屏風の虎 :約3000文字
とある山奥に、古く大きな寺があった。ここにいる者たちは、立派な坊主になるべく、日夜厳しい修行を積んでいる……が、その中にも不真面目な者はいるようで……。
「一晩、ここで己を見つめ直すがよい……」
夕方。立派な白い眉毛と顎に長い髭を蓄えた和尚が、本殿から離れた位置にある、これまた古くて小さな蔵の前で、そう言った。その蔵の中には、一人の小坊主がいた。板の床に膝をつき、手をにぎにぎと合わせて、愛想笑いを浮かべている。
「そんなあ、和尚さまあ~」
猫なで声で縋ったものの、帰ってきたのは重く閉じられる扉の音だけだった。吐き捨てた舌打ちも、分厚い板に阻まれて向こう側に届きはしなかった。
「……糞ジジイめ」
悪態つく小坊主。彼には昔話になぞらえて、『一休』というあだ名がついていた。
まったく、なぜ自分が閉じ込められねばならないのか。仏の御心ってやつはどうしたんだ。そう心の中で毒づきながら、深々とため息をつく。反省する気など毛頭ない。いつもの悪戯を、ほんの少しやりすぎただけのことだ。
ぽりぽりと掻いたその頭で考えるのは、この格子付きの小窓が一つだけの小さな蔵で、どうやって暇をつぶすかということだけ。
「……寝るに限るな」
そう結論づけた一休は、その場でごろんと横になり、目を閉じた。
だが、今日も今日とて、隙を見て昼寝をしたから、どうも眠気がない。すぐにパッと跳ね起きて、何か落書きなり悪戯でもできるものはないかと、きょろきょろ辺りを見回し始めた。
窓の格子の隙間から差し込む月明かりが、薄い光の帯となって床を照らし、室内の影をぼんやりと浮かび上がらせている。
中はがらんどうで、柱が数本立っているほかは何もないように見えるが――。
「おっと、これは……」
部屋の隅に、布でくるまれた何かがあるのに気づいた。縄でぐるぐると、固く括られている。よほど見られたくない物らしい。ならば当然見るべきである。
一休はしめしめ、と口元を歪め、手早く縄を解き、布をばさりと剥ぎ取った。すると――
「うわ!」
思わず仰け反り、尻餅をついた。
布の下から現れたのは屏風だった。そこには、厳つい虎が描かれていた。毛並みの一本一本まで精緻に描かれ、息づくようにこちらを睨みつけている。
一休は立ち上がり、虎を見下ろした。
驚かせやがって、びりびりに破いてやろうか……。
そう思ったが、ふと視線を落とすと、さっき解いた縄が目に入った。一休はにやりと笑い、それを拾い上げる。そして、大きく息を吸い込んだ。
「さあさあ、お殿様! それでは、この虎を屏風から追い出してください! すぐに縛ってご覧にいれてやりますよ!」
一休は昔話になぞらえた台詞を言うと、一人で笑い転げた。
「ははは、一度やってみたかったんだよな。さあ、用済みだ。破いてやろう」
一休はそう言いながら立ち上がり、屏風へ視線を戻す――が、そこに虎の姿はなかった。
――グルルル……
耳の奥を震わせるような唸り声が聞こえた。
――グルルルル……
湿った息と、怒気を孕んだ低い声が、背中に染み込んでいく。
――グルルルルル……
……いや、気のせいだ。そうに決まっている。一休は無理やり笑おうとしたが、喉からもれたのは掠れた音だけだった。
――グルルルルルル……
「ひ、ひやあああああ!」
蔵の中に甲高い悲鳴が響き渡った。ゆっくりと振り返ると、そこには牙を剥き、金色の眼を爛々と輝かせた虎がいた。炎のように毛を逆立て、口から涎を垂らし、獣臭を漂わせている。
虎は唸り声とともに一休へ飛びかかった。
――グルラララアアアア!
一休は背を向け、素早く柱に飛びつくと猿のように登った。
もともと、すばしっこさには定評があるのだ。梁まで辿り着くと、手汗と震えに抗いながら、必死にしがみついた。
――いったい、何がどうして……夢なの、か?
車酔いしたみたいに、頭の中で言葉がぐるぐると回り、ぶつかり合う。
ふいに、一休は震える手を背中に伸ばした。妙な違和感があったからだ。
――湿ってる……血だ! おれの血が!
手にべっとりとついた赤黒い液を見て、一休は、ひいと短く悲鳴を上げた。
自覚した途端、痛みが背中からじわじわと広がり、やがて全身へ染み渡った。足は勝手に震え、歯はガチガチと鳴る。これは夢なんかじゃない。本物の死が背後から、いや、真下から舌なめずりしている。
虎は一休を見上げながら、柱の周りをゆっくりと回る。
完全に、自分を獲物と見做している。牙を首筋に突き立てるまでは、決してあきらめないだろう。
朝になれば扉は開く。そしたら、虎は外へ飛び出し、そのまま山へ逃げていくだろう。寺の誰かが襲われるかもしれないが、知ったことではない。むしろあのジジイは狩られろ。そうとも、朝までここにいればいい。ここまで登っては来れまい。
一休は自分の考えに頷いた。
だが、それは甘いとでも言うように、虎が柱へ飛びかかった。
ガリガリギギギガリ――木屑と埃が舞い、一休の鼻腔を刺す。虎はずりずりと下に落ちたが、きっと何度か繰り返せばコツを掴み、ここまで上がってくるだろう。
一休はぶるりと震え上がった。
何か、何か手はないか。あああ、あるはずがない……いや、肩に何か……そういえば、さっきから違和感が……。
一休はおそるおそる片手を伸ばした。すると、気づいた。
これは……縄だ! そうだ、さっきの小芝居のときの! 慌てていて気づかなかったのか……!
ならばと、本家ばりにとんちを利かせてやろう。一休は息を整えた。
ぽくちんちんちんちんちん……ちん!
閃いた。一休は縄を結び、輪っかを作った。
――さあ、この輪に……。
厳めしい爪音を立てながら、虎が迫る。もう息がかかる距離まで登り詰めてきていた。だが、一休は「ようやく来たか」とほくそ笑んだ。
――今だ!
一休は虎の首へ輪をかけ、飛び降りた。梁を滑車代わりに、自身の体重を使って虎を吊り上げる。
虎が暴れた。少しでも気を抜けば、一休の体のほうが逆に持ち上がってしまう。一休は息を止め、腕の血管浮き立て、必死に縄を引っ張った。
虎が唸る。爪が空を裂き、柱がみしみしと軋む。蔵全体が震えているようだった。
――大丈夫だ、首は完璧に絞まっている。ははは、ざまあみろ!
一休は歯を食いしばり、顔を真っ赤に染めながら、さらに力を込めた。
やがて、虎は痙攣をやめ、だらりと動かなくなった。
「はは、ははは……」
一休は笑った。声が掠れて出なくなるまで、虎を嘲笑い続けた。
――翌朝。
和尚が数名の弟子とともに蔵の前へやって来た。閂を引き抜き、扉を開ける。すると、思わず鼻と口を塞いだ。
一休の体から漏れ出した糞尿の臭いが、一斉に外へ解き放たれたからだ。
白目を剥き、舌をにゅるりと垂らして揺れる一休。その首からは一本の縄が天井へと伸びていた。
動揺する弟子たちに、和尚は静かに言った。
「……こやつは、己の暴力性に殺されたのよ」
一休――彼は、自分より弱い老人や女ばかりを狙い、暴行と窃盗を繰り返していた。他の者たちと同様、更生のためにこの寺へ送られたのだ。
蔵に足を踏み入れた和尚は、ふと床に落ちている布に気づいた。拾い上げ、屏風へ近づく。
そこには白目を剥いた虎が、ただ黙って正面を見据えていた。




