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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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壁の絵の女         :約3000文字

 その絵との出会いは、まったくの偶然だった。

 彼がコンビニに入ろうと近づいたその瞬間、視界の端に妙なものが引っかかった。白い外壁に何かがへばりついている――巨大な黒い虫。最初にそう浮かび、ツツツッと背骨を指でなぞられるような不快感が背中を駆け上がった。

 だが、二度見した瞬間、彼は思わず足を止めた。よく見ると、それは虫などではなかった――目が合ったのだ。


 ――女性……。


 正確には、目が合ったと錯覚するほど生々しい女性の絵だった。

 美人というわけではない。眉毛が妙に濃い。見つめていると、ふと既視感が走った。記憶をまさぐると、彼の脳裏に浮かんだのは『ディスマン』。

 あの、夢に現れるという不気味な男の似顔絵だ。それと酷似している。ただし、こちらは女性として描かれたようで、そのせいで下手な女装のように見えた。

 黒いペンキかカラースプレーで描かれたその絵は、大きさ自体はそれほどではない。だが、異様な存在感を放っていた。視線を外すことができず、しばらく絵と向き合ったまま、彼は立ち尽くした。

 やがて、背後から子供たちの騒がしい笑い声が響き、はっと我に返った。彼は後ろ髪を引かれる思いで、その場を後にした。


 その夜、彼は夢を見た――あの絵の女の。


『ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド』


 どこからともなく響く、低く沈む振動音。まるで太鼓のように、絶えず鼓膜を打ち鳴らしている。

 サイケデリックな色彩の空。だだっ広い荒野に、彼はぽつんと立っていた。そして、視界の向こうから、あの女がじわじわと迫ってくる。


 ――来ないでくれ……!


 彼はとっさに両手を前に突き出した。だが、無駄だと、どこかでわかっていた。

 ぐにゃり、ぐにゃり。手のひらと女の輪郭が、波のように歪んでいく。まるでダリの絵の中に引きずり込まれたかのように。

 女の顔が迫る。毛穴まで剥き出しに見える距離まで。


 その瞬間、彼は跳ねるようにして目を覚ました。

 夜明け前の薄暗い部屋。上半身を起こすと、汗ばんだシャツがぴったりと背中に貼りついた。彼は両手を広げ、じっと見つめた。胸の内で脈打つ心臓の音が、異様に鼓膜に響いていた。ドッ、ドッ、ドッ、と……。




 ――なんだ、あれは……?


 翌朝、例のコンビニに向かうと、遠くからでもわかるほどの人だかりができていた。近づくにつれ、あちこちから熱気を帯びた声が耳に飛び込んできた。


「アーチストだ! うちの町にアーチストが来たぞお!」

「おおー!」

「すげえ!」


 子供も大人も、みな浮かれた様子で騒いでいた。彼らが口にしていたのは、最近ネットで話題になっているアーティストの名前。神出鬼没の路上芸術家。彼もニュースでその存在を知っていた。作品はオークションで高値がつくほどの評価を受けているという。

 しかし、それは海外の話。こんな田舎町に現れるわけがない。

 彼は内心で呆れながら、人々の熱狂ぶりを見つめた。

 絵の周囲にはパイロンが並べられ、なんと警備員までいた。地元の誰かが自主的に名乗り出たのだろう。私服で、赤い腕章を巻いた中年の男が、満足げな顔で人混みを誘導している。

 スマホを掲げる人々が押し合いへし合い、まるでフェスか何かの騒ぎだ。

 彼は静かに背を向け、その場を後にした。そして、これ以降もそのコンビニを避けるようにした。人混みは苦手。それだけが理由ではないことを、彼もわかっていた。


 ――本当は、あの絵が……。


 それ以上、あの絵のことを考えないことにした。なんてことはない。他にコンビニはいくらでもある。

 しかし、ある日、彼があの絵と無関係のコンビニに立ち寄ったときだった。

 彼は、おや? と思わず首を伸ばした。

 その店では、何かのキャンペーンが行われていた。入り口近くの棚に、特設コーナーが設けられている。彼は何気なく近づき、陳列されたマグカップの一つを手に取った。


 ――えっ。


 マグカップが彼の手から滑り落ちた。床に当たる硬い音が響き、破片が飛び散った。蛍光灯の光を受け、白く輝く床の上で、割れた破片に描かれていた顔が彼をじっと見上げていた。

 あの女だ。

 気づいた瞬間、背筋に冷気が走った。周囲を見渡すと、店内のあちこちにあの女の顔があった。視線を注がれ、体を焼き貫かれるような鋭い感覚が全身を駆け抜けた。

 どうやら、この町の熱狂は町長の耳にまで届いたらしい。あの絵を利用した町おこし企画が立ち上がっていたのだ。

 タオル、饅頭、皿、コップ、ポスター、Tシャツ――ありとあらゆる商品に、あの女が刷り込まれていた。

 彼はコンビニを飛び出した。心臓が抗議するかのように、胸の内側を激しく叩いていた。


 まるで侵略だった。そう思わせる速さで、町の隅々まであの女の顔が浸透していた。通りを歩けばポスターが貼られ、電柱には広告のように貼られ、駅周辺にはのぼりが立ち、子供が着るTシャツにまで、あの顔があった。

 彼は絵を目にするたび、心臓を指で弾かれたような感覚に陥った。

 どこにも逃げ場はなかった。夢にも。 

 夜ごと、あの女が夢に現れた。頻度も、滞在時間も日を追うごとに増していった。

 ある晩、女が夢の中で彼の首にそっと触れた。ややぬめるように冷たく、蛇のような指。そして、なぜか彼には自分の脈が感じ取れた。激しく、のたうつような脈が。

 彼は喉の奥に何かが詰まるような苦しさを感じ、飛び起きた。すると、息苦しさの理由が分かった。自分の手が、首を絞めていたのだ。


 ――もう限界かもしれない。


 彼は大きく息を吐いた。熱はこもったまま、額を伝って汗が滴り落ちた。 

 町もまた熱を持ち続けた。終わりなど来ないかのように思えた。

 だが、やがて熱狂は嘘のように終わりを告げた。季節が一つ進む頃、町は以前と変わらぬ静けさを取り戻した。あの絵が、全国ニュースで取り上げられたことがきっかけだった。

 たった数分間の放送。だが、それで十分だった。例のアーティストとは無関係だったという事実を突きつけ、町の人々を一気に興醒めさせるのには。

“田舎者がバカ騒ぎしている”

 そうでも言いたげなニュース番組の語り口が、火に水をぶちまけ、あとには白煙すら残らなかった。

 保存を訴えていた声もいつしか消え、コンビニの外壁に描かれた絵は、子供のボール遊びの的にされても誰も咎めなかった。

 今や、雨風にさらされ剥がれ落ちている。

 バンッ……バンッ……。 

 その顔に向かって、子供たちが笑いながらボールをぶつける。

 バンッ……バンッ……バンッ……ドッ……ドッ、ドッ、ドッ。


「あ、何すんだよ!」


 彼は絵に向かって飛んできたボールを手のひらで弾いた。そして、足元に転がったそれを拾い上げ、遠くへ放り投げた。

 子供たちは悪態をつきながら、ボールを追って走り去っていく。

 彼はその背中を見送ると、絵に視線を戻した。

 途端に、膝ががくりと折れ、彼は反射的に壁に手をついた。

 呼吸が荒ぶり、体が小刻みに震える。心臓は先ほどから激しく脈打っていた。喉の奥が詰まり、言葉にならない吐息が漏れる。 


 ――僕は涙した。

 子供の罵声に傷ついたわけじゃない。壁に縋りつき、さらに泣いた。

 これまで胸に積もらせてきた何かが、崩れ落ちたのだ。

 涙とともに、喉から絞り出すような叫びが漏れた。抑えきれない。この感情は……もう、認めるしかない。いや、やっと認めることができた。


 僕は一目見たときから、彼女に恋をしていたのだ。

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