キスをして :約1500文字
とある神社。敷き詰められた白い砂利が太陽の光を反射して、まばゆく輝いている。
小さな池には短い橋が架かっており、その中央に、女がひとりしゃがみ込んでいた。水面を眺めていると、何匹もの鯉が彼女の気配に気づき、パクパクと口を開きながら集まってきた。餌をねだり、色とりどりの鱗を揺らして水面を賑やかに波立たせる。
「ごめんね。何も持ってないんだ」
彼女は小さく呟いた当然、言葉が通じるはずもなく、鯉たちは健気にアピールを続けた。その様子に申し訳なさを感じると同時に、微笑ましく思い、彼女はフフッと笑った。
良い午後だった。まどろむような陽気に包まれ、空気は澄み、鳥のさえずりが遠くから聞こえる。自然の中に身を置いていると、心の澱がすうっと溶けていくようだった。
ここはそう、パワースポットのよう――いや、凄まじいパワーだ。
一匹の鯉がスーッと近づいてきたかと思うと、尾で周囲の鯉たちを蹴散らし始めたのだ。
「な、何? 縄張り?」
彼女は驚いて一歩後ずさった。そのとき、誰かが甘い、ただし、絞り出すような声で言った。
「ねえ、キスしてくれなあい?」
「えっ……」
彼女は思わず辺りを見回した。だが、誰もいない。そうしなくてもわかっていた。ただ、そう簡単に認められなかったのだ。まさか、目の前の鯉が喋ったなんて。
「今、君に話しかけているのは、僕さあ」
彼女は声も出せずに、ただただその鯉を見つめた。これは現実? 夢? 戸惑う彼女。鯉はお構いなしに語り始めた。
自分はある国の王子で、邪悪な魔女に魔法をかけられ、こんな鯉の姿にされてしまったのだという。元の姿に戻る方法はただ一つ。誰かとキスすることだった――。
王子に魔女。どこかで聞いたような話だ。信じがたいことではあるが、実際に鯉が喋っているのだから、むしろ納得できる理由であった。しかし……。
「……じゃあ、確かあっちにお婆さんがいたから頼んでくるね」
「それはダメだ! ダメダメッ!」
鯉は突然怒り出し、水面を尾でバシャバシャと激しく叩いた。水しぶきが飛び、彼女はサッと身を引いた。鯉のその必死すぎる様子を見て、彼女の疑念はますます膨れ上がった。
……この鯉、どうにも顔がヤラシイのだ。
「キスしてくれよお」
ニヤつく鯉。『ウヒウヒ』、この擬態語がこれ以上なくしっくりきた。彼女は眉をひそめ、訊ねた。
「……あなた、本当に王子なの?」
「正真正銘の王子さ! 疑うなんてひどいよお!」
元に戻った暁には、彼女を国に招き、結婚もするという。
――うさんくさいけど……まあ一瞬だけだし、いっか……。
彼女は覚悟を決め、鯉を両手で掴み上げ、顔の前に持っていった。
「あ、長めでお願いね」
――黙れ。
彼女は目を閉じ、キスと言うにはあまりにも短い。ボクサーのジャブのように『シュッ!』と唇に触れ、すぐに離した。
それでも、十分だったようだ。鯉の体がパァーと輝き始めた。
「え、待って、嘘! まさか本当に!?」
彼女は慌てて鯉を池に放り投げた。ブクブクゴポゴポ……と水面が泡立った。そして、水柱が上がり、現れたのは――。
――意外にも、ちゃんとした王子!
彼女は目を見張った。金髪に整った顔立ち、若く引き締まった肉体。たくましい肩と胸板が、水を滴らせながら輝いていた。
ただ、全裸なのが気になるところだが、仕方ないのだろう。
彼女は立ち上がり、その姿をまじまじと見つめた。手で口を覆うが、笑みは隠しきれない。その脳裏には、華やかな生活が浮かんでいた。絢爛な宮殿、豪華なドレス、宝石、玉の輿――。
爽やかに礼を述べる、王子。
微笑む彼女。
近くを飛んでいたトンボを捕まえ、口に放り込む王子。
顔が引きつる彼女。
笑いながら、池に向かって豪快に糞尿を垂れ流す王子。
そう、彼は鯉として、あまりにも長く生きすぎていたのだ。
彼女は黙って靴紐をギュッと結び直し、王子に背を向けると、シンデレラのごとく逃げ出したのであった。




