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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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呪われたもの

 夜、自宅アパート。男は奇妙な感覚に捉われていた。

 さっきまでは高所かつ広く、綺麗な部屋に我が物顔で入っていたのに今はそれよりも低く狭く、汚い部屋にいる。

 なんという落差。しかし、奇妙というのはホテルに勤め始めたばかりに抱いたこの感覚の事を言っているのではない。

 彼は机の上に置かれたボイスレコーダーを片肘ついて見下ろしている。指でピンとはじくとその場でクルクルと回った。止まる時は毎回決まって、まるで記者がそうするようにこちらに向けて止まる。その度に奇妙な、不気味な感覚が胸の内側を撫でる。


 このボイスレコーダーは彼の物ではない。彼が勤めるホテルに泊まった男の物だ。

 忘れ物? 違うとは言い切れない。男は死んだ。これは置き土産だ。

 第一発見者である彼が何故このレコーダーを上司に報告する前に自分のポケットに滑り込ませたのか説明するのは本人にも難しい。首吊り死体を見て動揺していたから、なんて理由よりは好奇心のほうがまだ頷けるが自分の部屋に帰り、冷静になった今も自分が何故あんな行動をとったのかわからない。

 盗癖はない。極めて真面目で将来有望なホテルマンと周りから期待されている。応対した顧客の満足度は高い。自殺したあの男でさえもそうであったと思う。


 指でボイスレコーダーをなぞる。ノートに書いた迷路をなぞるように。

 恐らく中身は遺言。男がこの世に向けて残した最後の言葉。恨みか感謝か願いか。

 いずれにせよ自分の指ひとつでそれを消し去ることができる。かと言って優越感はない。恨みもない……とも言い切れない。ホテルに与えた被害は決して軽くはない。自殺者の部屋など誰が泊まりたがる? それどころか隣の部屋、何ならあのホテルそのものを忌避したいところだろう。ホテルの経営が芳しくなれば当然そこに勤める自分にも影響がある。給料、不機嫌な上司の八つ当たり、全体の雰囲気……。

 風評とともに男の痕跡を消し去りたい。ホテルを守るためにボイスレコーダーを破棄する。そう、そのために持ち出した。それが理由。


 ……なんてこじつけ。このホテルにそれほど愛着も、忠義心もない。このホテルで働き始めて、そう日は経っていない。まだ開けてないドアのほうが多いはずだ。だから仮に、もしあの部屋が呪いの部屋であってもそれを知らないのだ。

 あの男の姿。思い出すだけで吐き気が込み上げる。部屋の上部。エアコンの通風口にズボンのベルトを結び、あの男は首を吊った。薄目を開け、舌を少し出し首を僅かに傾げていた。


 好奇心。あの男の身に何が起きた? 何を残した? あのホテル。あの部屋に何か秘密があるのか。それがボイスレコーダーを持ち出した理由。

 ……いや、それも違う。あの部屋でボイスレコーダーを目にした時からわかっていたことだ。恐れたのだ。

 再生しない、中身を確かめないことで膨らむ想像力、恐怖心に脅かされること。

 何てことはないさ。再生し、そう思いたい。その一心。


 迷路のゴール。ボイスレコーダーをなぞっていた彼の指は再生ボタンの上に乗った。すでに心は決まっていたが考えるように爪でカッ、カッと突いたあと、彼は再生ボタンを押した。

 

 静けさが彼に呼吸をも渋らせた。耳を澄まし、聴こえたのはわずかな雑音。息遣いの音。そして鼻歌。

 明るい曲だ。叫び声が来るんじゃないかと、いつでも耳を塞げるように手を耳の近くに準備していたが杞憂だった。

 再生は何事もなく終わった。鼻歌だけ。徐々に大きくなったがそれだけだ。最後は『あ』と一言。それでお終い。首が絞まる音でも聞こえるかとも思ったが録音を止めてから首を吊ったようだ。

 遺言もなければ会話、実はその場にもう一人居たなんてオチもない。宝箱の中身は退屈な遺物だったわけだ。


 ホッとした彼はボイスレコーダーに何かを吹き込む気になった。

 上書き。それで完全に恐怖を拭い去る。支配と言ってもいい。

 彼は自分が得意にしている曲モノマネ、自身がラジオパーソナリティになった気分で喋った。やや躁病気味だったのは空元気のようなものか。到底、人には聞かせたくない。尤も聞かせる気もない。この後、一度だけ聴いて削除するつもりだ。

 喋り終わり、軽く咳払いすると彼は再生ボタンを押した。


『不安が常在するようになったのはいつからだろう。

恐らく物心がついた時にはもう……。

どこにも馴染めなかった。

夕方、一日の終わりはホッとする。

でも込み上げて来るのは明日の不安。

それが続いた。ずっと、ずっと今も変わらない。

常に怯えている。人の目が怖い。

生まれつきのものだ。

取り繕うのももう限界だ。

死にたいんじゃない。生きていたくな――』


 彼は震える指で停止ボタンを押した。

 呼吸が苦しい。動揺している。脳に酸素が行っていないのが自分でも分かった。足首を氷水に浸したように感覚がない。


 幻覚、幻聴。

 有り得ない。

 これじゃまるで遺言じゃないか。


 彼は録音データを削除した。そして息を整えた後、再び録音ボタンを押す。


 今度こそ。さっきのは気のせい。やっぱり幻聴だ。サメに襲われたダイバーが再び海に潜り、トラウマを克服するようにそう、もう一度。上書きするんだ。そう考えた彼だったが言葉が出ない。

 数十秒してからようやく出たのは鼻歌。彼は縋るようにその歌に集中した。


 そう……いいぞ。

 明るい曲だ。

 これでいい。

 でもなんだっけ……。

 ……覚えがある。

 どこで聞いたかな。

 確か最近……。


「あ」


 ああ、そうか。呪われていたのはこの……。

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