思いを描く :約2000文字
絵を描くのが好きだ。
いつから、どうして――脳をくすぐると、浮かんでくるのは祖母の顔と声だ。
――絵が本当に上手だねえ……。
祖母に褒められると、まるでふかふかの布団に飛び込んだような気持ちになった。
夢中で描いて、描いて、いろんな人に褒められて、私はいつしか画家になることが当然の未来だと思っていた。
なのに、違う道を選んだのはなぜだろう。
脳を引っ掻くと、滲み出てきたのは母の顔と声。
人生の岐路に立ち、将来について話し合ったあの日、私は「画家になりたい」と言った。
すると、母は責めた。私ではなく祖母を。
――夢を見させるから……。
そのとき気づいた。私はどこかで祖母に夢を見せてあげているつもりだった。でも違った。私はずっと庇護下にある、夢見る少女だったのだ。
けれど、時は容赦なく肌に染み込み、私はもう少女ではいられなくなっていた。
その結果、つまらない私は夢を諦め、つまらない進学をし、つまらない会社に就職した。
生活にはいつも『つまらない』という感覚が付きまとっていた。
ある日、ふとそんな人生に嫌気が差して、親に内緒で会社を辞めた。今は、路上で似顔絵を描きながら、微々たる収入と貯金を切り崩して生きている。
でも、かつてあんなに描くことが好きで楽しかったのに、いつの間にか私の絵は『つまらない』に染まっていた。
――つまらないね。私って。
今、私の頭の中に響くのは、私自身の声だけだ。
私を否定する言葉に耳を傾ければ叫び出したくなるから、黙って手を動かし続けている。そんな日々を続けている。たぶん、これからもずっと。そう長くはないかもしれないけど。そう思っていた――。
「きゃああああああ!」
でも、先に叫んだのは世界のほうだった。
「ナイフ! ナイフぅ!」
「逃げろ!」
「ああああぁぁぁぁ!」
通り魔だ。
駅近くの歩行者専用道路。私はいつもの場所にしゃがみ込み、靴磨きの少年みたいに座ってお客さんが来るのを待っていた。
悲鳴が聞こえたとき、それがまだ遠い世界の出来事のように思えた。実際、距離があった。でも、混乱はまるで床に落としたグラスが割れ、中の液体が駆けるように、見る見るうちに私の目の前まで広がってきた。
そして、気づけば私はその中心にいた。
足がもつれて転んだ人に覆いかぶさるようにして、通り魔の男はその無防備な背中に包丁を突き立てた。
男はすでに体力の限界を超えていたのかもしれない。立ち上がると、不恰好に手を振り回し、ゴールを目指すランナーのように乱れた足取りで進んでいく。包丁を握る手は無造作に振られ、よれたシャツは血と汗で滲んでいる。
無精髭、乱れた髪、歪んだ笑み――かと思えば、怒りや悲しみ、狂気がその顔に浮かんでいた。
逃げ惑う人々、響き渡る悲鳴。倒れた人は、殺虫剤を浴びた虫のようにわずかにしか動かない。
混乱と恐怖が目と耳から流れ込み、私の脳を浸した。
終わりのない地獄のように思えた。
けれど、そんなものはありはしなかった。もしかしたら、ものの数分の出来事だったのかもしれない。
駆けつけた警察官によって、通り魔はあっけなく取り押さえられた。
そして、今度は別の波が押し寄せてきた。
「はい、私がおりますこちら、ここで悲劇が――」
「えー、まさに白昼の悪夢が――」
「現場に居合わせた方に話を伺ってみたいと――」
犯人が連行されたあと、どこからともなくマスコミが集まり、それぞれがまるで独演会のように忙しなく口を動かしていた。
「あ、あの! あなたが持っているそれは犯人の似顔絵ですか!?」
ぼうっと立ち尽くしていた私に、興奮した記者が次々と駆け寄ってきた。
私は多幸感で緩みそうになる口元を抑えながら、静かに頷いた。
カメラがスケッチブックに向けられ、次々とシャッターが切られる。繽紛たるフラッシュの中で、私は目を細めた。
帰り道、私は期待に胸を膨らませながら歩いていた。『もしかしたら有名になれるかもしれない』『これがきっかけで画家として成功したりて』。
淡い期待だ。犯人の顔なんて、きっと今頃ニュースで写真付きで報道されているだろう。私の絵は使われたとしても、ネット記事に小さく程度だ。
……それなのに、足取りは笑っちゃうくらい軽くて、鼻歌まで自然とこぼれた。
スケッチブックをめくれば……ほら、笑えてくる。
――これは、まだ見られなくてよかった。
描きたいものは見つかった。
私は、これからも描き続けるだろう。
どんな絵を?
脳をほじくると、死にゆく人間の顔と声が鮮明に浮かび上がり、私は叫ぶように笑った。




