第26話 『なに故、貴様が、ここにいるのだ』
——これは、いったい何なのだ。
男は、長い間閉じられていた、その瞼をうっすらと開く。
だが視界は定まらず、上げたつもりの声も出てはいなかった。それどころか、身体を起こそうにも、指の一本さえ動かすのも侭ならない。
まるで金縛りにでもあったかのように、自由にならない身体。それに反して、意識だけは次第にはっきりとしてゆくのが感じられた。
開けきらない目に映るのは、見慣れない天井のみ。先ほどまでは、確かに自身の屋敷におり、いつもの座敷で横になった筈である。
しかし意識が戻ってゆくに連れて、少しづつ記憶も蘇ってはくるものの、その記憶もあやふやで、途切れ途切れの怪しいものであった。
思い起こせば、ここ暫くは記憶が飛んでしまうことが、良くあった。朝、城へと勤めに出て、ふと気が付けば、屋敷に帰っているのだ。
最後の記憶は昨晩。予てより体調が優れず、早めに床に就き、そして目を閉じた。瞬きの如く、目を開けてみれば、そこは既に見慣れぬ場所。
男は、もう一度目を閉じると、ぴくりとも動かない身体と、少しも出ない声に抗うべく、その意識を五感に集中し始めるのだった。
○ ● ○ ● ○
——ふむ。いったい何が起こったのだ。
ジュウベエは、最奥の座敷前に立ち、その中を見渡す。
開け放たれた座敷の内は、血飛沫にしか見えない真っ黒な液体が、其処彼処に飛び散っており、惨劇の起こった現場にしか見えなかった。
しかしながら、彼が最も目を引かれたのは、その事ではない。座敷の中程に敷かれた布団と、そこに横たわっている人物である。
血の様な真っ黒な液状のものが、座敷全体を穢しているのにも関わらず、その布団に乱れはなく、その人物の表情は穏やかであった。
さながら目には見えない薄い布で布団ごと覆われ、守られていたかのように、その布団と人物には穢れが及んではいないのである。
さらに驚いたことに、その臥せっている人物の傍らに、まるで看病でもするかのように付き添っているのは、彼の良く知る者であったことだった。
「よう、ジュウベエ」
ハンゾウは、転がっていた宝玉を拾い上げると、顔を上げ、座敷の入り口で立ち尽くしているジュウベエに声を掛ける。
「何故、貴様がここにいるのだ」
まるで、散歩の途中で、偶然顔を会わせたかのような気安い調子のハンゾウの傍らに、ジュウベエは訝し気な表情で近付いた。
「まあ、詳しい話はまた後でな。ときにお前さんは、このお侍とは知り合いか」
「うむ。わたしの旧い友人だ。久し振りに顔を見たいと思ってな。この別邸まで足を運んだのだ」
「すると、ここに来るまでの、あれやこれやは、睨んだ通りお前さんの仕業か……」
「何の話だ、それは。仕業呼ばわりされるような真似はしてはおらぬぞ」
「いやいや、お前さんのお陰で、えらく助かったって話さ。礼を言うぜ」
ジュウベエは、怪訝そうな表情のまま、ハンゾウの隣にすいと座り、友人の愛刀は彼の枕元へと置く。
「わたしとて、道々奇怪な目に遭ってきたのだ。それを振り払ったまでのこと。決して貴様のためではない」
「まあ、そう言うなよ。俺は然る筋の依頼でここへ来たんだ。このお侍が、おかしな事に巻き込まれてるってな」
「おかしいと言えば、この屋敷もおかしなことだらけだ。友の身に何が起きているのだ」
ハンゾウは深く頷くと、ジュウベエに視線で庭を方向を指し示す。
庭の男は、ぎこちない動きで立ち上がろうとしては、何度も膝を付いていた。
その足下には、ジュウベエの愛刀が放り出されたままとなっている。
男の姿を見るやいなや立ち上がりかけるジュウベエを、軽く片手で押しとどめるハンゾウ。
「まあ待て、アイツらのことは俺に任せろ。お前さんには、このお侍の面倒を頼みたい」
「ふむ」
ジュウベエは座り直すと、友人の顔を心配そうに、じっと見いった。
少々やつれてこそいるものの、顔色は思ったよりも悪くないように見える。
だがその様は、穏やかなものながら、生きたまま魂が抜かれてしまったかのような表情だ。
「これは……、やはり妖による障りか」
「ああ、息はあることはあるんだが、まだ色々と戻ってきてねぇんだ」
「うむ」
「お前さんが、こうして側にいてくれりゃ、無事に戻ってくる気がするぜ」
ハンゾウは、つと立ち上がると、ジュウベエたちに背を向け、庭の男へと向かう。
「ああ、そう言えば、ミトも……」
歩き出すハンゾウの背中に、振り向いたジュウベエは何かを言いかけた。
その声を遮るのは、獣の低い唸り声。
折しも庭の男は遂に立ち上がり、よろけながらも歩みを進め始めるところであった。
○ ● ○ ● ○
「コレは、いったいなんなのよ……」
ミトは、娘の所々乱れていた着物を直すと、彼女を膝枕で寝かし付け、その髪を優しく撫でている。
その頭の重みが何故か快く感じられ、その髪から漂う香りはミトの鼻を心地良くくすぐった。
「ジュウベエは、本物だって言うけど……」
手に手を取り、励まし合って、この恐ろしい屋敷に辿り着いたのだ。しかし、彼女は忽然と消え去り、代わりに突然現れたのが、この娘である。
俄には信じ難い話ではあるが、ミトの膝の上、眠るように横たわる娘を見ていると、その話もまた本当のことであるように思えてくる。
「だからといって、お姉さんを膝枕って、どーゆー状況よ」
先ほどまでの恐ろしい形相は、娘の顔からすっかり消えてなくなっており、大人びた雰囲気も影を潜め、子どものような穏やかな表情をしていた。
「でも……、これはこれで、ちょっといいかも……。ってナニ言ってんのよ、ワタシったら」
ミトは溜息をひとつ。改めて見つめる娘は、命のなかった人形に、まるで魂が籠ったかのように美しい。ミトはもう一度、今度は大きく息を吐く。
「……足、シビレてきた……」
そっと娘を抱き起こすと、ミトは彼女から足を外す。先ほどまでは軽かった娘の身体は、今では妙に重く感じられ、ぶつけないよう寝かせるのに苦労した。
「ジュウベエ、いつになったら戻ってくるんだろ」
ジュウベエが座敷を離れてから、どれほどの時が経ったのか、ミトには判らない。
つい先ほど出ていったばかりような気がするし、もうかなりの時が経っているような気もした。
「さてさて、どうしたもんかしらね」
両足を畳の上に投げ出し、大きく伸びをすると、改めて座敷の中をぐるりと見渡してみる。
ふいにミトの鼻が、どこからか漂ってくる異臭を感じ取った。娘を膝枕していた時には、彼女の香りに紛れ、感じなかった臭い。
「むー、ナニかしら、この臭いは……」
ミトは、自分の脇や首筋、果ては爪先まで臭ってみる。しかし、そこにあるのはどこか懐かしい、自分の臭いだけだった。
更に四つん這いで、律儀に座敷の隅へと揃えて置いておいた履物に近づき、鼻をくんくんとさせるも、特に怪しい臭いはしない。
「まー、当たり前よねー。ワタシがこんな変な臭いさせる訳なかったわ」
その場に、どっかりと胡座をかいて座り込んだミトは、腕組みをして座敷の中、臭いの出所を探る。
鼻をひくつかせているうちに、小さい乍らも座敷を照らしていた行灯の火が、遂に油が切れたのか、ふっと消えた。
「うー、段々臭いがキツくなってる気がするー」
暗くなったことで、逆にミトの感覚は研ぎ澄まされる。微かだった臭いは、既に座敷の中に満ちているかのようだった。
鋭くなっているのは、嗅覚だけではない。その耳は、どこかで低い唸り声を上げている獣の気配をも察する。
そして その目は、淡く月の明かりが差し込んでいる障子戸の向こう、庭に唸り声の主の影が揺れていることも捉えていた。
「ふふっ、誰が遊びにきたのかなー」
森の民であるミトは、夜の道も獣も恐れることはしない。妖によって作られた、物音ひとつしない暗闇とは違って、そのどちらも森の同胞と呼んでも差し支えはないからだ。
昨日のように、獣たちが全ていなくなってしまったような山は昼間でも怖いし、今宵のような目隠しをされたかのような、真っ暗な屋敷の廊下は恐ろしかった。
しかしながら今は、そのどちらでもない。障子に映る影は三角の耳とピンと立てられた太い尻尾。それがどんな獰猛な猛獣であっても、妖よりは扱いは易しい。
「キツネかな。タヌキかな。オオカミ……ってことはないか」
立ち上がったミトの耳に、突然鋭い獣の叫びが聞こえる。聞き覚えのあるその鳴き声に、座敷と庭を隔てる障子戸へと急ぎ足で駆け寄るミトであった。




