表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

127/705

少年の姉          :約3000文字 :霊

 夜、とある一軒家。そこそこの広さを持つその家の庭には、庭師が手入れをした松の木が影を落とし、椿の花が月明かりの下でぼんやりと浮かび上がっていた。

 お香の煙が四か所から立ち昇る和室。その中央に敷かれた座布団に、少年の姉が座っている。

 灯りは一本の蝋燭のみ。ゆらめく灯りに照らされ、艶を帯びた輪郭が闇の中に浮かんで見える。柄のない漆黒の着物に身を包み、普段は流している長い黒髪は、飾りがついた簪で優美に結い上げられていた。伏せた視線はどこか物憂げでありながら、色っぽさを滲ませていた。

 少年は廊下に膝をつき、わずかに開いた襖の隙間から、息を潜めて中を覗いていた。

 お香の煙が廊下に漏れ出て、ほんのりと香るが彼は気にしない。今、彼の頭を占めているのは姉のことだった。姉弟でありながら、顔立ちはそれほど似ていない。正確にはパーツの一つ一つは似ているが、配置や微妙な違いのせいで、少年の顔は平々凡々止まり。だが、それに対する劣等感も、姉への嫉妬心も、彼にはなかった。

 なぜなら、彼は知っているからだ。姉には、美人であるがゆえの厄介な悩みがつきまとっていることを。

 それはストーカー――ではあるが、もう少し異質なものだった。


 生霊である。


 姉のもとには毎晩のように生霊が現れるのだ。

 昔の同級生や、立ち寄った店の店員、道ですれ違っただけの誰か。少年の姉を一目見た者たちは、心の中に姉の姿を焼きつけ、思いを募らせていくことになる。そうして無意識のうちに想念を飛ばしてしまうのだ。

 それが姿を持ち、夜な夜な姉の前に現れる――生霊として。


 少年も幼い頃に何度もその生霊たちを目撃していた。夜中にトイレに行こうとして廊下を歩いたとき、不意に行く手に透明な何かが揺らめき、景色をかすかに歪ませる。

 部屋に戻って布団に潜り、震えながら朝を待った記憶が、まだ彼の中に色濃く残っている。 

 どれほど強い想いであっても、生霊として存在できる時間には限りがあるらしい。 だが、人を変え頻繁に現れるため、少年が恐怖することに変わりはなかった。

 しかし、ここ最近は姉が何らかの対処法を見つけたらしく、生霊の姿を目にすることもすっかり減っていた。


 ――その対処法っていうのが、“これ”か……。


 姉は決して見るなと言っていた。けれど、どうしても気になった少年は、こうしてこっそりと襖から覗き込んでいた。


 ――あっ。


 変化が起きた。少年が目を凝らす。

 お香の煙が、まるで風に巻かれたかのように揺らめき始めた。次第にその揺れは渦をなし、やがて、歪みの中から三人の男がぼんやりと浮かび上がった。

 少年はじっと彼らの顔を見つめた。

 一人はスーツ姿の会社員。おそらく通勤途中の駅か電車の中で姉を見かけたのだろう。もう一人は、眼鏡をかけた細身の男。エプロンからして書店の店員かもしれない。三人目はブレザーを着た高校生――いや、中学生。驚いたことにその顔に見覚えがあった。まさしく自分のクラスメイトの一人だったのだ。

 のっそりと佇む三人。虚ろな目をしているのに、姉の姿だけははっきりと追っていた。

 どうやら、あのお香が生霊をあぶり出すためのものらしい。さて、ここからだ。姉はどうやって彼らを祓うのか。拳を突き出して『破!』とでも叫ぶのだろうか? ……似つかわしくない。

 少年は不釣り合いな想像をして、思わず笑いそうになった。

 姉は、静かに立ち上がった。ふわりと着物の裾が揺れる。会社員の男の前まで歩み寄る。そして、ゆっくりと大きく口を開けた。

 深呼吸? 何かの準備だろうか。

 少年はそう考えたが、すぐに違うことに気づいた。

 吸っているのだ。

 空気を巻き込み、目の前の男の体をズズズッと吸い込んでいく。男はまるで空気の抜けた風船のようにしぼみ、腕や足をねじらせながら、あっという間に口の中へと消えていった。

 姉は同様に他の二人も吸い込んだ。そして、姉の顔には安堵と快楽が混じったような笑みが浮かんだ。頬はほんのり赤く、目は潤んでいる。艶やかな唇に人差し指を添える仕草に、少年は思わず息を呑んだ。


 ――これが、対処法? なんなら、美の秘訣とすら言えそうだ。ますます男たちを惹きつけることになりそうだけど……いや、それすらも姉の狙いなのかもしれない。 


 少年がそんなことを思った瞬間だった。

 目が合った。

 怒られる――そう思った少年は、慌てて襖から顔を引っ込め、尻もちをつくようにして後ずさった。背中が壁に沈む。すぐに、小さくもはっきりとした足音が近づいてきた。襖が開き、姉が姿を現す。

 少年を見下ろす姉。その表情は、薄暗い廊下の陰影に紛れてはっきりとは見えなかった。少年は身をすくめ、何も言い出せなかった。


「……どこにも行かないでね。逃がさないから……必ず」


 姉はぽつりとそれだけ言った。

 少年は小さく首を傾げた。

 僕が怖がって、この家を出て行くとでも思っているのだろうか。それはない。だって僕は姉さんのこと――。


 そのときだった。

 ふと、少年は廊下の奥、灯りの届かぬ暗がりへと目を向けた。

 込み上げてくる恐怖。それは幼い頃、夜の廊下で感じたあの感覚と同じ――違う、もっとずっと最近にも味わったような……。

 少年が横に視線を向けたことに気づいた姉も、廊下の奥をじっと見つめた。

 動いた――。

 のっそりと闇の中で影が近づいてくる。床をきしませながら。

 それは、生霊ではない。生きた男であった。

 その男の手には包丁。ゆらゆら揺れながら、次第に蝋燭の灯りに淡く染められていく。

 れは、さらに色濃く染まっていくだろう。血に塗れた包丁――そのイメージが鮮やかに脳裏に浮かび、少年の身体は突き動かされた。

 ふわりと、廊下に流れるお香の煙が舞い上がる。

 男の目の前に、少年の細い体が立ちはだかった。

 その瞬間、男が声を上げた。


「な、なんでお前が!」


 少年はぴたりと動きを止めた。違和感――だが、考えている余裕はなかった。

 次の瞬間、姉が動いた。長い髪を留めていた簪を引き抜く。それを構え、男の顔めがけて振りかぶった。

 絶叫が廊下に響き渡った。

 男の眼球に刺さった簪の飾りが揺れる。男はのたうち回りながら、ふらふらと廊下の奥へと走り去っていった。

 やがて、窓ガラスの割れる音が響いた。どうやら外へ逃げたらしい。男の怒号と泣き声。通行人の戸惑いの声が聞こえた。ほどなくして、誰かが警察へ通報するだろう。


 少年と姉は気が抜けたようにその場に腰を下ろした。

 二人は笑った。しばらくの間、笑い続けた。そして笑いが収まると、少年はぽつりと呟いた。


「ありがとう」 


 お香の煙が二人の足元を這う。少年は、自分の手足が煙と溶け合うような奇妙な感覚を抱いた。

 だが、恐れはなかった。

 和室の仏壇に置かれた、自分自身の写真を見つけても。

 白い煙が視界をゆっくりと覆っていっても。

 姉の笑顔さえ想っていれば。

 やがて、少年の意識は、まるで一本の細い糸を垂らす蜘蛛のように、静かにゆっくりと深い闇の底へと落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ