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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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母の妊娠          :約3000文字

 母が妊娠した。


 まぶたを閉じた瞬間、脳裏に浮かんだその言葉に、幸恵は乾いた唇をぎゅっと噛み締めた。

 ありえないことだ。だが実際に起きた。起きてしまった。

 経過は順調――と医師は言った。幸恵は振り返らず、背中に意識を集中させる。つい先ほど、後ろの診察室のドアの向こうで、医者が「これは奇跡ですよ!」と興奮気味に言っていたのを思い出す。


 ――でも、これは悪い意味での奇跡ではないだろうか。少なくとも私には、これが良いことだとは思えない。


 幸恵は唾を呑み込んだ。乾いて痛む喉にへばりつきながら、それは重たく落ちていった。

 目を開け、ロビーに向かって歩き出すも、心ここにあらず。足取りに実感がなかった。考えるのは母の妊娠、それにまつわる問題だけだった。


 母は……いや、もう長い間「お母さん」とは呼んでいなかった。娘に合わせて、自然と「おばあちゃん」と呼ぶようになっていた。そう、母はもう八十代半ば。この病院に転院するまでは介護施設で暮らしていた。

 なのに、妊娠――どうしてそんなことに? 相手は? 

 母の口から妊娠の事実を聞いた瞬間、私は自分でも驚くほど容赦なく、次々と疑問をぶつけた。きっと、血を分けた娘だからこそできたことだ。他人だったら、こうも根掘り葉掘り聞けなかっただろう。


 ――いや、これが他人事だったらどれだけよかったか……。


 幸恵はまた唇を噛んだ。皮がめくれそうなほど、力強く。


 母の相手は、同じ介護施設に入居していた老人で、しかも母の高校時代の同級生だった。昔から母に好意を抱いていたらしい。それを告げられた母は何を思ったのか、受け入れてしまった。

 その男はすでに他界しており、相手の家族はこの件を知り、ただただ困惑しているらしい。……母の妄言ではないかと疑っているという噂も耳にした。とにかく、彼らは関わりたくないそうだ。

 でも、こちらも責めるつもりはない。訴えるだなんだと揉める元気もないし、関わりたくないという気持ちもわかる。

 母が今になって妊娠を打ち明けたのは、相手の遺産をめぐる手続きはすべて終わったあとであることと、お腹の膨らみが隠しきれない段階に入ったからだ。

 ……そう、あのお腹がなければ、悪い冗談や勘違い、妄言だと思えたかもしれない。


 幸恵は、ベッドに横たわりながら、ふっくらと膨らんだ腹を撫でていた母の姿を思い出した。再び、胸の奥から言いようのない感情が這い上がってきた。


 ……私も、もうすぐ六十になるというのに。この歳で弟か妹ができるだなんて。

 一人っ子だった子供時代には、それを夢見たこともあったかもしれない。でも、遥か昔の話だ。何も今になって……。そもそも、無事に産むことができるのだろうか。そう、母のあの様子を見る限り、産む気でいる。

 その男をそこまで愛していたの? 

 二人の営みを想像し、吐き気がこみ上げてくるのは老人だからなのか、それとも実の母だからなのか……。

 本当にその男が相手だったのだろうか。そもそも、やっぱり……いや、医者が断言したんだ。私はただ信じたくないだけ。想像妊娠という言葉を、ネットで何度検索したことか。

 妊娠したという現実を認めるための簡単な方法がある。「今、赤ちゃんがお腹を蹴ったわ」という母に寄り添い、「触らせて」とにっこり笑えばいいだけ。最近じゃ、その手にすら触れていないが。

 年を重ねるごとに、思考も行動も奔放になった母。今は、あの無邪気さがどうしても癪に障る。

 私は認めたくない。産むなんてことを……。


 ロビーにたどり着いた幸恵は、出入り口の近くに並ぶベンチの一つに静かに腰を下ろした。

 喉の渇きと手持ち無沙汰を理由に、自販機で缶コーヒーを買ってみたものの、蓋を開ける気にはならなかった。

 視線を落とし、自分の膝を見ているうちに、まぶたが重くなってきた。眠りに引きずり込まれていく感覚があったが、幸恵は抵抗する気にはならなかった。

 ただただ願った。目が覚めたとき、すべてが夢でありますように、と。


 幸恵のその願いは叶った――そう言えなくもない。まぶたを閉じたまま、季節は秋から冬へ。そして翌年の春へと静かに移ろい、幸恵の母はその春に亡くなった。


 ――あの子を産むことは、母の夢で終わった。


 葬儀場の一室。安置された母を、幸恵は黙って見下ろしていた。

 それは寿命だったのか、妊娠によって体力を削られたのか、あるいは周囲の反応による気疲れか――母が死んだ理由は曖昧なまま。

 お腹も膨らんだまま。芽吹くことなく、この腹の子も母とともに荼毘に付される。この子を憎むべきか、それとも慈しむべきか。

 その判断を、幸恵はまだ下せずにいた。

 幸恵はそっと母の手を取った。少し冷たく、ゴムのような感触だった。おそらく、エアコンの冷気のせいだろう。

 少し迷ったあと、幸恵はゆっくりと母のお腹へ手を伸ばした。


 ――動かない……。


「当たり前……か」


 ぽつりと呟き、幸恵は椅子に腰を下ろした。


 私は……安心しているのか。この数か月、頭の奥にずっと根付いていた不安の種が消えたことに。かなり悩まされたけれど、母を失う悲しみが紛れたので、ある意味助かったのかもしれない……。

 幸恵はまぶたを閉じ、こみ上げてきた安堵感と少しばかりの罪悪感に身を浸した。


 ……いつの間にか眠っていたらしい。相当、疲れていたようだ。

 まぶたを開けた幸恵は、軽く肩を回した。

 夢を見た気がするが、その内容は覚えていない。母の夢だったような気もする。ぼんやりと、あたたかな気配と疲労感が残っていた。

 そろそろ帰ろう。最後にもう一度、母の顔を見てそれでおしまい。


 そう思った幸恵は椅子から立ち上がり、母の顔を見下ろした。

 こういうのを『安らかな顔』と呼ぶのだろうか。目を閉じて、口の中の噛み切れないものと格闘しているかのように見えた。

 次いで幸恵は視線をお腹へと下ろす。


 ――ない。


 お腹の膨らみがない。まるで、風で膨らんだカーテンが元に戻ったように、お腹の膨らみは消えていた。


 どうして……どうして、どうして……。

 全身の肌が粟立ち、幸恵は思わずよろめいた。

 声がうまく出せず、呼吸さえも普段どおりできているのか、わからなかった。

 壁に手をつき、体を支えた。そのとき、ポケット中で電話が鳴った。

 取り出し、確認すると娘からだった。

 このことを話すべきか。少なくとも、聞いてもらいたい。

 幸恵は震える指で、通話ボタンを押した。


 妊娠した。


 電話の向こうで、娘が弾けるような声でそう言った。娘は長い間、不妊治療を続けていた。その努力が報われ、喜びのあまり電話を片手に跳ね回っている姿が目に浮かんだ。

 少しすると、娘は冷静になったのか、『おばあちゃんの葬儀前にごめんね』と謝った。

 幸恵は曖昧に何かを返し、静かに電話を切った。

 なんと答えたのか、もう思い出せない。体は自然と、もう一度母の前へと動いた。


 奇跡。


 祖母から孫への贈り物。命のバトン。そう表現すれば聞こえはいいのだろう。だが、そんな良いものに捉えられないのはなぜだろう。得体が知れない。胸に渦巻く不安は、ぐるぐると臓腑のすべてを巻き込みながら膨らんでいく。

 目眩がした。足元が揺れ、景色が波紋のように揺れて曖昧になっていく。


 ――ああ、夢だ。これは夢。夢。よかった……。


 遺体の中の胎児が突然消えるはずがない。そう思った瞬間、幸恵は深く息をついた。


 ……でも、夢なら娘の妊娠もなかったことになる。

 そのとき、ふいに両手に何かを握らされたような感覚がした。左右の手に一本ずつ。


 選択。


 私は今、岐路に立たされている。夢を選ぶか、現実を選ぶか。


 ……お母さん。


 母ならどうする? 

 幸恵はまぶたを閉じた。母の声を求め、耳を澄ます。

 しかし、返ってきたのは空調の風の音だけだった。

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