これ、落としましたよ :約1500文字
「これ……落としましたよ」
朝の通勤路。突然、背後から声をかけられ、男は足を止めた。
振り返ると、中年の女が革製のケースに入った定期券を手のひらに乗せて差し出している。色も形も見覚えがある。間違いない、自分のものだ。
「ああ、ありがとうございます……」
男はお礼を言い、受け取ると再び歩き出した。
――いつ落としたのだろう。自分らしくないミスだ。
軽く首を傾げるが、数歩進むとどうでもよくなった。だが――。
「あの」
「はい?」
また声をかけられた。振り返ると、先ほどの女が立っていた。
改めて見ると、たまに自宅アパートに訪ねてくる宗教の勧誘の女に似ている。どことなく浮いた雰囲気だ。
――なんだ? まさか礼金でも欲しいのか?
男はそう訝しがる。女はおずおずと手を差し出してきた。
「これ……落としましたよ」
その手に乗っていたのはハンカチだった。
見覚えがある……。そう思った男は、ズボンの後ろポケットをまさぐった。
ない。確かに入れていたはずのハンカチが、いつの間にか消えている。
「……どうも」
男は礼を言い、受け取った。しかし、その声にも滲んでいるように釈然としない。それを顔には出さないようにし、「では」と会釈して再び歩き出した。
少し進み、ちらりと振り返る。女はまだその場に立っていた。
男はどこかほっとし、軽くため息をついた。
――しかし、まさかスリじゃないよな?
男は自嘲気味に笑いつつ、歩きながらポケットを調べた。穴は開いていない。さっきのは、たまたまだったのだろう。そういうこともある。そう納得した。しかし――。
「これ……落としましたよ」
一分もしないうちに、また背後から声をかけられた。
振り返った瞬間、顔の前に、ずいと財布を突き出された。見覚えがあるどころの話ではない。間違いなく自分の財布だった。だが、つい先ほどまでポケットに入っていたのは確認済みだ。ありえない。
男は手を伸ばしかけ、ためらった。
――なんなんだ、この女……。
触れたくない。だが、財布なしで行くわけにもいかない。
男は、警戒心の高い野良猫のように素早く、半ばもぎ取るように財布をひったくり、礼も言わず走り出した。
「あの、あの」
だが、女はあとを追ってきた。
なんだなんだ、と通行人たちが珍しそうに視線を向ける。
――いったいなんなんだ!
気持ち悪いぞ。そう喉まで込み上げた怒りをぶつけようとした瞬間――。
突然、横から強い衝撃が体を襲った。
景色が回転したかと思えば、強烈な光を当てられたかのように目の前が真っ白になり、気づけば地面を見つめていた。
耳鳴りの中、喧騒が聞こえる。一定の距離ではなく、遠のいたり近づいたりしている。
――なんだ? 車……?
男は自分の身に何が起きたのか確かめようとした、だが、体がまったく動かない。
血が入ったのだろう、視界は黒ずんでいる。まばたきを繰り返し、かろうじて見えたのは地面にこびりついていた、誰かが吐き捨てたガムだけだった。
罵倒のために吸い込んだ空気はただ喉を通り、切れかけのゼンマイのようにカラカラと渇いた音を立てた。
「あの」
頭上から声がした。
だが、顔を向けることもできない。
女はそれを察したようで、男の目の前へ手を差し出した。
「これ……落としましたよ」
目玉だった。
――おれの?
もう触れて確かめることもできなかった。
すべてを落としてしまったのだ。




