第20話 『顔を見た途端、蹴り飛ばしてやる』
ジュウベエは、消えかけた行灯の薄明かりに照らされた娘に、射るような視線を投げる。
その問いに狼狽することもなく、逆にその視線をも撥ね除けるように、娘は問いを返した。
私は、この屋敷の主が許嫁です。それ以外の何者だと貴男はおっしゃるのでしょう——。
はらりと落ちた前髪の奥から覗いている、その瞳には得体の知れない情念が宿っている。
娘は更に何かを誘うように身体を寄せ、やけに冷たいその細く白い指先がジュウベエの頬を撫でた。
「よしなさい。若い娘が、男の顔などに無闇と触れるものではない」
ジュウベエは、表情を崩すことなく、その惑わすように蠢く指を、振り払うように遠ざける。
だが、娘は着物の裾を開け、その滑らかなで真っすぐな臑を露にすると、彼に撓垂れ掛かった。
ふふふ、女の私に、恥を掻かせないでくださいな——。
しなを作った笑みと共に、娘は襟元を大きく緩めると、その滑らかな鎖骨を見せつけるかのように肩まで開ける。
そしてジュウベエの首に両の腕を素早く回すと、彼の耳許に顔尾を近づけ、ふうっと甘い息を吹きかけた。
「わたしには、友人の許嫁を寝取る趣味などない」
ジュウベエは、娘の腕を振りほどこうと、片膝を立て乍ら、その柔からな腕をそっと押しのける。
しかし、彼女は若い娘のものとは思えぬ強い力で、ジュウベエの身体を抱きしめて離さなかった。
「友もまた、己の許嫁を、他の男に差し出すような嗜好はない」
ようやくその腕を振り解いたジュウベエは、一瞬の隙を突いて、掌で娘の肩を軽く押すと、即座にその場で立ち上がる
娘は、後方へと大げさな動きで仰向けに倒れ込み、着物の裾は尚一層乱れ、その真っ白に艶めく太腿までをも露にした。
上半身だけを起こした娘は、上目使いでジュウベエを見つめながら、緩んだ胸元を更に開け、柔らかな曲線を描く鎖骨を見せつける。
もしも今、私が大きな悲鳴でも上げたら、どういうことになるのでしょう——。
しどけない姿となった娘は、勝ち誇ったような流し目を、立ち尽くすジュウベエへと、艶かしく送ってくるのであった。
○ ● ○ ● ○
ハンゾウは、目の前の襖戸の引手に指を掛けると、それを音もなく、しかし一気に開け放つ。
まず目に入ったのは、月明かりの下、驚いた表情でこちらを振り向く使用人風の出で立ちの男。
両手で抱えるように黒光りする宝玉を持ち、その腰にはジュウベエの愛刀と思しき得物を差している。
そして座敷の中程、その足下に臥せっているのは、それこそが領主の子息であろう、痩せ細った面立ちの若い武士。
向かいの座敷に囚われていたであろう許嫁の姿が、この場に見えないのは少々気掛かりではあった。
が、しかし、ハンゾウは、一瞬で勝負を付けるべく、拳を固め、入り口から一足飛びに前へと飛び出す。
男の驚いた表情は一瞬のうちに消え去り、その顔には、気味が悪い程の笑顔が張り付くように広がった。
と同時に、ハンゾウの拳をそれで受け止めるかのように、男は両手で持っていた黒い宝玉を眼前に翳す。
宝玉を捨て、腰の得物を抜き放つだろうと予測していたハンゾウは、男の挙動に思わずその足を止めた。
ハンゾウの百戦錬磨の直感が、全力で宝玉から漂ってくる異様なる妖気、その危うさを訴えてくるのだ。
宝玉から漂いくる妖気は、並の人ならば、目にしただけでも正気を失い、その全身から力を奪い取られてしまうであろう程の強さで放たれていた。
さしものハンゾウも、迂闊には近寄れない。彼は、宝玉の妖力を跳ね返すように全身に力を込めると、男を鋭く睨みつける。
床に臥せっている子息を挟み、ハンゾウの紅い瞳と男の虚ろな瞳、それぞれが放つ視線が火花を散らすが如く交差した。
先に動いたのは、男の方だった。翳した宝玉に何かぶつぶつと囁くと、そこから黒い粘液が恰も血のように滴り落ちる。
畳の上でぶくぶくと泡立ち、気味悪く蠢く黒い粘動体は、少しずつ人の姿をなし、一歩ずつ後ずさってゆく男を、守るかのように立ち上がった。
臥せっている子息を乗り越えて迫り来るその腕を、ハンゾウは払い除けるように躱すと、渾身の一撃を、敵の頭部と思わしき場所へと叩き込む。
しかし彼の拳は、腐った果実を殴り飛ばしたかのように、ぐちゃりとした嫌な手応えと共に、ぬるりと敵を突抜け、相手にその力は届いていない。
頭部と思われる部位を盛大に飛び散らせながらも、敵の腕はずるずると触手のようにハンゾウへと伸び続け、遂には彼の首筋を捉え、締め上げてくる。
敵は再び粘液状に姿を変えると、ハンゾウへと伸ばした腕を伝うように本体を引き寄せ、彼を覆うように広がり、その上半身を飲み込んでゆくのだった。
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ミトと娘は、遂に目指していた屋敷の門戸の前に立つ。先に飛び込んでいった筈の仔猫の姿は、どこにも見当たらない。
そこから見える景色は、ふたりと同じように月明かりの下にあるというのに、靄が掛かっているかのように薄暗い。
しんと静まりかえり、灯のひとつも見えないその屋敷は、いかにも妖の潜む隠れ家のような雰囲気を醸し出していた。
ふたりが顔を見合わし、頷き合うと、手に手を取って門戸を潜った途端、行く手を阻むように冷たく重い空気が包み込む。
それが森の中であったなら、例え深夜であっても平気なミトも、この妖気に満ちた屋敷となると話は別である。どうしても、気味の悪さが先に立ってしまうのだ。
ミトは、自分と娘とを繋ぐ、ひんやりとしたその手をぎゅっと握り、勇気を振り絞って前へ立ち、歩みを進める。
白く浮き上がる踏み石を頼りに歩み、やっとの思いで玄関まで辿り着くと、邸内に向かって小さな声で挨拶をしてみた。
「ごめんくださーい」
当然どこからも返事はない。玄関に手を掛けて、そっと引くと、意外なことに鍵も掛かっておらず、音もなく戸は開く。
恐る恐る中を覗いてみると、家人が出てくる様子もなく、邸内には尚一層の深い闇が広がっているばかり。
「おジャマします……よ?」
上框を土足のまま上がるのには一瞬の躊躇いがあった。しかし構わず、そのまま奥へと続く廊下へと上る。
ふたりは、この別邸に招かれて訪れた訳ではない。しかも、いつどんなモノが飛び出して来るのかも判らないのだ。
だが、ふたりには、この別邸に至る前のような、竹林に足を踏み入れた時ほどの不安はない。
それは、繋いだ手と手が、互いの存在を伝え合い、ひとりきりではない実感を齎してくれるからであった。
薄暗い廊下を、足音を立てぬよう静かに進む。玄関から何歩も歩いてはいない筈なのに、いつの間にか辺りは真っ暗な闇と化している。
目の前に自分の手を翳してみても、それすら良くは見えない。正しく鼻を摘まれても判らない闇の中であった。
ふと不安になって、ミトは後ろを振り返る。手を引かれ、後ろを歩んでいる筈の娘も闇に包まれ、その姿は確認できない。
玄関から差し込んでいた月の明かりは、既に届かなくなっていたばかりか、その玄関すら見えなくなっていたのだ。
夜目が効く筈のミトの瞳も、何者かに目隠しをされたかのように、闇だけしか映しはしない。
急な不安と恐怖にかられ、その場にただ立ち尽くすミト。
しかし、その時、後ろで娘と繋いだ手が、ぎゅっと強く握られる。
何も見えない筈の暗闇の中、ミトには、娘がにっこりと微笑んで頷くのが見えた気がした。
笑顔で応え、再び前方と思わしき方向へ歩み始めると、遥か彼方に、どこかの座敷から漏れ出る灯りに気付く。
この屋敷が、それ程の広さを持っているとは、到底考えられないが、灯りが見えている所までは遥かに遠く思えるのだった。
妖ものどもが仕掛けた罠なのか。あるいは、その力によって、この別邸は既に迷宮と化しているのか。
どっちにしても、あの灯りを目指すしかない。怪しいヤツは、その顔を見た途端、蹴り飛ばしてやるわ——。
あれほど冷たかった、繋いでいるの娘の手から、ほんのりとした温もりが伝わってくるのを感じる。
ミトは、再び娘と繋いだ手を、もう一度、ぎゅっと握り直すと、待ち受ける闇の中へとゆっくりと歩み出すのであった。




