第10話 『こいつは化け猫ってヤツなのか』
ハンゾウに迫る、怪しく光る目は、小さな鳴き声を上げる。
そして、その小さな口からは鋭い牙を覗かせると、遂にはハンゾウに飛び掛ってきた。
……ね……こ——。
ハンゾウの足下に、果敢に飛び掛かってきたのは、一匹の猫であった。
こんなチビ助が、あんな妖気を放ってたのか——。
足下の猫は、まだ生まれてから一年にも満たないような、仔猫である。
こいつは、化け猫ってヤツなのか——。
ハンゾウの心の中には、うずうずとした何かが沸き上がる。
いや、化け猫でも構わねぇ——。
ハンゾウは、しゃがみ込むと、仔猫の首筋や顎の下を、もふもふと撫でた。
「よしよし、いい子だ」
人に言うことは少ないが、ハンゾウは大の猫好きであったのだ。
こんなことしてる場合じゃねぇんだが——。
ハンゾウは腰の雑嚢から、丸く固めた携帯食を取り出すと、掌の上でそれを砕いて、仔猫に与えた。
昨日ミトから貰った、森の民の非常食とは比べるべくもないが、これもまた、ハンゾウの一族秘伝の携帯食であった。
味も塩気もねえもんだが、この子は気に入ってくれたみたいだな——。
腹が減っていたのか、仔猫はハンゾウの掌に載っていたものを、きれいに平らげる。
満足げに、口の周りを舌で舐める仔猫。堪らず仔猫を抱き上げるハンゾウ。
抱かれた仔猫は、仄暗い月明かりの下、瞳孔を丸くしてハンゾウを見つめる。
恐ろしい子、さすがは魔性の獣——。
その可愛い様に、ハンゾウは心のうちのどこかを、きゅっと掴まれるような思いだ。
だがしかし、ふいに仔猫は、彼の腕を逃れ、足下に飛び降りる。
ハンゾウの前を何歩か駆け出すと、彼を振り返り、一声鳴き声を上げた。
「何だ、ついて来いっていうのか」
ハンゾウの言葉に応えるように、仔猫は一声上げると、竹林を目指して駆け出す。
「おい、ちょっと待てよ」
思うより素早い動きの仔猫。慌ててハンゾウは、その後を追い掛けて走り出すのだった。
○ ● ○ ● ○
ふぅーっ、お腹いっぱーい——。
自室に持ち込んだ、空の櫃や、茶碗や皿などを食堂の洗い場に返してきミトは、寝台にごろりと横になる。
ふたりとも、どこにいっちゃったのかしら——。
油を炊いた灯りで、部屋の中の中は明るいものの、外はとっぷりと日が暮れて、宵闇が訪れている。
まあ、いいか。男同士の付き合いってやつもあるんだろうし——。
先日と違って、出掛けて行くふたりの顔は、戦い前のものではなかった。
食事も美味しかったし、今日はほんとに楽しい一日だった——。
タコもアンコウも、当てが外れて、がっかりすることの多い一日の始まりだった。
しかし、同胞のお姉さんにも出会うこともでき、思わぬお小遣いも入った。
ミトは、そのお金を持って、つい先ほど日が暮れるまで、兄様の旅の手帖を片手に、町中の店々を巡っていたのだ。
そして買い込んだ名物料理を、自室に持ち込むと、食堂からお櫃ごと炊いた飯を買い取り、ひとり宴を繰り広げていたのである。
ご飯が炊きたて、汁物も作り立てだったのも僥倖ね——。
食堂では、任務上がりの冒険者たちの来店を見込んで、丁度飯を炊き上げ、汁物を仕上げたばかりだったのだ。
でもカマボコが、あんな風に作られているとは思いもしなかったわ——。
都でミトの食べる蒲鉾は、既に切り分けられ、皿に盛られたものばかりだった。
皮を剥ぎ、骨を抜いた白身魚を、杵で搗き、板に盛って、それを蒸し上げるという工程を、ミトは店先からじっと見ていたのだった。
それがいったい、何と言う食べ物なのかは彼女には判らなかったのだが、余りにも美味しそうだったので、即座に買い求めた。
紙に包まれたそれを、受け取る際に店の者に教えて貰って、初めてそれが都でも良く食べていた蒲鉾である、ということを知ったような次第であったのだ。
でも何かが、物足りない——。
腹は満ちているものの、寝台の上でミトは考える。
蒲鉾を始めとした買い込んだ名物料理も、食堂で仕入れてきた飯も汁もきれいに平らげた。
しかしながら戻らないふたりは放っておいて、先に寝てしまうには、時間が早過ぎる。
お酒でも飲んじゃおうかな。煩いふたりもいないし、これは良い機会かも——。
日頃から、兄様を始め、家の者には子どもとして扱われるミトである。
確かに見知った同胞の中では、一番の年少であるし、成年となるには、後何年の歳月が必要ではあった。
しかしながら、人の子はただの十数年ほどしか生きてはいないのに、大人として扱われているではないか。
あのふたりも然り。ミトを子ども扱いして、酒を飲むことを決して許してはくれないのだ。
実に不公平な話じゃないか——。ミトは心のうちで憤慨する。
がばっと、寝台より身を起こしたミトは、生まれて初めて、酒を嗜んでみることを決意するのだった。
○ ● ○ ● ○
頭上から差し込む月明かりの下、ジュウベエは友人の別邸を探し歩く。
灯の漏れている屋敷があれば、そこが友人の別邸に相違あるまい、と考えていたのだ。
しかし、ぽつりぽつりと並ぶ、屋敷の何れからも灯はなく、人の居る気配はない。
竹で拵えられた塀の向こうの屋敷は、どこもしんと静まり返っている。
ふむ——。
しかしながら、ジュウベエは、その内の一件の門戸の前で足を止めた。
その屋敷から、こちらを伺うような、嫌な視線を感じたのだ。
手にした提灯で表札を照らすと、果たしてそこには、友人の名前が刻まれていたのだった。
ジュウベエは、門戸を引くと、塀の内側へと足を踏み入れる。
途端に妖しげな気配が濃くなり、四方八方から彼を包み込み、押し戻そうとした。
庭に……何人だ……敵が潜んでいるのか——。
提灯の灯りを、妖しい気配を醸し出す庭に向け、ジュウベエは仄暗い闇を探るように熟視した。
その瞬間、灯りを避けるかのように、人であって人でないような妖しい気配は霧散する。
確かに、何者かがいたと思ったのだが——。
ジュウベエが、再び提灯を玄関の方へ向けると、そこまで続く踏み石が、ぼうっと白く浮かび上った。
踏み石を囲む地面はやけに真っ黒で、足を踏み外した者を飲み込む、底なしの沼であるかのようにも見える。
石の上を歩み、玄関先へと辿り着いたジュウベエは、友人の名を呼んだ。
案の定、返事はない。だが玄関の内からは、妖しい気配をより一層強く感じる。
ジュウベエは今一度、玄関の頑丈そうな木戸を叩きながら、友人の名を何度も叫んだ。
やはり、返事はない。が、内側の妖しい気配が、ゆらりと動き、がらりと戸は開かれる。
そこに立っていたのは、いかにも使用人といった出で立ちの男だった。
腹でも痛むのか、片手は着物の上から盛んにその辺りを撫でさすっている。
どちら様でしょう——。
男は、顔に貼り付けたような笑みを浮かべ、ジュウベエを迎える。
ジュウベエは、懐から家紋の入った札を見せながら名乗り、友人を尋ねてきた旨を伝えた。
あいにく、主人はもうお休みになられております——。
お日を改めて……と、木戸を閉めかけるのを、ジュウベエは強引に遮る。
「肝要な案件だ。是非お目通り願いたい」
ジュウベエは、彼よりも幾つか上であろう年格好の男を、眼光鋭く睨みつけた。
承知いたしました。ではこちらへ——。
暫し、笑顔のまま視線を受け止めていた男だが、そう言うとジュウベエを土間へと招き入れる。
刀を腰から抜き、上框に腰を掛けて、草鞋を脱いでいたジュウベエに、
刀を、お預かりします——。
そう告げると、男は刀を両手で捧げ持つようにして、屋敷の奥へと消えてゆく。
その後、すぐに、再び男は姿を現したのだが、その手に刀は見当たらなかった。
主人より、申し付けられた決まりですから——。
気味が悪いほどの笑顔で、男はそれだけ言うと、ジュウベエを、行灯が点された狭い座敷に通す。
暫く、お待ちください——。
やはり気味の悪い笑顔を顔に貼付けたまま、男は座敷を出ていったのだった。
ジュウベエが、屋敷の中へと招き入れられた暫く後のことだ。
庭の片隅に蹲っていた、その人影は、ふわりと立ち上がる。
月の明かりも届かない、ものの影に潜んでいたその者たちは、庭の中、あちらこちらから姿を現した。
刀を始め、包丁や鉈、手近な得物を手にした彼らは、ふらりふらりとした足取りで、次々に門戸の外へと出ていく。
月の明かりに背を向けた、彼らの顔には暗く影が掛かり、その表情は良く判らない。
人であって人でないような、生きながら死んでいるかのような、妖しい気配を撒き散らしているだけだ。
そして、ただただ虚ろな目だけを妖しく光らせて、竹の小径をゆらりゆらりと進んで行くのであった。




