お持ち帰り :約1500文字
私は電車の座席が好きだ。といっても鉄道マニアではない。ただ、仕事帰りにうまく座れたときに得られる至福が、たまらないのだ。もっとも、大抵は吊革が私の定位置で、座席に座る乗客を見下ろしながら、羨望とわずかな恨めしさを胸に揺られている。
だからこそ、今夜のように座れたときは幸福感がひとしおなのだ。
残業で帰りが遅くなり、車内はピーク時ほど混んでおらず、タイミングよく座ることができた。心地よい揺れ。ほんのり温かいシート。ちょっと視線を上げれば吊り革にしがみつく乗客を眺められ、わずかな優越感を覚える。ああ、この時間がたまらない……ん? ほお……。
私の肩に、隣の乗客の頭がそっともたれかかった。
隣はたしか……なんて思い返すことも、見て確認する必要もない。この花のようにいい香りが雄弁に答えを告げている。女だ。
横目でちらりと覗く。若そうだ。肩にかかる長さの黒髪に、下はスカート姿。疲れて眠ったのか、それとも酒に酔っているのか。
ふと顔を上げると、目の前に立っていた男がさっと顔を逸らした。どうやら見ていたらしい。ふふん、羨ましいか? 譲ってやるものか……と思ったものの、私の降車駅はもうすぐだ。この感触を堪能するために乗り過ごすのは、さすがにない。
起こすのも忍びないので、向こう側へ頭を押しやるとするか。
……いや、待てよ。『お持ち帰り』なんてできたりして。いやいやいや、さすがにそれは――。
そう考えた瞬間、電車が揺れ、女の体がさらに私へ倒れ込んできた。咄嗟に手で支える。
その瞬間、甘い香りがふわっと鼻腔に押し寄せ、柔らかな肉の感触と重みが胸の奥まで沁み込んできた。
これは……いいってことだな。うん。神託だ。
電車が駅に滑り込み、ドアが開いた。
さあさあ、どいたどいた。私は女の腕を肩に回し、周囲の乗客を押しのけるようにホームへ降りた。
ははは、いやあ、少々勢いで行動した気もするが、時には思いきりが大事だ。女に不審がられたら、介抱するつもりだったと言えばいい。涎やゲロで服を汚されたと脅すのもいいな、むふふふ。……しかし重いな。もう少し自力で歩いてほしいところだ。
私は女をひとまずベンチに座らせた。さすがにこのまま外へ連れ出すのは厳しい。水でも買ってやるか。自販機は――。
「きゃあああ!」
突如、甲高い悲鳴が響いた。思わずそのほうへ視線を向けると、そこには中年の女がいた。いったい何にそんな声を上げて……。
……いや、私を見ている。違う。私の足元だ。
ベンチに座らせた女が崩れ落ち、私の足元に倒れていた。
「あ、ち、違うんですよ。彼女、ちょっと飲みすぎたみたいで、ははは……」
私は誰にともなく言い訳を口にした。まったく、はた迷惑な女だ。早く立たせねば――。
女の手首を掴んだ瞬間、ひやりとした冷たさが手のひらを這い上がった。まるでゴムのような感触。ぞわりと背筋が粟立ち、私はつい手を離した。
女の体が再び床に横たわる。顔がこちらを向いた。私を見上げるその目には、一片の生気も宿っていなかった。
「人殺し!」
誰かがそう叫んだ。
「ち、違――」
私は慌てて両手を上げ、無関係だとアピールしながら後ずさった。だが次の瞬間、四方から無数の手が伸び、私の体を掴んだ。腕を、肩を、頭を、首を、足を、そして喉を。
逃がさない、許さない――その重みと圧力が、一斉に私を押し潰した。




