話をするの?」

 

 エリが眉をしかめてそう言った。


「ああ……だってほら。僕は仕事があるし……」


「だからと言ってさ」


「ああ、痛い痛い! 頭が!」


 大げさに頭を抱え、チラリとエリを見る夫。エリはため息一つで全てを許してやることにした。


 エリは夫を見送った後、温室に包みを持っていった。植物の世話にはそれなりに自信がある。立派にして返してやれば彼も鼻高々だろう。……調子に乗らないと良いけど、と短いため息をつき、包みを開け、小さな植木鉢を取り出す。


 茶色い土、その中心に可愛らしい小さな芽。と、これでは何の植物かわからない。これといった特徴もないのだ。図鑑を持ってきたところで無駄だろう。エリは一先ず、軽く水を与えて様子を見ることにした。


 翌朝、芽の様子を見に、温室に入るとエリは床に植木鉢の破片が落ちているのを目にした。

 視線を上げると白いテーブルの上に置いた鉢から、まるで寄生虫が飛び出すように禍々しい根が鉢を破壊しその姿を温室にある、他の植物にまざまざと見せつけていた。

 あの生まれたての赤子のような芽はフライパンの柄程の大きさの幹になり、そのてっぺんは荒野に佇む木のように粗雑な枝。しかしまだ成長途中とも思わせるような若さを醸し出していた。そして蝉の羽のような模様の濃い緑色の葉が所狭しと並んでいた。


 口をあんぐり開けて黙って見つめることしかできないエリだったが、その静かな温室で確かに聞いた。

 音。あの植木鉢からだ。

 カランと破片がテーブルの上に落ちる。あれは成長しているのだ。今、この瞬間も。


 エリはすぐに夫に電話した。

 あの植物が何なのか社長に訊いて欲しかった。

 けれど、夫はまず渋り、エリの話を疑い、そして断った。そもそも社長は出張中なのだと。


 何かとんでもないようなものを押し付けられた。それも意図的に。社長は知っているのだ。会った事もないし顔も知らないがエリの中に怒りがこみ上げてきた。

 エリは冷静になるために深呼吸を始めた。まず問題の一つ、あっさり枯らしてしまうという懸念は解消された。これは易々と枯れる事はない。間違いなく。次の問題はこれが自分の手に負えるかということだ。

 しかし、叩きつけられた挑戦状。返り討ちにしてやりたいという思いもある。

 最悪、彼の会社までタクシーを飛ばし、中にズカズカと乗り込み、社長室のドアを開け、放り込んでやれば良い。

 その場面を想像すると少し余裕が出てきた。エリは大きな鉢植えに移し替え、また様子を見ることにした。


 その日の夜、エリは帰ってきた夫のネクタイを引っ張り温室に入った。

 そして成長した植物を指差し、夫を睨む。

 夫はへらへらしながらすごいすごいとエリを褒めちぎった。この爆発的成長はエリのお世話による賜物だと解釈したらしい。

 エリは夫の無邪気さに呆れたが、天才と言われ悪い気はしていなかった。


 しかし翌朝、またしても度肝を抜かれた。あの芽が、いや木がまたしても鉢植えを壊し、その根を露にしていたのだ。

 夫を叩き起こして見せ付けるも寝ぼけ眼でエリの頭を撫でた。

 褒められたくて見せたわけじゃないとエリは憤慨した。夫は社長に会えたら聞いてみると約束したが、あまり期待は持てなかった。


 そして現在、エリは小まめに鉢の植え替えをしている。

 どうやら一定時間放置、つまり引っ越し先の植木鉢に馴染むと途端にあの爆発的成長をするらしい。

 つまり、常にホームシックにさせておかないといけないのだ。

 ただこれも確証は持てない上に面倒で、いっそ近くの空き地にでも植えてしまえばとも思ったが、その晩に巨大化した植物が街を破壊する夢を見て、その考えはやめた。


 一定時間放置しなければ大丈夫。しかし、その時間は決まっていない。蛇口をひねり如雨露に水をためる間、たまる時間を予想し、その場を離れ他の事をする。それでさえも時には水が僅かに溢れることがあるだろう。その様に、植物はじわじわと大きさを増していた。エリの不安を糧に成長するように。


 しかし朗報が届く。帰宅した夫によれば明日、社長が帰ってくるらしい。明日の朝一番、植物を運んでもらおう。すでにその大きさは両腕でしっかりと抱えなければ持てないほどだが、タクシーを使えば問題はない。余計な出費だがこの立派に育った姿を見れば文句はないだろう。つまり昇進も夢ではない。

 ようやく解放される……。その想いと夫からの感謝の言葉で、ようやくエリの心がフッと軽くなった。

 二人で乾杯。笑い合い、任から解放された喜びに浸る……しかし僅か、そう、ほんの僅かではあるがエリは音を聞いた。

 それはあの厄介な植物の世話の苦労話を夫に聞かせ、意識を温室へ向けた瞬間であった。

 気のせいかもしれない。不安がそう聞こえさせただけの事。庭でした物音。それがただの風のせいであったのに、泥棒ではないかと、ふと心に不安が浮上するそれと同じ。


 気のせいだ。ギチギチと軋む音。


 確認? まさか。必要ない。植替えは先程済ませた。

 エリの夫が温室のほうを見る。今、窓ガラスか何か割れた音がしなかった? と。

 いいえ、気のせいよ。エリはそう言いたかったが喉から言葉が出ない。

 夫は泥棒なら任せろと言わんばかりに目に力が篭っている。そしてまたガラスが割れた音。



 エリは目を閉じた。感覚を鋭敏にさせるためではない。ある考えが脳裏をよぎった。


 小まめに植え替えをし、ホームシックにさせておかなければならない。

 私はこの数日間あの植物を世話し、抱いた感情がいくつかある。

 不安、苛立ち、不信そして……愛着。家族の一員のような……。


 あの植物はエリに、この家そのものに慣れてしまったのだ。

 エリが目を開けた瞬間、この家の悲鳴が夜空に轟いた。

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