少年の姉 :約3000文字 :霊
夜、とある一軒家。そこそこの広さを持つその家の庭には、庭師が手入れをした松の木が影を落とし、椿の花が月明かりの下でぼんやりと浮かび上がっていた。
お香の煙が四か所から立ち昇る和室。その中央に敷かれた座布団に、少年の姉が座っている。
灯りは一本の蝋燭のみ。ゆらめく灯りに照らされ、艶を帯びた輪郭が闇の中に浮かんで見える。柄のない漆黒の着物に身を包み、普段は流している長い黒髪は、飾りがついた簪で優美に結い上げられていた。伏せた視線はどこか物憂げでありながら、色っぽさを滲ませていた。
少年は廊下に膝をつき、わずかに開いた襖の隙間から、息を潜めて中を覗いていた。
お香の煙が廊下に漏れ出て、ほんのりと香るが彼は気にしない。今、彼の頭を占めているのは姉のことだった。姉弟でありながら、顔立ちはそれほど似ていない。正確にはパーツの一つ一つは似ているが、配置や微妙な違いのせいで、少年の顔は平々凡々止まり。だが、それに対する劣等感も、姉への嫉妬心も、彼にはなかった。
なぜなら、彼は知っているからだ。姉には、美人であるがゆえの厄介な悩みがつきまとっていることを。
それはストーカー――ではあるが、もう少し異質なものだった。
生霊である。
姉のもとには毎晩のように生霊が現れるのだ。
昔の同級生や、立ち寄った店の店員、道ですれ違っただけの誰か。少年の姉を一目見た者たちは、心の中に姉の姿を焼きつけ、思いを募らせていくことになる。そうして無意識のうちに想念を飛ばしてしまうのだ。
それが姿を持ち、夜な夜な姉の前に現れる――生霊として。
少年も幼い頃に何度もその生霊たちを目撃していた。夜中にトイレに行こうとして廊下を歩いたとき、不意に行く手に透明な何かが揺らめき、景色をかすかに歪ませる。
部屋に戻って布団に潜り、震えながら朝を待った記憶が、まだ彼の中に色濃く残っている。
どれほど強い想いであっても、生霊として存在できる時間には限りがあるらしい。 だが、人を変え頻繁に現れるため、少年が恐怖することに変わりはなかった。
しかし、ここ最近は姉が何らかの対処法を見つけたらしく、生霊の姿を目にすることもすっかり減っていた。
――その対処法っていうのが、“これ”か……。
姉は決して見るなと言っていた。けれど、どうしても気になった少年は、こうしてこっそりと襖から覗き込んでいた。
――あっ。
変化が起きた。少年が目を凝らす。
お香の煙が、まるで風に巻かれたかのように揺らめき始めた。次第にその揺れは渦をなし、やがて、歪みの中から三人の男がぼんやりと浮かび上がった。
少年はじっと彼らの顔を見つめた。
一人はスーツ姿の会社員。おそらく通勤途中の駅か電車の中で姉を見かけたのだろう。もう一人は、眼鏡をかけた細身の男。エプロンからして書店の店員かもしれない。三人目はブレザーを着た高校生――いや、中学生。驚いたことにその顔に見覚えがあった。まさしく自分のクラスメイトの一人だったのだ。
のっそりと佇む三人。虚ろな目をしているのに、姉の姿だけははっきりと追っていた。
どうやら、あのお香が生霊をあぶり出すためのものらしい。さて、ここからだ。姉はどうやって彼らを祓うのか。拳を突き出して『破!』とでも叫ぶのだろうか? ……似つかわしくない。
少年は不釣り合いな想像をして、思わず笑いそうになった。
姉は、静かに立ち上がった。ふわりと着物の裾が揺れる。会社員の男の前まで歩み寄る。そして、ゆっくりと大きく口を開けた。
深呼吸? 何かの準備だろうか。
少年はそう考えたが、すぐに違うことに気づいた。
吸っているのだ。
空気を巻き込み、目の前の男の体をズズズッと吸い込んでいく。男はまるで空気の抜けた風船のようにしぼみ、腕や足をねじらせながら、あっという間に口の中へと消えていった。
姉は同様に他の二人も吸い込んだ。そして、姉の顔には安堵と快楽が混じったような笑みが浮かんだ。頬はほんのり赤く、目は潤んでいる。艶やかな唇に人差し指を添える仕草に、少年は思わず息を呑んだ。
――これが、対処法? なんなら、美の秘訣とすら言えそうだ。ますます男たちを惹きつけることになりそうだけど……いや、それすらも姉の狙いなのかもしれない。
少年がそんなことを思った瞬間だった。
目が合った。
怒られる――そう思った少年は、慌てて襖から顔を引っ込め、尻もちをつくようにして後ずさった。背中が壁に沈む。すぐに、小さくもはっきりとした足音が近づいてきた。襖が開き、姉が姿を現す。
少年を見下ろす姉。その表情は、薄暗い廊下の陰影に紛れてはっきりとは見えなかった。少年は身をすくめ、何も言い出せなかった。
「……どこにも行かないでね。逃がさないから……必ず」
姉はぽつりとそれだけ言った。
少年は小さく首を傾げた。
僕が怖がって、この家を出て行くとでも思っているのだろうか。それはない。だって僕は姉さんのこと――。
そのときだった。
ふと、少年は廊下の奥、灯りの届かぬ暗がりへと目を向けた。
込み上げてくる恐怖。それは幼い頃、夜の廊下で感じたあの感覚と同じ――違う、もっとずっと最近にも味わったような……。
少年が横に視線を向けたことに気づいた姉も、廊下の奥をじっと見つめた。
動いた――。
のっそりと闇の中で影が近づいてくる。床をきしませながら。
それは、生霊ではない。生きた男であった。
その男の手には包丁。ゆらゆら揺れながら、次第に蝋燭の灯りに淡く染められていく。
れは、さらに色濃く染まっていくだろう。血に塗れた包丁――そのイメージが鮮やかに脳裏に浮かび、少年の身体は突き動かされた。
ふわりと、廊下に流れるお香の煙が舞い上がる。
男の目の前に、少年の細い体が立ちはだかった。
その瞬間、男が声を上げた。
「な、なんでお前が!」
少年はぴたりと動きを止めた。違和感――だが、考えている余裕はなかった。
次の瞬間、姉が動いた。長い髪を留めていた簪を引き抜く。それを構え、男の顔めがけて振りかぶった。
絶叫が廊下に響き渡った。
男の眼球に刺さった簪の飾りが揺れる。男はのたうち回りながら、ふらふらと廊下の奥へと走り去っていった。
やがて、窓ガラスの割れる音が響いた。どうやら外へ逃げたらしい。男の怒号と泣き声。通行人の戸惑いの声が聞こえた。ほどなくして、誰かが警察へ通報するだろう。
少年と姉は気が抜けたようにその場に腰を下ろした。
二人は笑った。しばらくの間、笑い続けた。そして笑いが収まると、少年はぽつりと呟いた。
「ありがとう」
お香の煙が二人の足元を這う。少年は、自分の手足が煙と溶け合うような奇妙な感覚を抱いた。
だが、恐れはなかった。
和室の仏壇に置かれた、自分自身の写真を見つけても。
白い煙が視界をゆっくりと覆っていっても。
姉の笑顔さえ想っていれば。
やがて、少年の意識は、まるで一本の細い糸を垂らす蜘蛛のように、静かにゆっくりと深い闇の底へと落ちていった。




