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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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ご馳走は心を満たすのです

「おいおい、いいのかい?」


「何が……?」


 リサは独り言のように呟いた。実際、この小さなキッチンにいるのは彼女一人だけだった。

 数分前は飲み物を取りに人の往来があったが、このメインの七面鳥以外の料理と酒が出揃った今、ここに来る者はいないだろう。みんながリビングでリサとメインディッシュの入場を心待ちにしている。

 リサはオーブンの前にしゃがみ、七面鳥が焼き上がるのを待っていた。


「旦那だよ、旦那。お前だってテーブルの下で指を絡めているのを想像してるんじゃないか?」


「馬鹿ね。ないわよ、そんなことは」


 今夜、この家にやってきた二組の夫婦。そのうちの一組の妻と、リサの夫が街を歩いているのを昨日偶然街で見かけた。見ていたのは見失うまでの少しの間だが、二人は親しげに笑い、体の一部が必ずどこかに触れ合っていた。

 声はかけなかった。ちょうど、クリスマスシーズン。今夜のパーティのための買い物だと言い逃れするのが目に見えていた。と、いうのは言い訳かもしれない。リサは恐れていたのだ。


 家に帰ったリサは洗面所に飛び込み、蛇口の水を全開まで出した。

 胃の中の物を全部出してしまえば、この気持ちもスッキリすると思ったからだ。だが大きく口を開けても乾いた咳が出ただけで、それも水の音に掻き消された。

 リサは諦め、七面鳥を作業台の上に乱暴に置いた。腕まくりをし、下準備を開始した。ピンクががった白い肉が何とも生々しく、死してなお存在感があった。

 塩を揉みこみつつ、皮をめくる。真っ暗な空間がそこにはあった。内臓や頭は処理済だから問題はない。

 そう思っていた。そこから声がするまでは。


「よぉ」


 それが第一声だった。猫のように後ろに飛び退いたため、食器棚に背中をぶつけ、リサは痛みで顔を歪めた。


「落ち着けよ」


 生白い肉塊が声に合わせて腕人形みたいに動いたように見えた。リサが自分の頭を疑ったのは言うまでもない。ストレス。夫の不倫現場に出くわしたかもしれないという精神的な苦痛。そしてそれを確かめることができないイライラが見せた幻視、そして幻聴。リサは自分にそう言い聞かせ、深呼吸をした。


「そうだ、いいぞ。まずは落ち着くんだ」


「……あなたは何?」


「知っているだろう? アンタがスーパーで買った七面鳥さ。俺が安売りなんて傷つくなぁ」


「何が目的? 何をしてほしいの? 外に逃がせばいいの? 山がいい? それともあなたがいた農場?」


「そう捲くし立てるなよ。ま、少なくとも、さっきからチラチラ見てるそのゴミ箱に入れるのは勘弁してもらいたいね」


 それもリサの選択肢の一つではあった。しかし、買って帰ってきた労力、また買いに行く手間を考えると実行する気は起きない。七面鳥なしのクリスマスというのもあり得ない。


「まぁ、俺のことはいいから、下ごしらえするんだろう? やってくれよ。遠慮なくな」


 休息をとるのが一番に思えた。今夜は早めに寝る、何なら今すぐにでも横になるべきだ。

 だが、これをそのまま放り出すわけにはいかない。今、下ごしらえしなければ明日のパーティに間に合わないだろう。そう考えたリサは覚悟を決めた。

 適当にネットから集めたレシピを見て人参、玉ねぎ、セロリと共に七面鳥をビニールに入ったブライン液に漬け込む。

「おー、いいね」「いい気持ちだぁ」などといった声をひたすら無視し袋の口を固く縛り、冷蔵庫に入れた。

 ドアを閉める際「おやすみ」と言う声が聞こえたがリサはそれも無視した。眠れば、全てが元通り。そう言い聞かせるようにリサは決心した通り、この日は早めに眠りについた。


 翌日、よく眠ったリサはすっきりとした気持ちでキッチンに向かう。

 部屋の飾りつけは終わった。夫は買い物に出かけた。が、それも実際のところはどうなのか。昨日の光景が頭によぎる。そして喋る七面鳥も。

 リサは頭を振り、冷蔵庫を開けビニール袋に入った七面鳥に軽く触れた。問題はない。七面鳥をビニール袋から取り出し、アルミトレイの上に乗せた。瑞々しい。水分を吸収したのだろう。表面の水気を拭い、塩とレモン汁を全体に擦り込む。


「いよいよかな?」


 手が止まった。


「焼くんだろう?」


 リサは悲鳴を押し殺そうと手で口を覆った。呼吸の度にレモンの香りがした。

 頭痛がしたが、作業をやめる理由にはならない。そうとも、とにかく今日を乗り越えればいい。夫のこともあの女のこともその後、じっくりと考えればいい。リサはそう考えた。


 柔らかくしたバターを素手で塗りこんでいく。ふとマッサージのようだと思ったが、七面鳥は特に何も言わなかった。それが却って腹立たしかった。

 もしかして緊張しているのかも。よく焼けよう、美味しくなろうと精神統一? などと考えたリサは乾いた笑いをこぼした。

 オーブンの角皿に乗せ、オーブンを開ける。すでに温めておいた。熱がフワッと出迎える。

 七面鳥を中にいれ、扉を閉めると息をついた。あとは様子を見つつ、時々開けてバターを塗るだけだ。

 閉ざされた扉の向こうから「大丈夫か?」と声が聞こえた。

 リサは声を出して笑った。それでも、熱い熱いと絶叫しないだけマシだとリサは思った。

 完成間近になるとまず夫が帰宅し、その後ゾロゾロと客が家に上がった。

 夫婦が二組、その内の一組の妻は夫と歩いていた女だ。そこから慌しくも滞りなく準備は進み、後はオーブンを開けるのみだった。すでに焦げ付いたバターと深いコクのある肉の匂いがキッチンに漂っている。


「で、どうなんだ?」


「それはあなたに聞きたいね。どうなの? 焼き具合は?」


「上々だよ。君は腕がいい」


 七面鳥が愉快そうに笑った。

 これから送られるであろう賛辞をまず初めに、食べられる当人から送られるとは。そう思い、リサもクスクス笑った。


「俺が聞きたいのはあいつらのことさ」


「……夫とあの女ね。ま、クリスマスプレゼントの相談でしょ。大学の先輩後輩の関係だったし、その延長で親しいのよ」


「本当にそう思うかい?」


 リサは答えなかった。代わりにタイマーが鳴った。

 オーブンを開けると、その熱で目を細めた。香ばしい匂いに鼻を膨らませ、完成を確信する。七面鳥は濃い焼き目をつけ、肉汁が音を立てていた。

 鍋掴みをつけて角皿ごと取り出す。確かな重み。赤子もこれくらいはあるだろうか。こうして眺めると優勝トロフィーのように思えてリサは誇らしい気分になった。

 これを客人が待つテーブルまで持って行き、歓声を浴びる姿を想像する。

 おなかがきゅるるるると鳴った。もう悩みなど、どうでもいい。この食欲とご馳走の前では。

 皆が競い合うように食すのが目に浮かぶ。次に食後に「実は彼女に選んでもらったんだ」と、夫が渡すプレゼントに大げさに手で口を覆ってみせる自分を想像した。そうとも、全てがうまくいく。


 リサは食卓に向かって王冠のように恭しく七面鳥を運んだ。

 皆の目の輝きが一斉に向けられ、眩しい。

 七面鳥はリビングの灯りに照らされ、本当に輝いているように見えた。


「さぁ、お待たせ! 食べましょう!」


 上がる歓声。「フォー!」と大げさに腕を振る夫を見て、リサは笑った。

 ナイフで切り分けられた肉片を、みんなが「んー!」と目を細めて食ベ進めていく。

 収まりきらず、口からはみ出た肉片を唇で啜り、油で艶やかに光った。手で塩を揉みこんだ肉は、今は口の中で歯で磨り潰され唾液と舌で揉みこまれ深い穴へと落ちていく。その度に自分が満たされていくのをリサは感じていた。

 みんなから偉大なコックと称えられ、酒で赤くなったリサの頬がより赤みを増した。会話が弾む。冗談が飛び、笑顔が踊る。食が進み、また笑う。

 切り分けられた肉が僅かになり、骨が存在感を出し始めたとき、誰かが言った。


「満足かな?」


 リサにはそれが誰の声かわかっていた。

 リサは「もちろん」と皿に向かって呟く。


「そいつはよかった」


 リサは顔色一つ変えずに骨についた肉をこそぎ落としていた。当然だ。これは自分の脳内の声なのだから。

 切り落とされた肉片が狂ったように笑い出しても動じない。

 震えるそれをリサはフォークで突き刺し、口に放り込んだ。

 肉片は食道を通ってもなお笑い続け、体をくすぐった。

 共鳴するように胃の中の肉も笑い出した。

 体がブルブル震え、リサは愉快な気持ちになった。


 リサだけは。


 リサ以外の視線は、皿とリサに交互に注がれていた。

 一連の幻覚は体内を巡る血液が脳にアルコールを運んだせいだと一同、頭の中で自分に言い聞かせていた。

 喋る七面鳥。それをものともしないリサ。それどころか会話をしていた。異様な光景。小さな肉片が笑い声を上げながら、蛆虫のように身をくねらせている。

 件の女が手に持っていたグラスを落とし、こぼれた酒がカーペットに染みた。

 手が震えていたからだ。だが震えは手だけじゃない。各々、胃の中が震えているのを感じていた。

 笑っている。静まり返る一同の代わりに七面鳥が笑う。

 食われた肉はどうなるのか。ただ消化されるのか。それとも……。


 恐怖も疑念も、何もかもを吹き飛ばすような快活な笑い声が脳を満たした。

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