魔国の陰
お久しぶりのお話になります。
小さな音を立て、カップがソーサーの上に置かれる。
カップに注がれていたコーヒーを一頻り楽しんだ男が、小さな溜息を一つ。
「悪くは無いが、彼女が淹れた物と比べると、味も香りも一段、いや二段下がると言わざるを得ないな」
「大きなお世話だ」
すまし顔で辛口評価をされた店員と思しき男が、不貞腐れたように口を開く。
「それにしても、彼女達が居ない時のこの店は、まるで廃墟のような静けさだな」
改めて店の中を見渡した客が、呆れた様な口を開く。
「そっちもほっとけよ」
コーヒーの味ばかりか、店まで酷評された店員の機嫌が、また一段下がる。
「彼女達は?」
「いつもの『女子会』だよ。グリとフォンが来てから、移動が楽になったって言って、最近じゃ随分と足も羽も延ばしてるみたいだ」
そう言いながらサイフォンを洗い終わった店員が、カウンターの内側においてある椅子に腰かける。
「で? アンタは野郎相手にくだを巻く為に、わざわざ仕事サボってこんな場末のコーヒー店まで来てんのか?」
「人聞きの悪い事を言わんで欲しいな。私は激務の間の、ほんの息抜きをしているだけだ」
多少の皮肉では崩れようもない。といった風なすまし顔で客が言葉を返す。
「毎度毎度のその息抜きとやらのせいで、ウチの店は御近所さんに胡乱な目を向けられてるんですけどねぇ?」
店員にジト目を向けられたものの、客はそのすまし顔を僅かも崩さずにコーヒーを口にする。
「私が来ようと来まいと、この店で閑古鳥が鳴くのはいつもの事では無いかな」
「この世界にも閑古鳥が居るとは知らなかったよ」
痛い所を突かれたのか、不貞腐れた顔でカウンターに肘をつく。
「そもそも私が常連という事は、王室御用達と言っても過言ではないと思うが? そういう意味では、煙たがられるよりはむしろ誇られるべきだと私は思うがね」
テーブルに片肘を着き、したり顔で言葉を瞑ぐ客と思しき男、見る者が見れば気付くであろうが、この魔国の中核に居る『やんごとなき御方』というやつである。
そんな彼が、何故こんな場末のコーヒー店を訪れているのかと言えば、
「これを」
そう言いつつ、内ポケットから黒い封筒を一つ取り出し、店員へと差し出す。
「いつもの奴かい?」
受け取った封筒を顔の横でひらひらさせながら店員が問う。
「ああ、出来るだけ早めに始末してもらえると助かる。出来れば新たに虐げられる者が出る前に」
そう言った客の顔は、どこか忸怩たる思いを抱えている様にも見えた。
「悪い奴が悪い事をしているのがわかっているのに、その一声で取り潰しも出来ないとは、王様ってのも存外面倒なモンなんだな」
「そうだな……」
店員の言葉に、客は短く溜息と言葉を吐く。
「出来る出来ないで言えば、答えは『出来る』だが、それでは納得出来ない連中が居るのさ、当然だがな。確たる証拠を揃え、然るべき手順を踏む、そういった様式を整える事もまた必要なのさ。そうでなくては、王としての強権をただ振るってしまえば、それはただの恐怖政治になりかねん」
自身の言葉に、言う程には納得出来ていないであろう表情ではあるが、その目に宿る意思は力強い。
「ま、あんたの言う事は正しいさ。権力ってのは武器と一緒だ。それもかなり強力で質の悪い……な」
封筒を眺めながら話を聞いていた店員が静かに口を開く。
「それを持った人間は、何でもできるが故に、誰よりも自制を求められる。正道であろうとするなら尚更にな」
そう言いながら封筒の封を切り、収められていた紙を眺める。
そんな店員を眺めながら、客の男は静かに言葉を紡ぐ。
「その通りだ。だが、正しく在ろうとするが故に、正しい事が出来ない。これもまた事実だ。不思議だな。嫌いな奴の言う事を聞かなくて良いだけの力が欲しくて、私は王となったはずなのに、それと引き換えに、今度は好きな事が出来なくなってしまったよ」
自嘲めいた笑顔で最後の一口を飲み干し、カップを置く。
「旧王都か……。まぁ、距離は問題にならんしな、今晩中にでも片付けておくさ」
客の男は、何事も無いか様に言う店員の言葉に、今度は苦笑を浮かべる。
「相変わらず便利なものだ。それだけの距離を問題無いとは、羨ましいを通り越して少々呆れてしまうな」
その言葉に、今度は店員の男が苦笑する番だった。
「まぁ、一番行きたかった所には行けなかったがね」
苦笑と自嘲、少しの憐憫。そんな表情を浮かべた男の目は、目の前の紙を透かしてどこか遠くを見ているようでもあった。
「今でもそこに行きたいと思っているか?」
客の問いかけに、店員は首を振る。
「いや?、一緒に居たい人が出来た。一緒に居てくれる人が出来た。『一緒に居たい場所』が出来た。だから、どこかに『行きたい』とは、今は思わんよ」
迷いも淀みも無く答える声に、客は静かに微笑む。
―― 羨ましい事だな ――
そう小さく呟きながら。
「ま、アンタの事は嫌いじゃないし、何より多少なりとも借りがある。この程度であれば問題は無いさ。――っと、丁度良い時間みたいだな」
大人数の足音が店に近付いてくるのを感じ取り、話を打ち切る様に手に持った紙を軽く掲げながら店員が言う。
「よろしく頼む。報酬はいつもの通りに」
促されるように立ち上がった客が、そう言い残し店を出る。
ややあってから遠ざかる足音を聞きながら、店員の男は手に持った紙を溜息と共に改めて眺める。
「正義の味方、なんて柄じゃねーけどな……」
そう呟いた言葉は、彼以外の誰の耳にも入る事無く、無人の店内に霧散していった。
§
「ただいま」
「ただいま帰りました~!」
「戻ったよ」
日が西に傾き、遠くに見える山の端にその姿を隠そうとする頃、店の扉が開く音と共に明るい声が店内に満ちる。
「おう、おかえり。今日はどうだった?」
カウンターから出て出迎える彼の声に、三人の女性が笑顔で答える。
「上々ね」
「絶好調です」
「問題無いね」
その笑顔につられ、彼の顔にも知らず笑みが浮かぶ。
「そっかそっか。そんじゃ、その上々の成果って奴を見せてもらおうかね」
そう言いながら三人を先導して店舗から住居へと入る。改めて住居側の玄関を出るとそこには広い庭が広がっており、グリフォン親子が寝そべって体を休ませているのが見えた。
「取り敢えずここに出してもらえるか」
「わかったわ」
いつものように庭の中程を指し示す彼の言葉にフローラが頷くと、次の瞬間、魔獣の死体が積みあがる。
「森狼に火蜥蜴、首刎ね兎と……こっちは雪虎か……」
出された獲物を一つ一つ確認していた彼が、何事か首を傾げる。
「なぁ、今日はどこに行ってたんだ? 生息地がバラバラな筈の魔獣ばかりだ。グリとフォンで移動するにしても、流石にこれだけの場所は一日では回り切れないだろ……となると」
「迷宮よ」
「迷宮ですね」
「迷宮だね」
すまし顔で答える三人娘。
「だよなぁ。それにしても、皆の実力を疑う訳じゃ無いが、斥候役も無しに迷宮とかあまり危険な事はしないで欲しいね。罠とかどうしたんだ?」
「切り捨てたわ」
「打ち返しました」
「凍らせるか燃やしたか吹き飛ばしたかした記憶があるね」
「違う、そうじゃない」
事も無げに答える三人の声に頭を抱える。
「罠と一口に言ったって、落とし穴とかガスとか、物理的に反撃できる物だけじゃないだろう。それにクレア、なんだその『打ち返した』ってのは、仮にも元聖女様なんだから、そこは『防ぎました』とか『癒しました』とかじゃないのか」
「えっと、『メアリー』がその方が早いと言うもので……」
目を逸らせながら答えるクレアと、
「転移系の罠は魔力で感知できるね」
ジト目を向けられてもしれっと答えるオフィーリア。
「全く……」
二人の回答に盛大な溜息を吐きながら、庭に積まれた『成果』を品定めしていた彼が、有る事に気付き声をあげる。
「……なぁ、今のギルド公式踏破記録ってどんだけだっけ?」
「確か十五層到着じゃなかったかしら」
フローラが事も無げに答える。
「だよな。で、今現役の連中の踏破記録は?」
「確か十層を探索中と聞きましたが?」
今度はクレア首を傾げながら答える。
「そう、確かに俺もそう聞いてる」
そう言って、頭痛を抑えるかのように蟀谷に指を当てる。
「何か困った事でもあるのかい?」
オフィーリアの不思議そうな声。
「『何か』じゃねーよ! ヴォーパルバニーつったら十一層の中部以降、少なくとも53階から出て来る魔獣じゃねーか! なんで一日で現行の踏破記録よりも下に行ってんだよ!」
思わず大声を出してしまった彼に対する彼女達の反応は薄い。
「昔の記録が残っていたから六層から探索を開始したのよね」
「ヴォーパルバニーは美味しいって聞いてましたし」
「十層はグリとフォンのお陰で全スルーだったしね」
「違う、そうじゃない」
当り前のように答える三人娘を呆れた様な顔で眺める。
「まぁ、一~五層をすっ飛ばしたってのはわかった。ならなんで二層や五層の魔獣が混ざってるんだ?」
幾度目かの疑問の声。
「思ったより早くヴォーパルバニーが狩れたから、他のお肉も確保しようと思って一層から入り直したのよね」
「時間もまだ余裕ありましたし」
「幾ら美味しくても兎だけじゃ飽きるよね」
「駄目だコイツら、早く何とかしないと……」
彼の呟きは彼女達の耳に届いたのか否か、ともあれ、気を取り直して仕分けを始める。
「どうせ踏破階の申請なんてしてないんだろ? だったらコイツを出すのは面倒な事に成るな。コイツは全部確保して、後は……グリとフォンの分を考えてもそれぞれ一匹分の肉が有れば十分か。雪虎は全部売却で良いな」
「雪虎は食べられないんですか?」
クレアが不思議そうな顔で問う。
「食べられない事は無いが独特な臭みがあってさ、好んで食べる人は少ないらしい。珍味ではあっても美味ではないってところかな。他に美味い肉が有るんだから、わざわざ食べる事も無いだろうと思うね」
「そうなんだね。ちょっと勿体無いかな」
そう言いながらも、『美味しくない』と聞いた時点でほとんどの興味を失っていそうなオフィーリア。
「まぁ、せいりょ――あ~、あれだ。元気になる薬として処方される事もあるらしいから、それなりの額で買取してくれるんじゃないかな。全くの無駄って訳にはならないさ」
「へぇ……」
続く言葉に、フローラの視線が一瞬鋭くなったが、残念そうな顔で話を聞いていた二人が気付く事は無かった。
「私はここで休憩しているよ」
仕分けを終え、グリの背中で既に駄目人間になっているオフィーリアを見てフローラが苦笑する。
グリの方は心得たもので、オフィーリアが寒くない様にとその羽でオフィーリアを包んでいる。
「それじゃあ、まだ間に合うと思うから私は解体に出して来くるわね」
ヴォーパルバニー以外を収納袋に仕舞い込んだフローラがギルドに向かって歩き出す。
「『最も深き迷宮』の魔物を出したら、皆さん驚いちゃうかもしれませんね」
クレアが楽しそうに言いながらその後に続く。
「っと、そうだ。言い忘れてたがフローラ」
その声にフローラが足を止め振り返る。
「どうかして?」
「今日の昼間に、オリジナルブレンドの注文が入ったんだ。後で説明するよ」
立ち止まっているフローラに、殊更何事も無いかのように声をかける。
「そう……わかったわ」
その言葉に、ほんの一瞬だけフローラの眉が動くが、クレアやオフィーリアがそれに気付く事は無かった。
§
『旧王都』
かつては魔国と並び称される程に豊かであったその国の中心は、その国が滅亡した今となっても、当時の隆盛を窺わせる程度には栄えていた。あくまで魔国の一領地としての賑わいではあったが。
魔軍の侵攻の際に、建物や設備の破壊は最低限に抑えられていた為、人々はその生活を大きく変える事無く今も過ごしている。
ただ、その中心にあった王城だけは跡形も無く破壊され、その広大な土地は、僅かな石造りが当時の面影を残すのみとなっている。
今では懐古主義の詩人が歌を吟じるか、処刑は免れたものの、その地位を失ったかつての王国貴族が当時を偲び、頭を垂れている姿が時折見られるだけの場所となっていた。
そんな街の一角、豪邸の立ち並ぶ、所謂『貴族街』と呼ばれていた区域にその屋敷は有った。
王国滅亡の際に、主だった貴族は軒並み取り潰しとなっていたが、この屋敷の主は魔王軍の侵攻の際に逸早く恭順の意を示し、その見返りとして取り潰しを免れていた。
元々は地方の下級貴族に過ぎなかったその男は、数少ない王国貴族の生き残りという立場を最大限利用し、魔国の法の隙間を縫うようにその財を増やし、今では旧王国上級貴族の持ち物であったこの屋敷を買い取るに至ったのであった。
彼の築いた財の象徴ともいえるこの屋敷の下には、踏み台にされ虐げられた人々が居るのだという。
そう、
文字通りに。
「たまさか時流に乗った凧が、天井が無くなったせいで際限なく舞い上がっちまったってとこかねぇ」
「成程ね」
王城跡の高台からその屋敷を望みながら、月明かりの下で一枚の紙を読み上げた彼が呟くと、赤毛の美女がそれに答える。
周囲に人が居ない事は確認済、それでなくても深夜と言って差し支えの無いこの時間、外を出歩く、ましてこのような場所を訪れるような酔狂な人間はそうそう居はしないだろう。
「確認しておこう。騒ぎが起きれば魔軍の警備隊が駆けつける事になる。なので、その前に俺達は仕事を終わらせる必要がある。確殺すべきはこの貴族一人だが、あの屋敷に居る男は全員奴に従って美味しい思いってやつををしてきた連中だから遠慮はいらないとの事」
彼の言葉に、鞘に当てた左手に、少しの力が入る。
「そう……」
短く答えたフローラの目には、剣呑な光を宿っていた。
「で、奴の妻と娘は無関係らしいので手出しは不要だ。まぁ、今日は実家に挨拶に行ってるとかで二人共居ない筈だが、在宅でかつ邪魔するようなら軽くあしらってもらっても構わない」
「わかったわ」
「まぁ、無事に済んでも無罪放免って訳にはいかないだろうけどな。連座で首が飛ぶって事は無いだろうが、それなりの対応はあるはずだ」
「そう……ね」
フローラのその声には、僅かに憐憫が含まれているように感じられた。
「旦那や父親の事で裁かれるのは気の毒だとは思うが、文字通り犠牲にされた人達の上でダンスを踊っていたと言われれば、踏みつけられた人達にしてみれば『知らなかった』では納得できないだろうさ」
フローラを慰める意図は有るのだろうが、それにしては些か極論過ぎる発言の後、彼は話を進める。
「最後に、地下にあるらしい牢屋の中の人達は保護したい。警備隊が駆けつければそれどころじゃ無くなるだろうが、それまでに暴走した連中が、証拠隠滅だ何だと暴挙に出て傷つけられるような事は防ぎたい。との事」
そう紙の文字を読み切ると、その紙をひらひらさせて見せる。
「まったく。ここまで調べあげているなら、ちゃっちゃと正攻法で行けそうなモンだけどなぁ」
「それが出来ない大人の事情と言うのがあるから、私達に話がくるのでしょう?」
彼のぼやきに対して、フローラが苦笑と共に言葉を発する。
勿論、そのような事は彼も重々承知してはいるのだが、世の迂遠さというものに、改めて愚痴の一つも零したくなったのである。
「さて、行くか」
頭を一つ振って気持ちを切り替えると、隣に立つフローラに声をかける。
「俺が上、フローラは地下を頼む」
「ええ」
会話は短く、言葉は少ない。それでも、それだけでお互いのやるべき事を、互いに理解していた。
§
「何の騒ぎだ?」
この館の主人は、痛む頬を濡れたタオルで冷やしながら呟いた。
昼間の事だ、たまさか出向いた街で、とある女共を見つけた。
中々に良い見た目をしているので、暫く飼ってやるのも良いかと、金をちらつかせながら声をかけたのだが、まるで何も居ないかのように無視をされた。
腹が立ったので、自分がこの国の貴族である事を明かし、逆らえばどうなるかと語ってやったうえで連れて帰ろうとしたのだが、手痛いしっぺ返しをくらう事に成り、気が付けば屋敷のベッドに寝かされていた。
体中の痛みと、女共の無礼な態度を思い出すだけで腹が立って仕方がなく、地下の女共相手に鬱憤を晴らし、幾許か溜飲を下げたのが数刻前の話。
さりとて時ここに至れど痛みは引かず、寝付く事も出来ずに寝室で唸っていた所に何事かこの騒ぎである。
最初は何かがぶつかるような大きな音、続いて何かが倒れるような音と振動、そこからは男たちの叫び声と争うような物音、聞き覚えのあるあの声は、屋敷の護衛として雇っている傭兵共の頭だろうか。
ややあって騒がしかった館の中は再び静寂に包まる。
いつもなら何かあれば駆けつける執事の姿が無い事に些かの不安を抱き、恐る恐る部屋の扉を開け廊下を窺えば、灯の消えた廊下、男の部屋の前に、件の執事が倒れているのが見えた。
「な、何があった!?」
息を確かめようと執事に駆け寄ろうとした時、廊下の暗がりから姿を現した男が声をかける。
―― よう。今日は死ぬのにもってこいの日だな ――
聞き覚えの無いその声、見覚えの無いその姿、館の主は大声で護衛の者を呼ぶ。
動揺からか恐怖からか、館の主人は思い至らない。先程の騒ぎがこの男のせいであるならば、何故この男はここに立っているのかと。
呼ばれて駆けつけられる程度に護衛の連中が無事であるなら、そもそもこの男がここに居られるはずはないという事に。
「な、何者だ!」
駆けつけぬ護衛に苛立ち、正体不明のこの男に怯え、館の主は叫び声をあげる。
―― 生きているものすべてが、お前の死を望んでいる ――
男は何も答えない、ただ何事か呟きながら、一歩一歩近付いてくる。
―― 全ての怨嗟の声が、お前の中で合唱している ――
「ひっ……!」
恐怖にかられ、後ろを向いて逃げ出そうとしたところ、尻を蹴り飛ばされ受け身を取る事も出来ずに無様に顔面から転がる。
―― すべての美しいものは、お前の目から立ち去った ――
「た、助けてくれ! 金なら、金ならいくらでも出す!」
立ち上がる事も出来ずに振り返り、尻餅をついたまま後ずさりながら、届くはずもない手を伸ばして命乞いをする。
―― あらゆる悪い考えは、お前と共に立ち去る ――
その呟きは、死ぬ前に精々恐怖すれば良いという彼の演出ではあったが、その気遣いははたして、館の主人に届いていた。
どれだけ目の前に人参をぶら下げようとも意に介さず、どれだけ必死に命乞いをしようとも躊躇いもしない。
ただ、確実な『死』が、その男と共に近付いてきている事を、館の主人は本能で理解してしまっていた。
―― 嗚呼、本当に ――
男はいつの間にか、どこからか取り出した短剣をその手に握っていた。
無造作に近付いてきた男が、無造作にその短剣を心臓へと押し込む。
痛みは一瞬。次の瞬間、男が軽く手を捻る。それだけで館の主人は絶命する。
その刹那の時に、館の主人は何故か一つの噂を思い出していた。
王国が滅んでよりこちら、いくつかの貴族が何物かに殺害されたという。
殺害された貴族は、いずれも罪を犯していた。殺害にまつわる調査の中でそれらが明らかにされると、死後であろうとも魔国の法に則り裁かれた。
だが、裁かれる貴族達とは裏腹に、その貴族達を殺害した者は、未だに捕まる気配すら無いという。
そんな事を思い出した男の耳に、今生で最後の福音が齎される。
―― 今日は死ぬのにもってこいの日だ ――
§
再び、高台から件の屋敷を見下ろす。
既に日付の変わる時間は過ぎていたが、魔軍によって形成された警備隊は中々に仕事熱心なようだった。
駆けつけた警備隊に屋敷は取り囲まれ、地下に捕らわれていた女性達が保護されて居るのが見える。
彼女達は一旦魔軍に保護され、望む者、行く宛てのある者は家族の元へと帰る。また、望まぬ者、身寄りの無い者は魔国の施設で保護された後に身の振り様を考える事となる。
手助けをしてやりたいなどと言うのは思い上がりだ。口を出すだけなら誰でも出来るが、それで彼女達の腹が膨れる訳では無い。
彼女達の人生を背負える程、自分達の手はそこまで長くない事を知っている。
故にただ口を噤み祈る。彼女達の先に、せめて幸あれと、せめて自分達の行いが、彼女達の今後の一助になればと。
「それにしても、随分とあっさり送ってあげたのね」
フローラの言葉に彼が振り返る。
「確か、『ざまぁ』だったかしら? あれだけの罪を重ねていた男だもの、もっと思い知らせてから送ってあげるものだと思ったけれど」
少しだけ不思議そうな声で問われた言葉に、彼は少しだけ考える。
「それを考えなかった訳じゃないんだけどな。例えば、被害にあったのが俺なら間違いなくそうしてる。万一それがフローラ達だったなら、それこそ寸刻みにしてやっても足らない位さ」
そう言ってから視線を屋敷に移し、言葉を続ける。
「だけど今回はそうじゃ無かったからなぁ。俺自身は奴になんの感情も無いし、そんなことをしても『釣りの上に特典が付く』って訳にはいかないさ。それに……」
「それに?」
「『なめプ』して奴を逃がして次回に続く。なんてのは、三流の脚本家が話を引き延ばす為に使うだけの手法だよ」
視線をフローラに戻し、下手くそなウィンクをしてみせる。
「なめプ?」
聞き慣れない言葉にフローラが首を傾げる。
「ああ、あっちの世界の言葉で『舐めたプレイ』の略でさ、要は相手を侮ったり見下して本気を出さない事、大体はそれで失敗した時に揶揄して使われる言葉だな」
自分の言葉に得心が居たかのように頷くフローラを見ながら、それとはまた別の事を彼は考える。
かつて『勇者』と呼ばれていた頃から、自分や周りの人、助けを求める人の為に野盗を始めとして人間を殺した事は幾度も有った。
今では震える事もなく粛々とそれを行える自分に、時々思い出したかのように驚く事が有る。
その度に思うのだが、この世界に馴染んだことを喜ぶべきか嘆くべきか。
考えてみればあの頃、魔族よりも人間を殺した数の方が多い様な気がするのは、あまりに皮肉が効いていると言わざるを得ない事ではあるが。
そんな事を考えながら、何時の間にか眺めていた彼の手を、フローラの両手が優しく包む。
視線を合わせれば、優しく微笑み、ただ黙って頷いてくれる。
「フローラには敵わないな」
離した手で頭を掻きながら苦笑する。
「あら、元勇者様を降参させるなんて、私も中々のものね」
口に手を当てフローラが柔らかく笑う。
「まったく、クレア達にはこんな姿見せられないなぁ」
頭を掻いていた手を下ろして腰に当て、肩で息を一つすると、バツが悪そうに再び苦笑する。
「あら、クレアもオフィーリアも、この程度で貴方の事をどうこう言うような子では無いわよ。なんなら、手伝ってと言えばこの仕事も手伝ってくれると思うけれど?」
フローラの言葉に、彼は少し困ったような顔で答える。
「フローラがそう言うならそうなんだろうけどさ。なんというか、柄でも無い事は承知の上なんだが、オフィーリアはともかくクレアにはあまり汚れ仕事はさせたくないというか、綺麗なままで居て欲しいとか思っちまうんだよなぁ」
彼の言葉に、一瞬虚をつかれた様な表情をするフローラだったが、やがてクスクスと笑いだす。
「まるで『お父さん』みたいな言い様ね」
そう揶揄う様に言うと、今度は彼の正面にまわる。
「それと、なんだか私なら汚れても構わないって言っているようにも聞こえるのだけれど、私へはそういった心遣いは頂けないのかしら?」
彼の顔を上目遣いに覗き込みながら首を傾げて見せる。
言われた彼は、そんなフローラを軽く抱き寄せ、綺麗に整えられた髪をかき上げながら、額に軽く唇を落とす。
「フローラはさ、俺が何処に落ちたとしても一緒に居てくれるだろ?」
髪を撫でられて気持ち良さそうに目を細めていたフローラは、ややあって彼の腕から抜け出すと、今度はその腕をとり黙って身を寄せ、その肩に頭を預ける。
そうして二人は、少しの間身を寄せ合いながら、眼下の喧騒を眺めるのだった。
§
「この度はお手数をおかけしました」
いつもの店内、彼の淹れたコーヒーを前に、客の男が頭を下げる。
他に客の居ない静かな店内。壁向こうの庭からは、三人娘の楽しそうな声が少しだけ響いてくる。
「毎度の事だし、俺も納得して請け負ってるんだからそんな気にしないでくれ。あんまり感謝感激されると、返ってこっちが萎縮しちまう」
片手をひらひらさせて見せる。
「で? 今日は奴さんはどうしたんだい? アンタが一人で動いてるのも珍しいな」
「『あの方』でしたら、今日は一日執務室ですよ。溜まった書類を片付けない限り、部屋から出られない様にしてきましたからね」
些か剣呑な表情でニヤリと笑い、そう答える客の男に日頃の苦労が偲ばれ、なんとも言えない気持ちになる。
「まぁそんな訳で、普段なら護衛という名目で連れまわさなければならない近衛の者達も城に置いてくることが出来ましたし、私はこうやって静かにコーヒーを嗜む事が出来ると言う訳ですね」
そう言って、ミルクと砂糖を少量ずつ足して静かにかき混ぜる。
「話を戻しますが、実際の所、私もあの方も、貴方には感謝しているのですよ」
琥珀色を目に移し、静かに言葉は続く。
「清濁併せ呑むのが王の質とは言え、飲み込み続ければやがて王の臓物は腐る。しかし、それを吐き出せば今度は臣下に禍根が残る。いずれも避けたければ、どこかで誰かが汚泥を被らねばならない。ですが、我が国はまだ若く、まだそれを成せる者が居ないのです」
―― 本来なら私がその役目を負うべきなのですが ――
その言葉を飲み込み、客の男は沈黙する。
「まぁ、やるべき事はやれる奴がやれば良いさ。こっちは軒先を借りてる身だ、母屋が崩れたら雨風も凌げない。多少の手伝い程度は請け負うさ」
言いながら新しく淹れたサイフォンを掲げて片目を瞑って見せる。
静かに笑う客が差し出すカップにコーヒーを注ぐと、肩を竦めて言葉を紡ぐ。
「それに、いざとなったら別の軒先を探しに行くだけさ」
その言葉に、客の男は今度は苦笑いを漏らすのだった。
§
客を見送ってから庭に出てみれば、既に料理は粗方片付けられ、食後のお茶で談笑といった具合であった。
フローラが彼の姿に気付くと、残る二人も笑顔で振り返る。
「お疲れ様。お客様はもう帰ったのかしら?」
「ああ」
立ち上がり、彼の傍へと歩み寄るフローラ。
「今回もとっても美味しかったです」
「そいつは何よりだ」
空になった皿を笑顔で指し示すクレア。
「噂に違わぬ美味しさだったね。また取りに行きたくなるよ」
「あんまり危険な事はしないでくれよ」
お腹を擦りながら御満悦のオフィーリア。
―― いつの間にか当たり前になっていた、日常の光景 ――
「とは言え、この軒先にもそれなりに愛着が有るからなぁ」
その光景を眺めながら、誰に言う事無く彼が呟く。
「どうかして?」
「いや、やっぱ平和が一番だなって思ってさ」
顔を覗き込んでくるフローラに、無難な言葉でお茶を濁すと、フローラの隣の席へと腰を掛け、残り物を摘まみながら三人の話に耳を傾ける。
迷宮の事、今日の料理の事、今後の女子会についての展望。彼女達の明るい声で紡がれる物語は尽きる事が無い。
そんな話を聞きながら、時に頷き、時に呆れ、穏やかな時間を過ごしているうちに、クレアが思い出したかのように言葉を発する。
「そう言えば、昨日迷宮の街を歩いている時でしたけど、なんだか変な人に声をかけられたんですよねぇ」
「変な人?」
「はい。私達が街を歩いていたら、急に声をかけて来て……確か、『一晩相手させてやるから光栄に思え』とか『一緒に来れば金を好きなだけくれてやるぞ』とか言って来て……」
「あの男の事ね」
「あぁ、あの俗物の事か」
指を顎に当てて思い出しながら語るクレアの言葉に、フローラとオフィーリアも、それを思い出して頷く
「面倒だから無視していたのだけれど、今度は自分は貴族だなんだと言って、急に腕を掴まれたわね」
「ほう……」
フローラの言葉を聞いた彼の目が細められる。が、
「面倒だからその場で叩きのめしたけどね」
「……よし」
オフィーリアの言葉に平静を取り戻す。
「まぁ、世の中変な奴も居るからな。クレアも、美味しい物を食べさせてくれると言われたからって知らない人に付いて行っちゃ駄目だぞ?」
揶揄う様に言うと、クレアが頬を膨らます。
「わかってますよう。子ども扱いしないでください!」
そう言って、プイっと顔を逸らすクレアの姿に、三人は朗らかな笑い声をあげるのだった。
「そう言えば」
オフィーリアがクレアの膨れた頬をつついているのを眺めていると、隣のフローラが何事か思い付いたように手を一つ鳴らす。
「ん?」
「あの男よ」
耳打ちされる言葉に首を傾げる。
「あの男?」
聞き返す言葉に、フローラが頷く。
「昨日の男。どこかで見た様な気がしていたのだけれど、さっきクレアの言っていた男だったわ」
「そいつは……何と言うか……」
合わせた視線に、微妙な空気が漂う。
「あ~またですよ。 どうですかオフィーリアさん。隙あらばああやって所構わずイチャイチャですよ。私達には聞かせられない秘密のお話ですよ」
「最近知ったのだけどね、クレア、ああいった男女の事を世間では『バカップル』と称するらしいよ。あぁ、念の為に言っておくと、決して誉め言葉として使われるものでは無いからね」
拗ねた様なクレアの声と、呆れた様なオフィーリアの声。
「夫婦の会話ですもの。貴方達には聞かせられないわね」
すまし顔で返すフローラの言葉から、三人娘の話に再び花が咲く。
「期せずして俺も『ざまぁ』してたって訳か……」
そんな三人を眺めながら一人呟く。
―― それなら、もう少しわからせてやっても良かったかな ――
そんな物騒な事を考えながら。
結論だけ言うなら、全てにおいてフローラが最強。
『今回は難産でした』というのを見る度に
『難産で無い時があるんかい!』と言いたくなる今日この頃。
『むしろ難産しかないわ!』と泣きたくなる今日この頃。
繰り返しますが、文才って何処に行ったら売ってるんですかね。
あ、『例の奴』あります。