第18話 『思う存分喰らうがいいさ』
いつぞや見上げた月も、今宵と同じように大きく赤かった——。
男は庭側の障子戸を開け、頭の上の妖しく輝いている、赤く大きな月を見上げる。
大きな赤い月。あれは、自分にとって吉兆やもしれん——。
足下で床に伏す領主の子息を見下ろし、男は口元に浮かべた笑みを尚一層深めた。
隣の座敷には、子息同様、あの娘も捉えてある。ふたりの生き死には、いまやこの掌の上だ。
後に残るは、城にいる領主だけだ。その領主も、いずれはこれを使って——。
男は、懐に忍ばせた、更に大きく育った黒い宝玉を撫でるのであった。
この町に戻って来てからは、何もかもが男の思い通りに事が進んだ。
とは言え、特に男が何かを画策し、事を構えたという訳ではない。
あれ以来、夜毎男の前に現れるようになった、あの女に誘われるがまま、この別邸に潜んでいただけなのである。
ただ一つ、男が為したことは、あの女の用意した怪し気な呪符や陣を、別邸や、それを取り囲む竹林のあちこちに設置しただけであった。
どういった手管を使ったのかは知らぬが、男があの女に手渡した黒い宝玉は、企み通りに子息の屋敷に届けられていた。
一度だけ子息の屋敷へと、様子を伺いに赴いたところ、屋敷の飼い猫が毛を逆立てた以外は、男を訝しむ者も既にいない。
男の父親と時と同じように力を発揮した宝玉は、子息から力を奪い、彼は虫の息でこの別邸に運び込まれた。
子息と共にやってきた彼の家の使用人たちも、何をどうしたのかは判らぬが、女の言うがままに動く、生きた傀儡と化している。
その後この別邸を尋ねて来た者たちは、悉く皆、この場に辿り着く頃には、使用人たちと同様に女に操られる存在となっていたのだ。
男は一度だけであるが、興味本位で、あの女が人を傀儡と化す場面を、覗き見てしまったことがあった。
あの女は、この別邸に近づく者があると、何処ともなくその姿を現す。暫く後にその者たちは、女に引き連れられ別邸へとやってくる。
年齢も性別も区々な、その者たち。中には屈強そうな武士もいた。どのような手練を使うのか、男は常々不思議に思っていたのだ。
月が妖しく輝くある晩に、男は別邸を出て行く女の後を尾ける。長い竹の小径を、暫し歩いた所で足を止め、柵の陰に身を隠して様子を伺った。
小径の半ばには、一日中必死の行軍をした後であるかのように、疲れ切ってへたり込んでいた領主の使いと思しき武士たち。
重度の疲労で、身体の自由が効かない彼らに近づいた女は、その身体を抱き起こすと、愛する者同士が睦み合うかのように唇を寄せる。
唇を吸われたその武士の、女から離れようと抗う手の力は徐々に失われ、遂にはだらりと垂れ下がるように落ちた。
その様子を見ていた他の者たちは、這いずるように逃げ出そうとするのだが、背後より迫った女は彼らを強引に抱き寄せる。
次々に武士たちと死神のような接吻を交わした女は、隠れている男に気がついたかのように、こちらを振り返った。
咄嗟に伸ばしていた首を縮めた男には、その瞬間、逆から差す月光で判らぬ筈の女の顔が、あたかも笑っているかのように見える。
尋常な感覚であれば、女に対し、男は恐れ戦く場面であろうと、自ら思ったが、男からは、もはやそういった感情が抜け落ちていた。
寧ろ、女を頼もしく感じ、あの怪し気な若旦那が、『あの方』などと言って、慕っていたのにも腑に落ちた思いすらする。
男は踵を返し、別邸へと帰る。そして女が籠絡した武士たちを率いて戻るのを、何事もなかったかのように迎えるのであった。
その後、この別邸まで無事に辿り付けた者はいない。
ただ二人の例外を除いては。
その内の一人は、この足下に伏している忌々しい領主の子息、その許嫁である娘であった。
あの影のような女が現れない、まだ陽の高いうちに、この娘は別邸へとやって来た。見舞いの品を手にしていた娘の腰には、あの時とは違い得物はなかった。
男は使用人の振りをして、娘を座敷へと案内する。自分を娶りたいと請うた者の顔さえ覚えていないかのような、和やかな挨拶に男は苛立つ。
すぐにでもその娘に、浅ましい欲望を打つけたい男の頭の中に、あの女の声が響く。男はその声に導かれるまま、あの黒い宝玉を娘へと翳した。
その途端に娘は、全身から力が抜けたかのように、がっくりと畳の上に伏せるも、気丈にも顔だけは男を見上げ、きっと男を睨みつけている。
だが、ふっと何かに気が付いたかのように、娘の表情に怯えが走る。更に宝玉と共に、自らの顔を近づける男の前で、娘は頭を垂れ、気を失った。
身動きのできない子息の目の前で、娘と事に及ぶことにしよう——。
男は、その下衆な思いつきに笑みを浮かべると、虚ろな目をした使用人たちに、意識をなくした娘を別邸の奥へと運ぶよう命じたのだった。
もう一人は、今宵尋ねてきた、あのジュウベエとかいう男だ。
男は玄関口にて、娘の時と同様に黒い宝玉の力を使おうと何度か試みてはいた。しかし、ジュウベエには、隙というものが全く見当たらない。
宝玉によって膨らんだ懐に手を入れた途端、宝玉を取り出す前に、その手諸共に一刀にて斬られそうな気すらするのだ。
無理矢理にでも帰そうとするも、ジュウベエから向けられた視線に、男の身体は縫い止められたように動けなかった。
だがその時、男には、あの女の囁きが聞こえる。その囁きに従って、ジュウベエを座敷へと招き入れた男は安堵の溜息を洩らした。
あの女に任せておけば、あのジュウベエとやらの命も、風前の灯火というものだ——。
男は、あの女が蠢き始めた気配を感じながら、再び月を見上げる。大きな赤い月に照れされる男の顔には、不気味な笑みが浮かんでいるのだった。
○ ● ○ ● ○
ハンゾウは、頭の上から差し込む月光の下、修めた体術独特の歩行法を以て、竹林の小径を進む。
小径の其処彼処に、別邸へと向かう者を惑わせる術を施したと思しき跡が散見された。
が、それらの殆どは何者かの、おそらくはジュウベエの手によって破壊されている。
あとに残っているのは、妖モノが『何某かの何か』を行った痕跡だけであった。
人が自らの内に宿る『力』を使おうとするならば、『術』や『技』を会得し、それらの研鑽に努めなければ、簡単には為せない。
宿る『力』の量も区々であり、向き不向きさえあるのだ。決して『力』だけに頼って生きていくのは得策とは言えないだろう。
しかしながら、人の悪しき情念が固まり、そして各個の意識を持つに至ったとも言える、妖どもの場合はそうとは限らない。
妖どもにとって『力』を使うということは、必ずしも人に仇なそうという意図すらない場合も多いのだ。
そこにあるのは純粋な欲望だけであるとも言われおり、それはただ、妖どもが生きていく為の手段にしか過ぎないこともある。
逆に捉えるならば、妖どもには、人としての理性や感情を要する『術』も『技』も使うことはできない。
自らの『力』を使えば、事は簡単に進むものを、わざわざ人を操ってまで術を施したのは何故であろうか。
この竹林に棲み、誰か人を使って術を施した妖は、『食事』をしたのであろうと、ハンゾウは考えている。
そしてまだ、実体化の途中か、更なる『力』を求めたのか、その妖は今以て、現在進行形で『食事中』なのであろう。
肉体を持たない類の妖が、自らを人や獣の形を取って実体化するのには、大きな『力』が必要になるのだ。
その妖は実体化するにあたって、持っている『力』の多くを、そこに割いているのだろうと推し量られた。
用心深く竹林に術を施したのは、それらを補う為のものか、あるいは『食事』を邪魔立てさせないためなのか。
人を喰らう妖は数多くいるが、人だけを喰らう妖は、そう多くはない。大抵の妖は雑食である。
また、人の肉を喰らう妖だけでなく、人の魂だけを好んで喰らう妖となると、更にその数は少ない。
『魂』と『力』は密接に繋がっている。強い『魂』を持つ人は、また強い『力』をも持っているのである。
その強い『魂』を喰らうということは、妖にとっては強い『力』を手に入れるのと同義なのであった。
俺の考えが正しけりゃ——。
ハンゾウは、最終的に滅しなければならない敵に考えを巡らせる。
領主の言ってた横恋慕男は、ただの傀儡だろう。その後ろには、かなりヤバいヤツが潜んでやがる——。
死なない程度に魂を喰らい、残った身体に、妖自身の一部を移して操るという、おそらくは悪霊などに近い存在。
もし、横恋慕男の後ろ盾が、実体化を為した妖だったとしたら、その力は相当強いものだと考えていい。
だが、相手が悪かったな——。
ハンゾウの、その瞳と髪は既に深紅に染まっている。
その全身は、彼の持っている、溢れんばかりの『力』によって覆われていた。
俺の力が喰いてえってんなら、思う存分喰らうがいいさ。その口に合うかは判らんがな——。
辿り着いた別邸の前に立つハンゾウは、開け放たれた門戸より、その内に隠れているであろう敵を睨みつける。
一見普通の武家の屋敷だが、中からは異様な妖気が溢れ出している。
彼の紅の目は、それを見逃すことはないのであった。




