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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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鼓             :約3000文字

 寂れた旅館だな――。

 それが、男が抱いた最初の印象だった。外観は色褪せ、軒先の木は黒ずんで剥げ、入り口の暖簾も履き古した下着のようにくたびれ、風に揺れている。通された部屋もまたみすぼらしかった。畳はほつれ、障子は何箇所か破け、壁紙にはシミが浮いている。襖の端には虫食いの跡がある。その向こうには、もう一つ小部屋があるらしい。だが、開ける気にはなれない。脳裏に浮かんだ黴臭さが、鼻腔へと下りてきた。

 塗装が剥げた小さなストーブがあるが、点けるなら火事に気をつけるよう、初老の女将に念を押された。


 ――こんな旅館、燃やされたほうが却って保険が下りて良かろう。


 心ではそう思いながらも、男はにこやかに「はい」と答えた。外面は良いと自負がある。

 もともとは別の宿を予約していたが、手違いが発覚し、空きがないと断られ続けた挙げ句、ようやく泊まれたのがこの宿屋。雪こそ降っていないものの、刺すような寒さの中に放り出されれば、得意の笑顔も霜で固まっていただろう。

 そこそこの夕食、そこそこの風呂。男はそれらを一通り堪能し、そこそこの満足感を抱いて部屋へ戻った。

 しかし、ふと眉をひそめた。布団が敷かれているのはいい。だが、その中央になぜか鼓が置かれていたのだ。


 ――これは、なんの趣向だ?


 男は鼓を手に取り、軽く叩いてみた。『ポン』と小気味のよい音が鳴る。それだけ。二度、三度と試してみたが、何も起こらない。奥の襖が開き、隣の部屋から芸者でも出てくるのでは――そんなひそかな期待もむなしく、部屋はしんと静まり返っていた。

 男は軽くため息をつき、鼓を布団の脇に放ると、電気を消して布団へ入った。

 少々ひんやりとしていたが、そのうち体温で温まるだろう。ぼんやりとそう考えながら、橙色のストーブの光を見つめた。やわらかく滲むその色が、じんわりと心を落ち着かせる。


 ――ズッ


 しばらくして、何か音が聞こえた。

 といってもまどろみの中だ。ここ数分、起きていたのか、眠っていたのか、自分でも定かではない。もしかしたら、夢の中で聞いた音だったのかもしれない。男は再びまぶたをゆっくりと閉じた。


 ――ズズ


 ……まただ。はっきり聞こえた。先ほどのも夢ではなかったのか。

 男は眠気を払うように、まばたきを繰り返した。

 気づけば、ストーブの灯が消えている。


 ――ズズッ


 この音……襖が擦れる音だ。まさか、襖の向こうに誰かいるのか?

 男は身を起こし、音のする方向に顔を向けた。


 ――ズズ


 次の瞬間、冷たいものが背筋を駆け上がった。

 指だ。襖の隙間から、数本の指が伸びている。薄暗い中、際立つ異様な白さ。細長く、骨ばっており、爪とその周囲は真っ黒に変色していた。


 ――あれは、人の手ではない。


 直感的にそう理解した男は、慌てて布団から飛び起き、電灯の紐を引いた。カチ、カチ……むなしい音だけが響き、明かりは点かない。


 ――ズズッ

 ――ズズ


 その間にも襖はじわりじわりと開いていく。今や、両手の指がべったりと枠に張りついている。

 電気など、どうでもいい。逃げなければ――いや、間に合うのか? 今に開くぞ。すぐにでも襖を押さえなければ。いや、相手が物の怪なら、そんな抵抗は無意味なのではないか。

 体が強張り、思うように動かない。後ずさることだけが精いっぱいだった。そのとき、男の足に何かがぶつかった。


 鼓だ。

 反射的に男はそれを手に取った。襖が開いた瞬間に投げつける。そうすれば、わずかでも逃げる隙ができるかもしれない。

 果たしてそううまくいくかどうかはわからない。だが、何も持たないよりは、いくぶん心強い。そう思った。


「わ、た」


 だが、鼓を拾い上げたものの手が震え、落としそうになる。掴み直そうとした、そのとき――。


 ――ポン。


 鼓が鳴った。暗闇に澄んだ音が響く。あの指を前にすると、それすらも不気味だった。だが次の瞬間、男は目を見開いた。


 ――どういうことだ?


 あの指が、襖の向こうへ引っ込んだ。

 しかし、安堵する暇はなかった。男が呆然と口を開けたまま立ち尽くしていると、再び、襖の隙間から這うように指が現れた。

 男は再び、鼓を叩く。


 ――ポン。


 やはりだ。襖の向こうにいる何者かは、この音を嫌っているらしい。さっと襖の中へ引っ込んだ。

 男はその隙を逃さず、襖へ駆け寄った。鼓を床に置き、勢いよく襖を閉めた。手でしっかりと押さえ、安堵の息を漏らす。


 ――ズズ……


 だが、それも束の間。男が押さえる力など物ともせず、襖は再びじわりと開き始めた。

 すかさず男は鼓を取り上げ、叩いた。


 ――ポン。


 指がまた引っ込んだ。

 男は引きつった笑みを浮かべた。困惑と恐怖に染まる中、唯一掴んだ『ルール』がもたらした、わずかな安心による歪んだ笑いだった。

 鼓を叩けば、奴は引く――だが、問題はこれをいつまで続ければいいのか。夜が明けるまでか? いや、それしかない。物の怪を退ける決まり文句だ。


 ――ズズ


 ――ポン。


 ――ズズズ


 ――ポン。


 ――ズズッズズ、ズズズズ


 ――ポン。


 緊張のリズムが繰り返される。

 その中、男は思った。何も朝を待つ必要はない。このまま部屋から逃げ出せばいいじゃないか。

 男は鼓を叩きながら、じりじりとドアへ向かい始めた。

 だが、駄目だった。指の出現間隔が短くなっている。それだけではない。どうやら襖から離れるほど、鼓の音が効かなくなるらしい。

 襖のすぐそばで鳴らし、指が引っ込んだ一瞬の隙に襖を閉める――そうしなければ封じきれない。

 背中を向ければ終わり。ドアノブに手をかけたその瞬間、背後からあの手が肩を掴む。そんな映像が、ありありと頭に浮かんだ。


 ――やるしかない、朝まで。


 男は腹をくくった。布団の上にどっかりと胡坐をかき、鼓を手にして、ひたすら叩き続ける。


 ――ポン。

 ――ポン。

 ――ポン。


 やがて、夜が明けた。薄明かりが障子をぼんやりと照らす。睡魔が男の意識を蝕み、体を掌握しつつあったが、まだ理性は残っていた。

 襖の向こうの存在は、未だ完全には消えていない。ただ、今は風に震える窓のように、襖がかすかに揺れるだけだ。明らかに弱っている。

 指がかかった瞬間に鼓を鳴らせば、すぐにさっと引っ込む。

 あと少しだ。ようやく眠れる……。

 男はそう思い、くたびれた顔に微笑を浮かべた。そして、鼻で笑った。

 何を馬鹿な。あんなのが隣の部屋にいるのに、おちおち寝ていられるか。とっととこの宿から出ていこう。正体など、どうでもいい。もう二度と来るものか。

 女将を捕まえて怒鳴りつけ、宿代を踏み倒してやろう。それぐらいしないと気が済まない。

 そう決めた男は、鼓を脇に置き、立ち上がった。

 足でポンと鼓を軽く叩く。

 襖がカタカタ揺れた。もう十分だろう。少なくとも、この部屋を出る余裕はある。

 男は鼻から大きく息を吐き、ドアノブに手をかけた。


 ――ポン。


 鼓の音がした。

 男は思わず脇を見た。もちろん、自分が叩いたわけではない。鼓は布団の横に放り出されたままだ。

 ……では、今の音は? 幻聴か? 寝不足も極まれば、無理もないだろう……。


 ――ポン。


 鼓の音がまた響いた。

 男はドアを開けた。だが、鼓の音が鳴った途端、押し戻されるように体が引いた。


 なぜだ。まさか……。

 男はドアにかけた手を止める。じわりと嫌な汗が滲んだ。


 ――なぜだ……。


 男はドアをわずかに開け、隙間からそっと覗いた。

 そこに、女将がいた。

 正座し、うつむいたまま両手で鼓を抱えていた。


 ――ポン。


 鼓が鳴るや否や、ドアがバタンと跳ね返り、男は額をぶつけて仰け反った。

 そして――。


 ――パタン。


 背後から、襖が最後まで開ききる音が聞こえた。

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