卵を貴方に :約4000文字
その男は、ソファに仰向けになり、ぼんやりと天井を眺めていた。
理由は一つ――退屈だからだ。彼が営む探偵事務所には、月にせいぜい二件程度しか依頼が来ない。しかもそのほとんどが浮気調査か、ペットの捜索。泥臭く、冴えない仕事ばかりだ。
そんなものでは食っていけるはずもなく、貯金を細々と切り崩しながら、たまに日雇い現場で汗を流して凌ぐ日々。理想と現実の距離を思うと、時々膝が笑う。
――手持ち無沙汰だな。
スーパーボールでも買うか。天井の、あそこのシミを的にして……。いや、ダーツでもいいな……などと探偵らしからぬ思考が脳内で跳ねる。
いかんな。そんな無駄働きをする悪い脳は、酒にでも漬け込んで大人しくさせてやろう。いい味が出るだろうしな。うん、そうしよう。
そうと決まれば、と彼は机の引き出しにしまってあるウイスキーの小瓶を取りに行こうと、体を起こそうとした。
そのときだった。
突然、事務所のドアが勢いよく開いた。
彼は寝そべったまま、顔を少し傾け、ドアのほうへ視線を向けた。
――女か。
――薄いピンク色のショートヘア。
――小柄。
――胸は中々。
――顔は上々。
――依頼者かな……依頼者!
スイッチを入れるように、即座に脳をフル回転させた。身体も連動し、スクッと立ち上がる。彼は顔を引き締め、営業スマイルを浮かべた。
「ふぃらっしゃい。どのようなご依頼を……」
噛んだ。そこそこ頭の切れる探偵でも、急な立ち上がりに中年の舌が追いつかなかったらしい。
「ふっ、ふふ……」
女が吹き出す。それにつられて、彼も苦笑いを浮かべた。
「はー、久しぶりだねっ」
笑い疲れたように息を吐いたあと、女が言った。
久しぶり……? 誰だ。まったく記憶にないが……顔に出すのはまずい。信用にも関わる。
彼はそう思ったが――
「覚えてないんだ……」
もう手遅れだった。女の表情がむくれたのを見て、彼は慌てて拝むように手を合わせた。
女はカナエと名乗った。どうやら、昔助けたらしい。彼はまったく覚えていなかったが、カナエがまだ小さかった頃の話かもしれない。それなら、見覚えがなくても無理はない。女性という生き物は、時間が経つと驚くほど変わるものだ。本当に、目を見張るものが……。
「どこを見て、何を考えてるの?」
カナエはむくれた顔で、自分の胸元を両腕で覆った。彼は視線を逸らし、小さく咳払いをして、何の用で来たのか訊ねた。
「実は……恩返しに来ました!」
恩返し。まるで昔話のようなセリフだ。狐か鶴か、それとも白鷺、いや結婚詐欺なら赤サギか……。
彼は顎ヒゲを指先で撫でながら、訝しがった。その様子を見透かしたのか、カナエが上目遣いで続けた。
「いやー、ちょっと住む場所に困ってて……」
なるほど、そんなことか。じゃあ、不動産屋でも紹介してやるか。と、彼が思ったところで――
「ここに住んでもいい……?」
カナエは、まるで子猫のように遠慮がちに言った。ただ、どこか若い女らしく、自分の可愛さをよく理解しているようだった。
ここは探偵事務所兼住居だ。二人で暮らすには狭いし、金もない。てもじゃないが、一人増やして養える状況ではない。
彼はそう説明して断ろうとしたが、カナエは家賃は半分出すし、生活費も手伝うと言ってきた。
虫のいい話だ。裏があるに決まっている。だが、家賃折半は魅力的だ。それに、狙いがあるなら見破ればいい。それが探偵というものだ。
彼は胸を張り、ニヤッと笑って承諾した。
カナエは仕事を呼び込む幸運の女神……とまではいかなかったが、寂れた事務所にちょっとした華を添える存在になった。
その効果か、依頼はわずかに増えた。相変わらず日雇いの労働は続けていたが、カナエが弁当を作ってくれたり、家の掃除をしてくれたりと、生活は格段に快適になった。
――結局、鶴の恩返しみたいになったな。
そんなことを思い、彼はふっと笑った。
ある日のことだった。
彼が帰宅すると、浴室からシャワーの音が聞こえた。どこか耳に心地よく、惹かれる音だったが、覗こうとは思わない。いや、思いはするが、その辺の一線はきちんと守るつもりだ。
寝室に入り、部屋干しのシャツを何枚か回収する。
この寝室は、今やカナエの部屋だ。彼はというと、ソファで寝起きしているが、別に不満はない。あのソファはそこそこ金をかけただけあって、寝心地がいいのだ。
とはいえ、やはりベッドには敵わない。久々に寝転びたい衝動に駆られ、彼はそっとベッドに身を預けた。
クシャ――。
鈍く柔らかい音がした。
――これは……卵か。
彼が眉をひそめ、掛け布団をめくると、そこには四つの卵が並んでいた。大きさと形状からして鶏の卵だろう。それが三つ、ひびが入り、一つはぬるりと潰れている。
白身がじんわりとシーツに染み込み、湿り気が淡く広がっていく。
卵好きなのは普段の料理のレパートリーからもわかるが、なぜベッドに? まさか、孵化させようとしていたのか? はっ、馬鹿な。まあ、そう言ったとしても不思議ではないが。
彼はふふっと笑った。
――それはそうと、もったいないな。
貧乏性というか、生活の癖というべきか。彼は慎重に卵を掬い取り、キッチンへ運んだ。フライパンに落とし、殻を丁寧に取り除いていく。残りの卵も持ってきて、殻を割り、フライパンに次々と落とした。
――焼けば問題ない。
コンロのスイッチを入れる。油を垂らし、少しするとジュッと静かな部屋に音が弾ける。
目玉焼きか、それとも卵焼きか。さて、どっちにするか……。
「あ、卵!」
声がして振り向くと、そこにはバスタオル一枚の姿のカナエが立っていた。
肩にかかる濡れた髪が、水滴となって鎖骨のくぼみを伝い、ゆっくりと谷間へと落ちていく。その動きに彼は思わず目が釘付けになった。
肌は艶やかに光をまとい、白磁のようにほのかに透ける。頬には火照ったような薄紅。風呂上がりの香りが湯気とともに漂い、彼の鼻腔へと流れ込んでくる。
彼は、そっとコンロの火を弱くし、事の顛末を簡単に説明した。だが、『なぜベッドに卵を?』とは訊かなかった。いや、訊けなかった。聞こうという思考そのものが、消えていた。
今この瞬間、彼の頭の中にはカナエのことしかなかった。滴る髪の先。上気した表情。柔らかな脚線。澄んだ声。視覚から体の柔らかさが伝わってくる。嗅覚が彼の理性をじんわりと溶かしていく。
――ああ、おれはもうずっと前からカナエに惚れていたんだ。
「そっか……それなら、しょうがないね」
説明を聞き終えたカナエはそっと微笑んだ。その笑みを見た瞬間、彼は思わずカナエの手を取った。カナエは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに優しく握り返し、また微笑んだ。
そして、翌朝――。
彼が目を覚ますと、隣にはカナエの白い背中があった。
まだ眠っているらしい。呼吸は穏やかで、肩がかすかに上下している。彼はそっと指先で、その背中をなぞった。滑らかで、陶器のような白さ。カーテン越しの陽光が、カナエの背に柔らかな影を落とす。
昨晩のことを思い出すと、わずかだが、また感情が昂った。まさに獣。狼男だな――彼は自嘲気味に笑った。手を見つめるとカナエの柔らかな乳房の感触を思い出す。嬌声と腰のうねりも。
彼は再びカナエの背中を見つめ、ふっと笑った。
――朝食でも作ってやろう。ベッドで一緒に食べるのもいいな。
無防備な姿に、自然と庇護欲が湧いた。彼はゆっくりと体を起こした。
クシャ――。
足元で、あの音がした。そして、ぬるりと広がる湿り気が足に伝わった。
――まさか、またか? だが、なぜ……。
彼はゆっくりと、掛け布団を下から上にまくり始めた。
カナエの白く美しい足が露わになっていく。そして、ゴロリと転がる白い卵――それが八つ。
ほんのわずかに、ぬめりを帯びているように見えた。
彼はただただ茫然とその光景を見つめた。
――まさか……産んだのか? じゃあ今までの卵も……。
思考がぐらりと揺れたその瞬間、彼は口を押さえた。
込み上げてくる胃液を必死で押し戻す。代わりに、喉が焼けるように痛んだ。
ヤカンが沸騰するように、思考が煮え立つ。
――なぜ、食べさせた?
――自分の子供では?
――いらなかった?
――孵らないのか?
――無精卵……無精卵!
彼はカナエの背中を見つめた。
まだ眠っている。完璧な肌だ。白く、キメの整った、ニキビやシミ一つ見当たらない。まるで造られたかのような。見つめていると、自分の背中を指で撫でられたような、ぞわりとした感覚に襲われた。
鶴の恩返し――彼は唐突にその昔話を思い出した。
カナエが言っていた「助けてもらった」という話に、やはり覚えがない。あれは、ただの口実だったのか?
恩返しのために人の姿を借りて現れた鶴……。確かに、健気で聞こえはいい。物語の鶴はそのつもりだったのだろうが、擬態とは、敵の目を欺くためのもの。それと、捕食のため。あるいは――。
彼は卵をそっと手に取り、耳に当てた。
聞こえたのは、おぞましく蠢く命の脈動。
そして、ピキ……と、細くヒビが入る音。
それがカナエの背から聞こえたのか、卵からだったのか――彼にはもう判別がつかなかった。
シーツがかすかに擦れる音がした。
彼の世界がまた一つ、そしてまた一つと、音を立てて崩れていく。




