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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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即身仏           :約2000文字

 ……肩と首、顔まで凝った気がする。退屈が顔に出ないようにと、変に力を入れていたせいだろう。

 ろくに仕事をもらえないおれが、この寺の取材を任されたのはいいが、どうもこういう堅苦しい場所は肌に合わない。根っからの不真面目体質なのだろう。もっとも、坊主が全員真面目だとは思っていないのだが……っと、危ない危ない。また顔に出るところだった。


 寺の長い廊下。前を歩いていた坊主がふと立ち止まり、振り返って微笑む。男は慌てて顔の体操をやめ、微笑み返した。

 ちょうどそのとき、男はふと気になり、訊ねた。


「あの部屋は?」


 坊主はここまで寺のあちこちを丁寧に案内してくれていたのに、その扉だけを何の説明もなく素通りしたのだ。

 思わず訊ねた男の声に、坊主の表情がわずかに曇った。取材対応という義務感と、何か別のものを天秤にかけるような逡巡の末、坊主は口を開いた。


「こちらは……即身仏が眠る部屋でございます」


「と、いうと自らミイラになった方の……」


「ええ、そうです。ですが……」


 坊主は口を濁した。神聖な存在ゆえ、軽々しく見せたくないのだろう。テレビならまだしも、所詮は雑誌の取材だ。古びた両開きの木の扉には太い閂が渡され、年月を感じさせる重々しさが漂っていた。


「大丈夫です。見せてくれなんて無理は言いませんよ。でも、いつの時代の方なんです?」


「今から百数十年ほど前の方です。即身仏が法律で禁じられる以前の……でも……」


 ――チリン。


 鈴の音が聞こえた。

 その瞬間、坊主の顔がさっと青ざめた。


「今の音……この部屋から?」


「知りません知りません!」


 坊主は突然背を向け、逃げるように足早に去っていった。男は追うことなく、その背を見送る。坊主は一度も振り返らず、角を曲がった。

 男はそのまま少し待つことにした。頭の中には先ほどの鈴の音が残っている。

 鈴……たしか、修行中の僧が、生きていることを知らせるためのものだったはずだ息をしていれば鳴り、鳴らなくなれば仏になったという証。

 では、さっきのは……いや、まさかな。聞き間違いだ。ネズミか何か、それか家鳴りだろう。


 しばらく経っても、坊主は戻ってこなかった。男はため息をつき、扉を見つめた。


「あとはご自由に見てどうぞ……ってことで」


 男は一度手を合わせ、そっと閂に手をかけた。ジャーナリズム精神というより、ただの個人的な好奇心だった。

 重みのある木製のそれを引き抜くと、土煙のように埃が舞った。

 閂をそっと壁に立てかけ、扉に手をかける。内開きだった。

 ギギギ……と音を立て、わずかに開いた隙間から一筋の光が伸び、部屋の闇を裂いていく。

 一瞬、床の上で何かがきらりと光った。


 ――鈴か?


 男はそう思い、目を凝らそうとした。だが一呼吸した途端、思わず身を捩って手を引き、鼻と口を覆った。

 凄まじい匂いであった。長年溜め込まれていた臭気が、一気にあふれ出たのだ。

 カビ、アンモニア、腐臭――それらすべてが入り混じった悪臭。臭いというより、痛い。皮膚が爛れていくような感覚が体を奔った。悪臭が鼻から体内を駆け巡り、臓腑までをも腐らせる、そんな想像が男の脳裏をよぎった。

 男はよろめくように一歩、扉から後ずさった。扉はきしりながら、ゆっくりと閉まっていく。逃げるように光の筋が細くなり、やがて消えた。その向こうには、何も見えなかった。

 だが、男は確かに聞いた。咳き込みながらも、はっきりとその耳で。


 ――ズズズ。


 何かが、床にこすれる音。

 爪で木の床を引っかくような音。

 それはこちらへ――扉のほうへ近づいてくる。


 扉が完全に閉まると、あの壮絶な匂いはすっと消えた。

 だが、音は今も聞こえている。ただそれは、扉の内側からではなく――。


 ――ガリ、ガリガリガリガリガリ……。


 男の耳の奥、鼓膜の向こう。さらに深く、脳や骨を通じて内側から響くようであった。

 ここから出してくれと引っかくように。


 ――チリン。


 削られる。あるいは内側から自身が食われていく感覚に男は悶えた。

 ただ、その苦痛の中、先ほど耳にした鈴の音だけはやけに美しく、澄んでいた。そして、それこそが男が再び扉に手を伸ばす理由となった。


 扉は閉ざされた。脇に置かれた閂は、いずれ通りがかった坊主が戻すだろう。

 扉の奥から鳴り響く、鈴の音に耐えながら――。

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