初恋
恋に憧れる女の子が恋をして、大人へ踏み出す瞬間を描けたらなぁと。
夕飯が終わった私は、当番の後片付けもせずに、お気に入り恋愛小説を再び読み始める。
ただ主人公が恋に落ち、少しだけ何かがあって恋を実らせる。
とても好きなお話で、何度読んでいるか分からないほどだ。
私は主人公のように可愛くない。
他の恋愛小説のヒロインのように美人でもないから、
心ときめかす恋に身を焦がすことが無いのかと、ため息を付く。
「美咲ちゃん、ため息を付きたいのはパパだよ。
小説が好きなのは良い事なんだけど……」
声を掛けられ現実に帰る。
「明日から3年生ってことは、もう受験生なんだから、
小説ばかりに現を抜かすのはどうかなって」
「分かってるって」と言い小説を閉じ洗い物を始める私。
怒ってるのかなぁと、チラチラこちらを確認するように見るパパに対し
「遠野美咲、明日からの授業は今まで以上に頑張ります」
冗談めかし軽く敬礼を付けて言った。
次の日、私は一時限目からパパとの約束をあっさりと破ってしまった。
だって苦手な数学の授業だったんだもん。
「授業を始めます。」
そう言って、教壇の前に立つのは1年と2年同様、数学担当の神谷先生。
文系の私は1年生のころから、理系の授業中に小説を読むという現実逃避が多かった。
「遠野、授業中に小説を読むなら、もう少し隠しなさい」
1年生の一学期の授業中に、神谷先生に言われたセリフ。
もちろんクラス中は笑いの渦で、私も顔が真っ赤になってしまう。
そんなことで懲りる私ではありませんから、
クセでまた今日も小説を開きそうになっちゃった。
私は受験生になったのだからと、ひとまず授業に目を向けることにした。
授業を聞くために黒板に目を向けてみれば
「数学のこういったところが面白いんだ」と、
目を輝かせて説明していた神谷先生が目に入る。
それまで授業を聞いていなかった私には
「どんなところ」が面白いのか残念ながら分らない。
分かったのは、私はそのときに先生に恋したということだけ。
切れ長の瞳に本当に数学が好きなんだと、理解できる輝きがあった。
私は彼の瞳に恋に落ちたのだ。
その日以来、数学の授業の熱心に聞くことになる。
だって好きなだけ神谷先生を見つめることが出来たんだもの。
見つめ続けたせいか、瞳以外の魅力にも気づいてしまった。
「授業を始めます」と薄い唇から話す声。
教壇の上に置いた教科書を見るときに、サラリと顔にかかる髪。
チョークを持って黒板に字を書いているときの後ろ姿。
チョークを持つ手は骨ばっていてる指は長くてとても綺麗。
こんな風に授業を聞いている様なフリをして、
眺められているだなんて神谷先生は知らないんだろうな。と、
すこしだけ顔を赤らめた私はバチリと先生が目が合っちゃった。
まさか、心の声漏れてないよね。
お昼休みには私はクラスメイトで親友の萌音と一緒に理科室でお昼を食べるのが習慣。
お目当ては萌音が憧れている夏目先生。
お昼はどこで食べてもいいとう校風とは言え、相変わらずお昼休みの理科室はとっても賑やかだ。
男女共学の高校のはずなのに、
女の子ばかりなのは夏目先生の女生徒からの人気を物語っている。
友人が先生をガン見できるよう、私は先生に背を向けてご飯を食べる。
「今日も白衣姿と笑顔が眩しいです」
萌音は満足そうにお昼を口に運び、当然のように私のお弁当からは卵焼きをつまむ。
「だって、美咲の作る卵焼き美味しいんだもん。
いつも私の胃袋を掴むための、お弁当作りありがとう」
「勝手に胃袋を掴まれただけじゃん」
なんて、むくれた態度をとって見せる。
私は仕方がないなというフリをして、気になっていたことを友人に尋ねる。
「今読んでる小説が面白くてまた変な声出したの? 」
思ってもいない方向の答えがきた。
とりあえず心の声は漏れてなかったらしく、私はホッとする。
お弁当を食べ終えた私たちは、さぁ本格的におしゃべりするぞというときに、ガラリと扉が開く音がした。
廊下から理科室への扉は開けっ放しだから、
教壇の奥にある理科実験室から誰かが来たみたい。
扉のほうを見た萌音が少しだけ顔をしかめた。
私も開いた扉を気にするように振り返れば、やはり神谷先生がいた。
萌音は私と同様に数学が苦手だから、先生さえ苦手としている。
彼への気持ちを萌音は知らないし、きっと想像にもしないだろう。
萌音の夏目先生に対する気持ちのように、
私の想いがただの憧れなら、どれだけ楽だろう。
別に萌音の気持ちにケチを付けたいわけじゃない。
ただ、眺めているだけで満足出来たらと思うのだ。
触れたいとか、独占したいとか。
そんなわがままな気持ちに振り回されずにいられたら。
ある恋愛小説を読んでいたら「恋は蕁麻疹のようなもの」とあった。
年を取ってから罹ると余計始末が悪い。と続く有名なアレ。
私は幼稚園の時に、たかのりくんという男の子に「すきです」と書いたお手紙を書いた。
年上の彼が中学を卒業してすぐ、自然消滅したとはいえ恋人もいた。
だから、先生への気持ちは麻疹ではないと思うの。
でも、とも思う。
今までとは明らかに違う。
この恋は上手くいかないと思うだけで、自分の瞳に悲しみの膜を張る。
不意に彼の口角が上がった姿を見れば、私も微笑みたくなる。
なによりも、触れたくてたまらない。
もっと、恋は素敵なものだと思っていた。
恋に落ちれば、もっと大人になれると思っていた。
そうじゃなかったみたい。
自分の気持ちを彷徨わせるだけで、何にも変わらない。
私こそ恋への憧れだけで、何にも分かってなかったんだ。きっと。
「ねぇパパ、麻疹って後遺症ってあるのかな」
身近な人生の先輩に私は聞く。
「パパはお医者様じゃないの、美咲もしってるはずなんだけどな」
「すいません、ググります」
「ちょ、ちょっと待ってよ美咲ちゃん!! 」
父は少しだけ真面目な顔になって続けて言った。
「パパはね、後遺症のない麻疹なんて本当の麻疹じゃないと思うんだ。
どんどん大人になっていくんだね、僕の小さかった美咲は。」
彼は目を細めて私にそう言った。
「あ、でもね。大人はちゃんとやらなきゃいけないこともやっているんだよ。
美咲が受験生を放棄して恋愛小説に現を抜かす。未定なことはパパとしてはお薦めしないな」
父の意見を聞いて私も心の中で頷く。
まずは目の前の受験を突破してから考えよう。
毎日のように先生には会えるんだから、今はそれで充分として。
これは言い訳なんかでも、先延ばしなんかでもない。
自分の未来のために、ちゃんと優先順位をつけたのだ。
そう決意して、私は他の子たちより遅い受験モードに入った。
「3年生になり数学も頑張っているようだから
国立希望してもいいんじゃないかしら」
3年生に入ってすぐの中間試験後の進路指導の時に、 担任の丸井先生からの勧めもあって国立大を第一希望としたら見事に受かった。
結果を見て一安心した後に考えたことは神谷先生のこと。
早く合格を伝えたい。
いや、その前に気持ちを伝えるべきか。
さんざん悩むだけで、結局何もできないまま卒業式を迎えることになってしまった。
私の恋ごころは止まったままで、学校も卒業したくない。
「よしっ」と決めた今朝は、とても晴れやかな気分だ。
「卒業式は出席できなくてごめんね」とパパは言いながら自分の仕事の支度のためにネクタイを締める。
さみしい気持ちが無いとは言い切れないから、
式の後を考えると「スイーツ1年分にしておくね」と答えるほかない。
卒業式後に神谷先生を探し、時間を貰うつもりだったから。
式がわり教室に戻る。
萌音やクラスメイトと制服姿の写真をたくさん撮って、
スマホで撮った写真はさっそく交換。
みんなで最後の高校生を楽しんだ後、
親友に先に帰ってもらうように言う。
何か察したのか「分かった、またね」と、笑顔で別れた。
誰に会いにに行こうと思ってるのか、萌音は知らないだろう。
付いてきて欲しいなんてこと言いたくなかったから、
何も聞かずにいてくれたことに感謝した。
私は親友に手を振り見送った後、神谷先生に会いに行くために職員室に向かう。
あ、職員室って先生にだらけの場所だった。
私は完全な失態に気づいたけど「ま、卒業するし」と自らを奮い立たせる。
たどり着いた職員室で神谷先生を探すも、不在。
もしかしてと思い理科室に行く。
ちょっと!職員室から理科室遠いです!!
3年間通っていたはずの校舎内のことも全然分かっていなかったみたい。
自分の不甲斐なさを改めて実感しながら、理科室へと続く階段を上った。
焦っている気持ちと同じように、私は駆け足になる。
鼓動が廊下に響き渡っているんじゃないか。
それ程、大きな音が体の中でこだまする。
理科室の前に着けば、扉が閉まっていた。
息を整えノックをすれば夏目先生から返事があった。
「えっと、神谷先生がいらっしゃると思って……」
「あ、隣に行ったよ」と実験室を指さす。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、実験室に向かおうとした私に
「ちょっと僕、席外さなきゃいけないからゆっくりしていって」
大人の気遣いかな、
お陰でさらに緊張が高まってきてしまい躊躇も出てきた。
私の気持ちの押しつけは迷惑なのかもしれないと。
でも、自分なりに一杯悩んで出した答えだから、たくさんのお礼や気持ちを伝えたい。
だからと、実験室の扉の前で改めて一呼吸する。
軽くノックをすれば神谷先生から「ん? 」と、軽い返事が届く。
夏目先生と間違えられたらしく、
扉を開けて「遠野です」と声を掛ける。
机に向かい何か読んでいた先生は驚いた表情をして、
席を立った。
「あ、あのっ」
先生に近づいていく私は、声が恥ずかしいほどうまく出ない。
「うん? 」
緊張しているのが伝わったせいか、
先生は戸惑っているのを隠しているみたい。
「どうした? 」
私より少し背の高い先生が、視線を合わせるかのように優しく目線を下げた。
「先生のお陰で大学受かりました」
「それは遠野の頑張りだろう? 」
「少しでも近づきたくて、数学頑張っただけです。
だから神谷先生のお陰です。
えっと、もっと大人の女性になりますから、ええっっと…………」
私は頭の中が真っ白になって、自分でもよくわからない事を言い始める。
言いたいことは、とても簡単で、どんな言葉を使うかも考えてきたのに。
押しかけて狼狽えるだけの私に先生はこう言ってくれた。
「わかった、待ってる」
少しだけ目を細め、ポンと私の頭に手を置いて。
「ありがとうございました。お邪魔しましたっ!! 」
私は頭を下げて、意気地のないまま走って逃げ出した。
ほとんどの生徒が帰った校舎を、ふらふらと私は出て行く。
彼の言葉は優しさだろうという気持ちと、
これからに期待したいという、両極端の2つ気持ちをせめぎ合わせて。
家に帰り、ふうと制服を脱いでリラックスをする。
これを着るのは今日が最後なんだと改めて眺め、
自分の机の抽斗には証書筒とお気に入りの恋愛小説。
怖がりな自分の戒めにするみたいに、一緒にしておいた。
抽斗なら、いつでも取り出して見つめなおすことが出来るから。