おばあちゃんはね……
「おばあちゃん、死んじゃイヤ……」
泣きじゃくる少女はベッドの脇に膝をつきシーツをぎゅっと握った。
少女の祖母はそれを見てにっこり笑う。
「大丈夫、おばあちゃんはね、アナタの中で生き続けるから……」
祖母はそう言うと少女に手を伸ばした。そしてその手が少女の頭に触れた瞬間、長い、長い息を吐いた。
風船がしぼむように力が、全てが抜け切り、祖母の手はストンとベッドの上に落ちた。
そしてもう、呼吸することはなくなった。少女が小学生のときの話である。
「あの男はよしなさい」
「おばあちゃん……」
そして現在。祖母は毎晩、成長を遂げた彼女の夢の中に現れる。
いや、居座っていると言った方が正しい。
真っ白な空間に祖母と二人きり。望めばコタツやテレビも、何でも出せる。
最初の頃は彼女も嬉しかった。祖母が死んだ日の晩、夢に現れたその時は泣いて抱きついたことを彼女は覚えている。
しかし、二日目、三日目も続けて現れたことに少々胸がざわついた。そしてそのざわつきは日が経つごとに大きくなった。イラつきや不満などが毛と埃のように絡み合い、巻き込みながら。
可愛がってくれた実の祖母だ。邪険には扱えない。でも適当に聞き流したり、愛想笑いして夢から切り上げることが増えた。
祖母が夢に現れるのは一晩に一回だけだから、すぐに目を覚ましてしまえばいい。もう一度寝直せばそこは楽しい夢の世界。
しかし、成長し彼女に恋人ができると祖母は今のように頻繁に口出しするようになったのだ。
これにはもう我慢の限界だった。
そしてある晩の夢の中。彼女はとうとう祖母に向かって言った。
「……もう、あっちの世界へ行ってくれないかな」
「あっち?」
「……死後の世界。あ、ほ、ほら、おじいちゃんもいい加減寂しがっているんじゃないかな?」
「んん? ああ、いいのよあの人は。待たせておけばね。
それにおばあちゃんはね、生きているアナタのほうがずっとずっと大事だもの」
「いいから、ね……?」
「大丈夫大丈夫。それより今お付き合いしている男の人だけど」
「……それが、それがイヤなの! もう消えてよ!」
そこでテレビの電源を消したようにプツッと夢が終わった。
ひどいことを言っただろうか。
目覚めた彼女を後悔が襲った。しかし、それも次の夜が明けるまでの事であった。
「おばあちゃん?」
夢の中。彼女は辺りを見渡した。
そこはいつもの真っ白な空間。一点の影もない。
そう、いない。祖母が夢の中にいない。
彼女は大きく息を吐いた。
あの日、祖母が死んだときのように長く、体の力が抜けるような息。
安堵。それから少しの寂しさ。でもきっと向こうで楽しくやっているだろう。私も存分にこっちの世界を、人生を楽しもう。
彼女はそう考え、今は一人の夢の世界で自由に物を出し、楽しんだ。
「……う、うー」
朝。呻き声と共に女は目を覚ました。
祖母が居ない。その事を思い出し、フフッと笑ったが体の疲れに顔を顰めた。
でもまた顔がにやけた。昨晩の恋人との情事を思い出したのだ。
隣で眠る恋人にそっと手を伸ばす。お疲れ様と、そう指でくすぐるために。
が、いない。
なんだ、もう起きたのか。帰ったのかな? まあいいや、シャワーを浴びよう。
そう考えた彼女はベットから起きて伸びをし、洗面所に向かった。
しかし、下着を脱ぎ捨て、浴室のドアを開けるとその目に飛び込んだのは赤。赤。赤。
恋人からのサプライズ。飾り付けしたのかと思った。浴槽に薔薇の花を浮かべる、そんなような。
血が飛び散った壁と天井。
部分部分が掠れ、黒ずみ、塊がこびり付いている。
彼女の足が血溜りを踏み、窓の外で鳴く鳥の声に返事をしたようにピチュッという音を立てた。そして浴槽には
「嘘、なんで……」
足がふらつき、頭が異様に重くなった。
込み上げた吐き気は嗚咽となって出た。
彼女は自分が立っていられる状態じゃないことも血の気が引き、意識が遠のくのもわかっていた。
が、どうしようもない。床の血に触れることを嫌悪し、抗おうとしたが結局膝をつくことしかできなかった。
ああ暗い。
視界が点滅する。
白と黒。
あの夢の世界と暗闇。
そして……声。
あぁ、遠くから声が聞こえる……この声は……。
「大丈夫、おばあちゃんに任せなさい。続きはちゃーんとやっておくから。あんな年上の男。マリには相応しくないもの」
……ちがう。ちがうちがうちがう。
私はミホ。
マリは私の母の名前。
祖母は……そうだ、母と父の結婚に反対してた……。
「……あのね、おばあちゃんはね、その、頭が……」
躊躇ううちに言葉は出口を失い、意識が髪を引っ張られるように深い闇の中に落ちていく。
ただ、祖母があの時言った
『アナタの中に生き続ける』
その言葉が彼女の中で木霊していたが、それもやがて闇に飲まれていった。




