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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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シンプル          :約3000文字

 アパートの一室。男が一人、畳の上で目を閉じ、静かに胡坐をかいている。

 部屋に余計なものは一切ない。テレビも時計もなければ、雑誌一つ見当たらない。中央に置かれた折り畳みテーブルと“その上にあるもの”。それだけが、この部屋のすべてだった。

 彼はシンプルを好む。己の主義とさえ言えるかもしれない。

 しんと静まり返った室内で、今はただ耳を澄ませている。終わりを、いや、始まりの合図を待っていた。


 ――ピーッ、ピーッ、ピーッ!


 彼はカッと目を見開いた。見つめる先はテーブルの上、そこに置いてある炊飯器だ。先ほどまで勢いよく噴き出していた蒸気が、ぴたりと止まった。

 彼はそっと息を吐いた。まだだ、まだ早い。今は蒸らしの時間。たった数分とはいえ、焦りは禁物だ。拳をぎゅっと握り、肩をいからせる。

 まだだ、まだ……まだ……よし。


 ――カチッ。


 スイッチを押す音と同時に、炊飯器の蓋が開いた。湯気が立ちのぼり、天井を目指す。

 彼は肺の奥に溜まっていた空気を一気に吐き出した。無意識に息を止めていたらしい。

 その瞬間、彼の脳裏にある情景が浮かぶ。

 深く潜った海の中から、今ようやく水面に顔を出した――そんな心地。そしてそう、それは“彼ら”も同じ。彼らもこの瞬間を待ち望み、そして喜んでいるのだ……!

 炊飯器の中を覗き込む彼。だが、その目は閉じられていた。ゆらりゆら、立ちのぼる熱い湯気を、深く鼻から吸い込む。

 炊き立ての白米が放つ、甘く香ばしい蒸気が脳を痺れさせ、自然と頬が緩み始める。恍惚とした表情が浮かび、そして目を開いた瞬間、それは満面の笑みに変わった。


 まるで新雪……否。何かにたとえる必要がどこにある。炊き立ての白米、それ自体が最高峰なのだ。

 彼は唇を引き締め、ゴクリと唾を飲み込む。炊飯器から顔を離し、しゃもじをそっと米の中に滑らせた。掬い上げて、ふんわりと一度だけ混ぜる。

 そして、茶碗にご飯をよそい、静かにテーブルに置いた。

 用意しておいたバターの箱を開けると、ナイフで四角状に小さく切り取り、白米の頂にそっと置いた。

 途端、バターはみるみる溶け始める。淡い黄金色の筋を引きながら、まるで蜜のように広がり、米の隙間に染み込んでいく。

 続けて、醤油をトットットッと数滴。黒褐色の液体が溶けかけたバターに絡み、ゆっくりと馴染んでいく。

 箸で混ぜたりはしない。白米8、バター2の割合。それが最初の一口目における黄金比。その一塊を慎重につまみ、口に運ぶ……。


 ――美味い……。


 まず、米本来の甘みが口の中でふわりと広がる。その後ろから、バターがそっと抱きしめるように味を重ねてくる。口の中で戯れる天使。そこは、天上の楽園。バター色の陽光が差し込み、ふわふわの白い雲が広がる世界。

 二口目。今度はバターの割合を増やし、醤油がわずかに染みた部分を運ぶ。


 ――見事だ。


 彼は心の中で褒め称えた。誰を? 自分ではない。作ったのは自分だが、でも違う。今はただ、この一皿に関わったすべてを称えたい。

 ワサビ、海苔、鰹節あるいは黒胡椒。合わせるものは無数に存在する。だが、今日はこれでいい。シンプル。それが、最高。

 むろん、否定はしない。今は誰とも争いたくない。それぞれの理想の白米を楽しめばいいじゃないか。

 使っている米もバターも、決して高級なものではない。どこのスーパーでも買える品だ。 

 だが、それがこうして、ここまでの――三口目。彼はふっと自分を笑った。考えるのはもう十分だ、と。


 四口目、五、六。箸は止まらない。止まるはずがない。

 茶碗に残る最後の一塊を口に運ぶと、彼は小さく息を吐いた。もちろん、これで終わりではない。二杯目、三杯目と行くつもりだ。ご飯が彼を待っている。

 だが、炊飯器の蓋に手をかけたそのときだった。


「邪魔するよ」


 その声に、彼は反応すらできなかった。玄関の開閉音もなく、男は当然のように畳に上がり込んできたのだ。男は彼の向かいに腰を下ろし、ふーっと息を吐いた。


「……ご飯がさ」


 俺を呼んだのさ――。その男は、彼が問う前にそう言った。それ以上の説明はなかった。野暮だというように。

 男は茶碗と箸を持参していた。だが、彼の目を引いたのはそれではない。


「これ……? ……これさ」


 これが何か? 俺のご飯のお供はこれさ――。

 男がテーブルに置いたのは、スーパーでよく見かける福神漬けのパックだった。


「言わないでくれよ……なんだ」


 カレーじゃないのに福神漬け? そんなのは邪道だ、なんて言わないでくれよ。これが最高なんだ――。

 小学生の頃、親の都合で祖父母の家によく預けられたんだ。仕事が大変な時期だったらしくてね。祖父母は俺の好みを考えてくれたんだろう、カレーライスをよく作ってくれた。『好きなだけ福神漬けをのせていいよ』ってさ。

 俺が「美味しい、美味しい」って言うと、カレーの日以外にも冷蔵庫から出してくれるようになった。白米の上にのせていいよって。

 だから……最高なのさ。


 実際に口にした言葉は少なかった。それでも、男の想いは不思議と彼に伝わった。

 彼は頷くと、炊飯器の蓋を開けた。そして手を伸ばし、男から茶碗を受け取ろうとした。よそってやるつもりだった。握手と勘違いされるかもしれないと思い、少し気恥ずかしくなった。だが、それでもよかった。


 しかし男が動く前に、彼は手を引っ込めた。違和感が押し寄せる。

 なぜ、炊飯器の蓋を開けたのに、湯気が立たなかった? 

 彼と男は無言のまま、顔を見合わせ、同時に炊飯器の中を覗き込んだ。


 歯だ。


 例えではない。白い、真っ白な歯がそこにあった。

 粒のように並び、艶やかに窯の中をびっしり埋め尽くしていた。部屋の照明に反射して、眩しいほどに輝いている。

 あの、愛らしささえ感じられた柔らかな米は、ただの一粒も見当たらなかった。


 なぜ、なぜ――なぜかはもう、わかっていた。

 突然現れたこの男の感情が、言葉なしでも伝わってきた理由も。


 ああ、これは……夢だ。


 彼がそう確信した瞬間、腹に巻かれたワイヤーに引っ張られ、海中から急速に引き上げられるかのように、意識が――。




「おい、そろそろいいだろう。仕事の続きだ。そいつをさっさと吐かせてくれ」


 ……目覚め。俺は目を擦り、ぐーっと背伸びをし、椅子から立ち上がった。そうだ、少しだけ眠ることにしたんだった。

 ここはタイル張りの、ジメジメとした暗い地下室。俺は、俺を起こした男が廊下に消えていくのを見送ると、扉を閉め、椅子に縛られた男のもとへゆっくり歩を進めた。


 ――これも職業病ってやつなのかね。


 夢の中にいた『彼』も、今目覚めたばかりらしく、目を瞬かせた。そして、ああ、これは夢じゃない。まただ、また始まる……。そう理解したのだろう。その目がみるみる恐怖の色に染まり、震え出した。


 そんなに怯えるなよ。もうお互いのこと。けっこう知ったじゃないか。夢で会うほどに……いや、知ったのは俺だけか。

 俺は少し笑い、テーブルの上からペンチを手に取る。そして、また男の口の中へ――。

 結局、これが一番効くんだ。そう、シンプルが一番。シンプルに……。



「……ご飯の上に……なに載せる?」


「…………バ、バター、しょ、醤油も少し……」


「それ……前にもここで話したか?」


「い、いや……」


「だよな……俺は福神漬けだ」


 二人の腹が、くうと同時に鳴った。

 俺はなんだか、仕事なんてどうでもよくなってきた。

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