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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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蚊帳の外から        :約3000文字

 ――オーイ! ッオーイ!


 ……なんだ? 真夜中。ジョギング中に、場違いな声が耳に飛び込み、私は思わず足を止めた。

 まるで青空の下での少年野球の試合で響く掛け声のような、元気いっぱいの声。どこか懐かしい響きがあった。

 たしか、このあたりの公園の隣に緑のネットで囲われた小さな野球場があったはずだ。

 だが、家を出たのは十時過ぎ。今はもう十一時を回っているだろう。

 こんな時間まで練習? いや、いくらなんでも遅すぎる。それとも試合か? 延長戦? でも、親はどうしているんだ?

 私は気になり、その野球場へ向かうことにした。


 すると――やっていた。照明は落ちて、真っ暗闇の中、緑色のネットの中で、ぼやっといくつか白いものが動いていた。

 一瞬、ぞくりと背筋に冷たいものが走ったが、すぐにそれが少年たちの白いユニフォームだと気づいた。

 靴下と靴が黒いせいで、闇の中では足元が消え、宙に浮いているようだった。

 ネットの外には、一人の女性が立っていた。じっと中を見つめている。きっと、あの中の誰かの母親だろう。一人だけなのかと思ったが、目を凝らすと反対側にももう一人、人影が見えた。暗いからよく見えないが、たぶん他にもいるのだろう。

 せっかくだから、私もネットのそばへ歩み寄り、試合を眺めることにした。


 カキーン! と白球を弾く乾いた打球音が闇夜に心地よく響く。私は野球の経験はないが、こうして見るのは意外と楽しいものだ。深夜だからというのもあるのかもしれない。プロ野球も、たまにはこうした時間帯に試合するのも面白いのではないか。


「あの……」


「えっ、あ、はい……」 


 しばらく眺めていると、先ほどの女性が声をかけてきた。不審者と思われたかと一瞬身構えたが、そうではなかった。

 話を聞くと、今日の試合は、チームメイトのために特別に行われているとのことだった。野球大会中、その少年は手術で参加できなかったのだという。言われてみれば、ユニフォームが一種類だけだ。レギュラーだけでなく、普段ベンチの子たちも混ざっているようだ。

 たぶん、あの一番小柄で細身の少年だ。彼を激励するために、こうして試合を行っているのか。しかし、体力は大丈夫なのかと、他人事ながら少しハラハラしてしまう。

 私は「部外者が見ていてもいいのか」と訊ねると、女性は「ぜひ一緒に見てほしい」と言った。「うちの子のために、みんなが集まってくれた」と言っていたことから、彼女がその少年の母親らしい。なるほど、気苦労が絶えないのだろう、少々老けて見えた。むろん、それを口に出すほど私は無神経ではない。

 私はその母親と並んで、黙って少年たちの試合に見入った。

 闇夜の中、白球が静かに弧を描き、少年たちは全力で追いかける。この暗さの中で、よくもまあ正確にボールの動きを捉えられるものだと、少し感心した。日々の練習の賜物なのだろう。一人ひとりが眩しく見えた。


 バッターボックスに、一番背の高い少年が立った瞬間、空気が変わった。

 隣の母親が祈るように手を合わせている。おそらく、彼がチームの主砲なのだろう。試合は今、同点だ。ここが勝負の分かれ目なのかもしれない。それを裏付けるかのように、両チームの選手たちが声を張り上げた。


 一球目……ストライク。

 二球目……打った! ……が、ファール。

 三球目……ストラ――いや、これはボールか。


 緊張の空気が、こちらまでじわじわと染み込んでくる。ピッチャーの少年の息遣い、鼓動までもが聞こえる気がした。

 ふと、自分の手を見ると、いつの間にか拳を強く握りしめていた。


 そして、四球目……打った! ボールが……ネットに当たった。当たった!

 高く、勢いよく上がったボールは、ぐんぐんと伸びていき、やがてネットの上部にぶつかって跳ね返った。それは、誰もが納得する完璧な一撃――文句なしのホームランだった。

 私と母親は拍手で打者の少年を称えた。少年は私たちのほうを振り向き、ガッツポーズを見せた。


「ありがとうございましたー!」


 試合を終えた少年たちは列を作り、礼をしてから顔を上げた。その顔には弾けるような笑みが浮かび、すぐさまワチャワチャと混ざり合った。お互いの体を叩き、健闘を称え合う。きっとそれは、手術を控える少年への激励も込められているのだろう。

 私は小柄な少年の姿を探しながら、隣の母親に声をかけた。


「手術、成功するように祈っています」


「……それはもう、大丈夫です。それより、一緒に見てくださってありがとうございました。私たちだけじゃ、不安で……でも、おかげでほら、成仏できたようです」


 ――成仏? 


 いったい何を言っているのか……あっ。

 私は少年たちのほうへ視線を戻した。すると、そこにあの小柄な少年の姿はなかった。それどころか、他の少年たちの姿も消えていた。

 残っていたのは、たった一人。あのホームランを打った長身の少年だけだった。

 少年はネットから出て、ゆっくりと私たちのもとへ歩いてきた。


「……終わったよ、母さん」


 その声は震え、涙が混じっていた。


 成仏……少年野球チーム……。

 私の脳裏に、ふと昔目にしたニュースが甦った。

 数年前、地元の少年野球チームを乗せたバスが事故を起こし、監督以外の全員が死亡した。

 この少年は――あるいは青年と呼ぶべきか――手術のために入院しており、大会には出られなかった。だからこそ助かった。そして今夜、親子は亡くなった仲間たちの心残りを晴らすために、この場所で試合を行っていた。もっとも、そこに至るまでの経緯はあったのだろうが、話の大筋は間違っていないはずだ。

 私はどうやら、母親の説明を聞き間違え、自分が納得できるように話を挿げ替えていたようだ。だが、そうと分かれば、これは心温まる感動的な話――なのだろうか……。


 母親と少年が私に手を差し出してきた。

 私は一瞬ためらったが、結局は応じた。ある煮え切らない思いがあった――それを口にするほど無粋ではない。だが……。

 握手が終わると、親子は深く一礼し、静かにその場を去っていった。

 彼らの記憶の中には、いつまでも素晴らしいチームメイトとの日々が生き続けるのだろう。今日という夜も、その記憶の箱の中に大切な色としてそっと収められる。そして時折見返し、思い出に浸るのだ。



 ……事故の直前、バスとすれ違った対向車の運転手の話によれば、車内では少年たちがひどく騒いでいたらしい。窓から身を乗り出す者もいたそうだ。

 奇跡的に助かった監督に対して、『なぜ注意しなかったのか』『事故は防げなかったのか』という非難の声もあった。しかし、監督は『そんな事実はない』『原因は運転手の操作ミスだった』と、涙ながらに訴え、やがてその声は退いた。監督が地元の権力者と懇意にしているのは、それと関係があるのか。私にはわからない。


 だが、私は思う。きっと彼らは、試合の勝利に浮かれていたのだ。少年たちも、監督も。

 もしかしたら、車内でキャッチボールでもしていたのかもしれない。

 そして、それが――。


 グラウンドに一つだけ残された白球。

 闇の中でぼんやりと浮かび上がるそれは、魂のようだ。

 そして、その向こう。

 緑のネットの外で、バスの運転手らしき男が、じっとそのボールを見つめていた。

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