マリーさんです :約1500文字
『私、マリー。今、あなたの部屋の向かいのマンションにいるの』
夜。部屋で一人、ソファに沈み込みながらグラスを傾けていたところ、携帯が鳴った。画面を見ると、知らない番号。出てみたが、マリーだと……? 『メリーさん』のもじりか。あの馬鹿、妙なオリジナリティを出しやがって。いい歳こいて、こんなイタズラをやりかねないのは、あの馬鹿しかいない。
無視だ、無視。おれは鼻で笑い、電話を切った。せっかくの晩酌を邪魔しやがって。おれはグラスの中身を一息に飲み干した。
――ピリリリリッ。
また電話が鳴った。うるさいな……。この時間は、テレビすらつけないというのに。
無視しても、一向に鳴り止む気配がないので、おれは仕方なく通話ボタンを押した。
『……私、マリー。今、あなたの部屋の向かいのマンションにいるの』
おれは立ち上がり、カーテンを指先で少しめくった。確かに、正面には同じ規模のマンションが建っているが……。
「おい馬鹿。それってたしか、電話のたびに少しずつ距離を詰めてくるやつだろ」
高校時代からの腐れ縁だ。声を加工してるのか、恋人か飲み屋の女にでもやらせてるのか知らんが、雑な真似を。
おれは通話を切り、携帯をソファ横のローテーブルに置くと、背を反らしながら冷蔵庫へ向かった。
――ピリリリリリリッ。
また鳴った。イラつくが、どうせ出ないと鳴り止まないんだろう。
『私、マリー。今、あなたの部屋の向かいのマンションに――』
おれは無言で電話を切り、着信拒否リストに叩き込んだ。これでもう煩わされることはない。次に会ったら、ぶん殴ってやろう。
――ピリリリリリリッ。
……また鳴った。おかしい。さっきと同じ番号だ。
『私、マリー。今、あなたの部屋の向かいのマンションにいるの』
先ほどと同じ言い回し、だが、録音した音声をただ流してるわけではなさそうだ。イントネーションが微妙に違う。それに、妙な湿っぽさがあった。
おれは再び通話を切った。
――ピリリリッ。
間髪入れず鳴り出した。
――ピリリリリッ。
嘘だろ。まさか……本当に。いや、そんなの非現実的だ。
――ピリリリリリッ。
着信音がどんどん大きくなっていく。
――ピリリリリリリリリリリリリッ。
こんな機能、ありえない。ただのイタズラや仕掛けで済む話じゃない。超常現象の類であることは、もはや疑いようがない。
出るしかないのか……だが、なぜだ……。
『私、マリー。今、あなたの部屋の向かいのマンションにいるの』
やはり……なぜだ、なぜ……。
おれは携帯を握ったままベランダに飛び出した。
向かいのマンションを見やる。灯りが滲む窓の並びの中、一つだけカーテンのない部屋があった。その暗がりの奥に、何かがいる……あれは――
「……おい。楽しようとするな。何度かけても、こっちから出向くつもりはないからな」
『……せめて、ビデオ通話に』
「しない」
文明の便利さは人を怠惰にする。仕事は家ででき、買い物も配達で済む時代だ。おれもまた、人のことをとやかく言えないかもしれない。
おれは突き出た腹を見やり、ため息をついた。
あの部屋の窓の奥には、電話を握った巨女が、まるでセイウチみたいにぬっと腰を下ろしていた。




