深層に伏す :約3000文字
これは、私が子供の頃の話だ。
あるとき、親の都合で田舎町に引っ越した。穏やか、というより何もないところだった。ゲームだったら素通りするような町。遊び場は山か小学校の校庭くらいで、ゲームセンターなんてものはない。
転校初日のことはほとんど覚えていない。まるで記憶喪失になったかのようだ。たぶん、頭の中が真っ白だったのだろう。ただ、『嫌だったな』という漠然とした印象だけが残っている。
その後も、頭の中はずっと灰色のままだった。何日経っても、私はクラスどころか町に馴染めずにいた。標的にさえされなければ、それで十分だ。そう思い、できるだけ目立たないように静かに過ごしていた。学校が終わり、校門を出るときが、一日の中で一番嬉しい瞬間だった。
だが、ある日――。
「おい、山に行こうぜ。放課後、三ツ矢商店の横の空き地に集合な」
掃除の時間中、クラスメイトの一人に、突然遊びに誘われた。
その有無を言わさぬ態度が苦手で、(彼に限らず、他のクラスメイトもそうだったが)私は断れなかった。
しかし、少しだけ嬉しくもあった。放課後、不安と期待を胸に抱きつつ、言われるままに彼の背中を追って山道を歩いた。
「ここだよ」
たどり着いたのは、山の中腹にある開けた場所だった。ズボッと指を入れて開けたような穴が岩壁にあり、すでに数人の子供たちが集まっていた。
「洞窟?」
私は背伸びをして、その穴を覗きながら訊ねた。幅は大人二人分、高さは大人が子供を肩車してちょうどと言ったところか。入り口にはツタが張っていた。
「ボークーゴー」
子供たちの集まりの中から、ひときわ体の大きな少年が進み出て、そう答えた。彼はリーダー格のようだった。そして、私にペンライトを差し出した。
「一番奥まで行って戻ってこいよ」
ぶっきらぼうにそう言い放った。それが、仲間になるための儀式だと。
胸の中の喜びがすっと消え、不安だけが闇のように広がった。
少し迷ったが、結局、私はペンライトを手に取った。彼らの仲間になりたい、というより臆病者だと思われたくなかった。ここで受け取らず、笑われてとぼとぼ歩いて帰るのはご免だった。
それに、彼らのニヤついた口元と視線が怖くて断れず……いや、そんなことはどうでもいい。
彼らに気づかれないよう、入り口で大きく息を吸い、防空壕の中へ足を踏み入れた。
中はひんやりと湿っており、足元が少しぬかるんでいた。靴下が濡れないかを気にしながら進んだ。
思ったほど黴臭くはなかった。水気はおそらく山の地下水のものだろう。飲む気はしないが、それほど汚く感じない。
私はゆっくりと歩を進めながら、頻繁にライトで頭上を照らした。虫やコウモリが落ちてこないか心配だったのだ。だが、入り口付近にヤスデやゲジゲジがいたくらいで、奥は日が届かないせいか草は生えておらず、虫もいなかった。恐れていたコウモリも、餌となる虫がいないためか見当たらなかった。
しかし、上ばかり気にしていたせいで足元の注意に怠り、水たまりを踏んでしまった。靴下の先っぽがじんわりと湿る感触に、げんなりする。それでも進むしかない。やけっぱちだったのか、なんなのか、頭が熱くなり、怖いという感情は薄れていった。
だが、ちょうど穴の真ん中あたりまで来たときだった。
突如、背後の光が消え、穴の中に暗闇が押し寄せた。
入り口から差し込んでいた光が消えたのだ。考えるまでもない。あの子たちの仕業だ。穴を塞がれたのだ。
私は慌てて入り口に駆け戻った。水たまりを踏んで足首までびしょ濡れになったが、それどころではなかった。
入り口は、トタン板のようなもので塞がれていた。おそらく、もともとあったものだろう。彼らが草むらにでも隠していたのだ。触れると、ザラザラとした感触が指先に広がった。錆びているのだろう。
私は思いっきり押した。しかし、びくともしない。向こう側で数人がかりで押さえつけているのだろう。板の向こうから、くぐもった笑い声が響いてきた。
「開けて! 開けてよ!」
防空壕内に、かすかに声が反響する。一瞬、自分の声だとわからなかった。弱々しく、情けない。屈服した者の声だった。
「ちゃんと奥まで行ったら、どかしてやるよ」
子供たちの中の誰かが笑いを含んだ声で言った。たぶん、リーダー格の少年だろう。「いーけ! いーけ!」と掛け声と笑い声が響き、板がバンバン叩かれ、私は後ずさりした。
いわゆる、窮鼠猫を噛むというやつだろう。胸の奥で憎悪が沸き立ち、私はトタン板を蹴ろうとした。だが、ぬかるみに足を取られ、尻餅をついた。情けない姿を見られずに済んで、この瞬間だけは暗闇に感謝した。
私は鼻をすすり、立ち上がる。仕方なく、穴の奥のほうまで進むことにした。なんてことはない。さっき半分まで行ったんだ。そう自分に言い聞かせながら進んだ。
奥へ進むにつれ、水たまりが点在していたが、ライトがあるし、注意して進めば避けるのは難しくない。
虫もコウモリもいない。それに、一番恐れて考えたくもなかった幽霊も、やはりいない。むしろ、それよりも怖いのは……。
やがて、一番奥までたどり着いた。私は振り返り、声を張ろうと息を吸い込んだ。
だが、それはただのため息に変わった。横穴があることに気づいてしまったのだ。
まだ先があるのか……と、うんざりしつつ、ライトを横穴に向けた。せめて短い道であってくれと願いながら。
次の瞬間、私は息を呑んだ。
思わず後ずさりし、水たまりに足を突っ込んだ。右の靴が完全に水没したが、そんなことはどうでもよかった。
人間がいた。
大人の男。ボロボロの服をまとい、膝を抱えて座っていた。
顔や手は泥まみれで、小刻みに震えていた。そして、その目――そう、目が合った。
ゆっくりと、男が顔を上げてこちらを向いたのだ。
その男はライトの光を浴びても、一切目を細めることなく、じっと私を見つめた。
白目にはツタのように血管が這い、顔には乾ききった血の痕が刻まれていた。
私は悲鳴を上げようと、大きく口を開けた。
だが、呑み込んだ。
――お父さん……?
その顔に見覚えがあったのだ。若い頃の父にそっくりだった。数日前に、アルバムを見せてもらったばかりだったから、頭によぎったのだろう。
逃げるべきか、話しかけるべきか、叫ぶべきか。迷いが生じ、もしかしたらいい人かもしれない、なんていう正常性バイアスに脳が浸された。
だが、無意識の瞬き――まさにその一瞬だった。
再び目を開けたとき、男の姿は消えていた。まるで、初めから存在しなかったかのように、跡形もなく。
穴はそこで行き止まりだった。
その後、私は入り口を塞いでいたトタン板をどかし、外に出た。(少年たちは姿を消していた。後に耳にした話では、別の場所で遊んでいたらしい)
大きく手を広げ、深く息を吸い込む。だが、陽光も澄んだ空気も、私の心に巣食った恐怖を拭い去ることはできなかった。
……そして、それは今も残ったままだ。
私は大学を卒業し、再びこの町に戻ってきた。自分の意思ではない。壊した体と心を静養するため、実家に帰ることを余儀なくされたのだ。それでなければ、こんな嫌な思い出の多い町に戻ることなどありえない。
あの防空壕が今も存在しているかどうかはわからない。(わざわざ埋める理由もないだろうから、たぶん残っているのだろうが)
毎日、鏡を見るたびにふと思うことがある。
――父に似てきた。
つまり、あのとき見た男に。
……あれは未来の自分の姿だったのではないか。それも、何かが自分の身に起きたあとの姿……そう、防空壕に逃げ込むような、そんな未来の。
大災害、戦争。わからない。だが、不吉な予感がするのだ。
だから備えた。非常食を蓄え、体を鍛えた。知識も身につけた。私は変わった、強くなった。
だが、まだ心は……。
私は今でも、あの暗闇の中に閉じ込められているような気がしてならない。
ずっと、あのときから、ずっと……。私を嘲笑う少年たちの声とともに。
願わくば、彼らと再び顔を合わせることがないように。そしていつか、こんなことを気にしなくなる日が来るように。
――ある殺人鬼の日記より抜粋――




