浮遊 :約1000文字
とある昼下がり。駅の近くを歩いていた男は、ふと広場にできた人だかりに気づいた。このあたりでは時折、大道芸じみたパフォーマンスをする者がいる。珍しい光景ではない。
――いや、やけに人が多いな。ちょっと見てみるか。
そう思い、男は人混みに向かって歩いていった。背伸びをし、隙間を縫うように集まりの中心へと進む。何をやっているのか訊ねるまでもなかった。群衆のざわめきが自然と情報を運んでくる。
――空中浮遊だと……?
確かにそう聞こえた。彼は『何を馬鹿な』と鼻で笑った。だが、さらに近づき、群衆の視線の先にいる男を捉えた瞬間、それが紛れもない事実だと理解した。
その男は確かに浮いていた。地面からおよそ二十センチの高さ。直立したまま腕を組んでいる。その表情は、少し腹立たしく思うほど得意げであった。
一人の観衆が、ニヤつきながら駆け寄り、素早く男の足元に手を通した。
その瞬間、「おおーっ」と歓声が上がった。何もない。透明な台や杭が仕込まれているわけではなさそうだ。
――じゃあ、糸か?
彼はそう思ったが、ここは広場だ。近くに木もなければ、クレーン車も見当たらない。しかも、別の観衆の一人が、男の頭上に手をかざし、何も仕掛けがないことを証明した。再び歓声が湧く。トリックがまったくわからない。
――大したものだ。
彼は感心し、財布から小銭を取り出した。しかし、ふと首を傾げた。お金を入れる場所がない。
「ねえ、あの人、何者?」
「いや、普通に歩いていたら、突然浮いたらしいぞ」
そんな声が耳に入った。もしそれが単なる設定ではなく本当なら、あの男は少し前までただの通行人だったということになる。
――では、本当に種も仕掛けもないのか? それならどうして……。
「いやー、自分でも何が何やらって感じなんすよねえ」
観衆の問いに、男は肩をすくめ、苦笑しながら言った。
しかし、何か原因があるはずだ。場所が関係しているのか、それとも何か食べてそうなったのか?
もっとも、本人に訊ねたところで、それらしい答えは返ってこないだろう。腕組みして、ううーんと唸るばかり。
しかも、どうやら動けないらしい。それもそうだ。足が地面についていないのだから。もし空中を泳ぐように移動できたら、またすごい話だが、そんな気配はない。
「ふふっ、このままずっと動けなかったりして」
「この街のシンボルに? ははは」
そんな声がして、彼もふっと笑った。他人事だから、気楽に楽しめるものだ。しかし――。
「えっ」
思わず声が漏れた。あの男のすぐそばにいた観衆の一人が、ふわりと宙に浮いたのだ。
さらに、その周囲の人々も……そして、彼自身も……。
不思議な感覚だった。上から何かに引っ張られるような。何か……そうだ。子供の頃に遊んだ、あのおもちゃ。魚釣りの――。
ふとそう思い、彼が空を仰いだときだった。
そこに、一つの黒い点。
それは狙いを定めるようにゆっくりと左右に揺れながら、少しずつ大きくなって……。




